第64話 イフリート
轟音と悲鳴に引き寄せられるように、俺とルキアはそれが発せられたほうへと向かった。
続々と集まる野次馬達、騒然とする市街――その惨状が俺の目に映ったのは、すぐのことだった。
道路脇に、一台の車が停車していた。だがもちろん、ただ停まっていたわけじゃない。ただ停まっているだけならあんな轟音は発せられないし、野次馬がこの場に集まることもない。
どうしてそうなったのかは見当もつかないが、その車は道路脇のガードレールを破壊し、その残骸に乗り上げる形で停まっていた。車に詳しくない俺は車種こそ分からないが、とりあえずセダンの白い車だ。
高齢者に根強く人気がある車、どこかでそう聞いたことがあったような……と思いつつ、さらに駆け寄ってみる。そして暫定的ながら、俺の記憶は間違いじゃなかったことを確信した。
その車体に、高齢者マークの標識が付けられていたからだ。
「ちょ、事故……!?」
ルキアが驚いたように発した。
より近づいてみて、あのセダンの前方部分が大きく破損しているのが目に入った。なぎ倒されるように壊れたガードレールといい、彼女が言ったように事故だと考えるのが自然だろう。
周囲には多くの野次馬の姿があったけれど、とりあえず怪我人はいないようだ。けど、運転手は無事なのだろうか? そう思った瞬間だった。
白いセダンが突如動き出し、バラバラと金属片を道路に落としながらバックし始めたのだ。窓越しにハンドルを握っている人の顔が見えて、白髪だらけの高齢な男性なのが分かった。高齢者マークを表示しているのだから、当然といえば当然だった。
さらに助手席には高齢の女性が乗っており、奥さんなのではと想像がついた。
運転者であるその老人は、目を見開いて周囲を見渡した。どうやら、自分が引き起こした事故でパニックになっているようだ。
旋回したと思いきや、今度は煙が出るほどの勢いでタイヤが急回転し、暴走した。
まずい!
暴走したセダンが向かう先を見て、俺は危機感に駆られた。そこには横断歩道があり、娘さんと思しき女の子を連れた女性が今まさに横断していたのだ!
「危ない!」
反射的に俺は叫んだけれど、何の意味もない。突然の出来事に女性も女の子も立ち尽くしてしまっており、逃げることすらできないようだった。
俺のそばに立っていたルキアが、何も言わずに駆け出す。
たぶん、老人はアクセルを思い切り踏み込んだのだろう。白いセダンは、まるで引き寄せられるかのように横断歩道へと向かって一直線に暴走した。ルキアも間に合わず、万事休すかと思った俺は思わず視線を逸らしそうになった。人が轢かれる瞬間なんて、直視していられるはずがなかった。
けれど、俺が視線を逸らすより先にそれが起きた。
どこからともなく飛び出した何かが女性と女の子にぶつかった。それによってふたりは横断歩道の上から引き離され、その後すぐに、彼女達が立っていた場所をセダンが通過していった。
今のは……!? 俺は彼女達が向かった先を目で追う。
道路には一体のドラゴンが立っていた。
「イフリート……!?」
そのドラゴンの種類は、すぐに分かった。
人間に近い骨格構造ではあれど、ドラゴニュートやリザードマンとは違って猫背であることや、ゴツゴツと硬化した外殻。何より決め手が、ファンタジー映画に出てくる魔人や悪魔を想起させる風貌。それらは俺が知る限り、『イフリート』にしかありえない特徴だった。
あのイフリートは、間一髪のところで女性と女の子を両手で抱えて暴走車の進行ライン上から引き離した。あのふたりが車に轢かれるのを、身を挺して防いだのだ。
俺は一瞬安堵したが、それもすぐに潰えた。というのも、あのセダンがまだ止まっていなかったからだ。
運転者である老人は、ブレーキを踏むことすら忘れてしまっているのかもしれない。前方にあるコーヒーショップに向かって、セダンは暴走し続けていた。
◇ ◇ ◇
女性と少女が撥ねられなかったことを確認し、ルキアは一応の安堵を覚えた。
どこの誰かは分からないが、あのイフリートには感謝しなくてはならないだろう。しかし、その前にセダンを止めなくてはならなかった。
暴走するセダンが向かう先にあるコーヒーショップには、数多くの客が来店しているようだった。車が突っ込もうものなら、大惨事になるのは明らかだった。
イフリートは、身を挺してふたりの市民を救った。ならば、自分も続かなくてはならない。この事故で、ひとりの死傷者も出させはしない――その想いを胸に、ルキアはドラゴンの姿へと変身した。
暴走車をどうやって食い止めるのか、手立てはもう考えていた。
ドラゴンの姿になったことで、ルキアの飛行速度は一気に増した。彼女は瞬く間にセダンに追いつくと、両手と長大な尻尾を上手く活用し、車を強引に持ち上げた。
「ふっ!」
車両重量は数百キロはあるはずだった。しかし、ルキアはそれを難なく持ち上げるほどのパワーを有していたのだ。
ただ持ち上げるだけではなく、尻尾を使って車体を下から保持して水平に保ち、運転者や同乗者の安全にも配慮していた。ルキアはその尻尾を非常に器用に動かせる、尻尾は彼女の第三の手と言っても過言ではない。
暴走していたセダンは止まった。というより、ルキアに持ち上げられたことでタイヤが地面から離れたので、走行できなくなったのだ。
しかし、タイヤは依然として回転し続けていた。つまり運転者がアクセルペダルを踏み続けているのだ。どうやら前部分が損壊しても、走行を司る機構には何の支障も来たしていないらしい。
車を持ち上げたまま、ルキアはフロントガラス越しに運転者の顔を見つめた。
「ちょっと何してるの、アクセルから足を放して!」
切迫した気持ちを隠そうともせず、ルキアは命じた。
しかし、ハンドルを握っている老人はさらにアクセルを踏み込んだらしく、タイヤが一層音を立てて急回転した。
「うわあ、下ろしてくれ!」
フロントガラス越しに老人の声が聞こえた。
どうやら完全に気が動転しているようで、ルキアの言葉に耳を貸す余裕すらないようだ。もしくは目の前に見知らぬドラゴンの顔が現れて、パニックに陥ったのかもしれなかった。
だがもちろん、ルキアには下ろすという選択肢はない。
この状態でタイヤが再び接地しようものなら、たちまちこの車は街中を暴走することになる。人的被害が出るのは必至だった。
「下ろせるわけないでしょ。今下ろしたらガードレールどころか、今度は人を轢くことになるわよ!」




