第65話 マスキャット
セダンのハンドルを握っている老人を落ち着けるのには、数分の時を要したようだ。
車を持ち上げてタイヤを地面から離し、走ろうにも走れなくする。ルキアが選んだ手段は強引ではあったものの、お陰でガードレールが破壊される以上の被害は出なかった。
改めて、それだけで済んでよかったと胸を撫で下ろす。もしもルキアがこの場にいなければ、きっとセダンはあのまま暴走して何人もの人を撥ねたはずだ。そうなれば多くの死傷者が出ただろうし、あの老人だって殺人犯の烙印を押されることになっていたに違いない。
ドラゴンの力は、正しく使われれば人を守る強力な武器となる。
ドラゴンによる犯罪が深刻な社会問題として取り沙汰されている今の世の中だが、ルキアのようなドラゴンがいることは心強く思えた。
「まったくもう……あのおじいさん、早いところ免許を返納させたほうがいいわね」
警察官からの事情聴取を終えて、ルキアが俺のほうに歩み寄ってきた。
そう、この場には数人の警察官が集まって事故の調査を行っていた。人間の警察官がほとんどだが、中にはリザードマンも混ざっている。壊れたガードレールやセダンを調べたり、周囲の人々に聞き込みをしたり……警察官は皆それぞれ、各々の職務を遂行していた。
当事者であるルキアも質問を受けたが、二分くらいで済んだようだ。
「何か訊かれたのか?」
「軽く経緯を説明したら、感謝されて終わったわよ」
俺の問いに、ルキアは首を横に振って応じた。
感謝されるのも当然だろう。ルキアの機転がなければ、今頃ここは大事故の現場になっていただろうから。
そこでふと、俺は彼女の他にも事故を防いだ立役者がいることを思い出した。
そう、横断歩道を渡ろうとしていた女性と女の子を両手で抱き留めて引き離し、暴走車から救ったあのイフリートだ。
「君達、大丈夫か?」
不意に声を掛けられて驚いたが、その声の主を見てさらに驚いた。
俺とルキアに歩み寄ってきたのは、親子を救ったあのイフリートだったからだ。猫背にゴツゴツとした外殻、外見的特徴からして間違いないと俺は確信する。
「あれ、あなたもしかして……?」
そのイフリートを間近で見て、ルキアが何かに気づいたようだ。
どうしたんだと尋ねようとしたが、それより先にイフリートの身体が淡い光に覆い包まれた。
ドラゴンが人間の姿に変身する時に発せられる光――その中から姿を現した少年には、俺も見覚えがあった。
「やっぱり、レオン!」
「まさか、こんな場で会うとはね」
ルキアが『レオン』……と呼んだ彼の顔を見て、俺はさっきから抱いていた既視感の正体に気づいた。
見覚えがあって当然だった、というのも彼は俺が通っている高校のドラゴンガードなのだから。直接言葉を交わしたことはなかったが、遠目にその姿を見たことはあったと記憶している。
ルキアと知り合いだったのかと思ったが、同じドラゴンガードである以上、互いに面識があっても不思議はないだろう。
「車を持ち上げて暴走を止めるとはね。なかなかやるじゃないか」
「あ、あはは……とにかくもう止めなくちゃって、無我夢中だったから」
ルキアは、照れ隠しをするように指先で自分の頬をぽりぽりと掻いた。
すると彼……レオンは俺のほうを向いてきた。
「あ、彼は私のホストファミリー。智っていうの」
ルキアが俺のことを紹介してくれた。
「はじめまして……でもないかな? 学校で顔を合わせたことがあったよね」
レオンの言葉に、若干の嬉しさを覚えた。
俺は彼のことを認知していたが、レオンのほうも俺を記憶に留めておいてくれたらしい。
「松野智です。さっきの見てたけどすごかったな、あんな一瞬でふたりを抱えて助けるなんて……」
女性と女の子を救った彼を、俺は称賛した。
レオンがあのふたりを助けなければ、最悪の事態は避けられなかったに違いない。ふたつの命を繋ぎとめた彼の功績は、とてつもなく大きいものだと思えた。
「ドラゴンガードとして……いや、そうでなくても当然さ。俺達ドラゴンの力は、人を守るためのものだからね」
レオンが返してきたのは、どこかで聞いたことがある言葉に思えて……俺は思わずルキアを向いた。
彼女は何も言わずに、俺と視線を重ねてくすりと微笑んだ。
その後、俺達は事故現場を後にした。危うく撥ねられるところだった女性と女の子は無傷だったし、ルキアが強引に暴走車を止めたことも功を奏した。人通りの多い場所が現場だったが、幸いにも死傷者は出なかったのだ。
なので、この事故で発生した被害はガードレールとあのセダンの破損に留まった。賠償金はそれなりの額になるのだろうが、人の命には代えられない。
ルキアが言っていたように、あの老人には早いところ免許を返納させたほうがいいだろう。
「にしても、良かったな。レオン、気が合いそうな仲間なんじゃないか?」
買い物袋を片手に提げつつ、俺は隣を歩くルキアに問う。
袋の中身は、ついさっき買ったばかりのみりんだった。母さんが愛用している銘柄のこのみりんが、俺とルキアがデパートに向かった目的だった。
「まあね。最初はお堅いかもと思ったけど……何だかんだで彼も、人を守るドラゴンガードであることに変わりはないみたいだし、サンドラも『信頼できる』って言ってたしね」
レオンと初めて会った時、何かあったのだろうか?
少し気になりはしたものの、詮索しようとは思わなかった。
ともあれ、無駄に時間を食ってしまったな。きっと母さん、俺達が帰ってくるのを待っているだろうし……早く家に戻らないと。
と思いつつ歩を進めていた時、ふと歩道脇に設置されたカプセル自販機が目に留まった。
「大当たりは『マスキャットキーホルダー』……?」
緑色をした猫のキャラクターがプリントされたそれを見て、思わず笑ってしまった。
なるほど、『キャット』と『マスカット』をかけたわけか。
大当たりはマスキャットキーホルダー……ということは、必ずしもこれが出るわけではないってことか。それ以外に何が出てくるのかは一切表記されていないので、適当な景品が無作為に入ってるんだろう。
その時、俺はふと思い出した。
今俺の隣にいるドラゴン少女の好物はマスカット、ということは……と思って振り返ると、案の定だった。
「ちょっとちょっと何これ、可愛い、欲しい欲しい!」
ルキアは目を輝かせていた。
ちょっ、マジか!? こんなダジャレから生まれたようなキャラクターに一目惚れしてしまったのか。
「いや、でも大当たり枠だぞ? 必ずこれが出るとは限らないし、そもそももう取られちまってて入ってないかも……!」
そんな俺の言葉など意にも介さず、ルキアはカプセル自販機の前にしゃがみ込んで百円硬貨を投入し始めた。料金は、一回二百円だった。
さっそく出てきたカプセルを取り出したルキアは、すかさずそれを俺に投げ渡してきた。
「わっ、と、何だよ……!」
不意だったので大いに戸惑ったものの、俺はどうにかカプセルをキャッチできた。
「ハズレ。そのみりんの袋に一緒に入れといて」
俺の返事を待とうともせず、ルキアはまた百円玉を投入し始めていた。
ガコンという音が鳴り、二個目のカプセルが排出される。
「またハズレね」
ルキアがほんの数秒カプセルを見つめたかと思うと、また俺に投げ渡される。
こっちを見ないで投げているのに、的確に俺の手元に飛んできた。コントロールの良さに感心してしまう。
「おいおい、マスキャットが出るまで回す気か? ていうかお前、百円玉持ってたのかよ?」
問いかけるが、夢中になっているルキアはこちらを見ようともしなかった。
「当然でしょ、ドラゴンガードの給料が出たからね。お母様に収める分を差し引けば、あとは私が自由に使えるってわけなのよ」
その後もルキアはガチャを回し続けた。
結論的に、彼女お目当てのマスキャットキーホルダーはゲットできた。しかし、それが出てきたのは十四回目。経費にして二八〇〇円。みりんだけが入っていたはずの買い物袋は、たちまちパンパンになってしまった。
マスカットが好物なルキアにとっては、まさしく垂涎物のキャラクターだったのだろう。それにしてもこれが出てくる保証があるわけでもないのにそこまでつぎ込んでしまうあたり、一旦火が付くと止まらなくなるタイプみたいだな。
見事マスキャットキーホルダーを引き当てた時のルキアの喜びようは、それこそ言い表せないものだった。