第63話 エックスブレイン
「お手!」
ルキアが右手を差し出す。すると、ジャックはそこに手を重ねる。
「伏せ!」
ルキアが地面を指差しながら命じると、ジャックはそれに従う。
「お座り!」
もちろん、ジャックは従った。
さすがは全犬種の中でもっとも賢いとされる犬種、ボーダーコリー。ルキアの言葉を理解しているとすら思えてしまうな。
「よしよしえらいえらい、ああもう本当に可愛い!」
尻尾をフリフリしながら全身でじゃれついてくるジャックをその身で受け止め、ルキアはしなやかな毛並みを撫でまくる。
俺とルキアは今、ある用事で外出していた。目的地までの寄り道として宮田さんの家に立ち寄り、その庭先でジャックと戯れていたわけである。宮田さんは母さんの高校時代の同級生だそうで、その繋がりで俺とも面識があった。通りかかったら、自由にジャックを可愛がっていいというお達しが出ていたのだ。
ルキアと初めて対面した時、ジャックは彼女に吠えるだけでまったく懐かなかった。理由は分からないけれど、たぶんジャックはドラゴン独特のにおいに慣れていなくて驚いてしまい(宮田さんちは、ドラゴンを寄宿させていない)、本能的にルキアに対して警戒心を抱いたんだと思う。
でも、あの爆弾魔ドラゴンの事件を解決したあとで、ルキアはもう一度ジャックに歩み寄ってみて……見てのとおり、すっかり打ち解けた。今の様子を見ていると、当初は吠えられて拒絶されたとは信じられないくらいだ。
そうすることが友好の印なのか、ジャックはルキアの顔をペロペロと舐めはじめた。
「わ、ちょっとくすぐったいってば!」
と言いつつも、ルキアは溌溂とした笑顔を浮かべていた。
最初にジャックと打ち解けた時も感じたけれど、こうしているとドラゴンじゃなくて普通の女の子のようだな。
「おーい、そろそろ行かないか?」
いつまでもジャックと戯れていたい気持ちは分かる。かくいう俺だってジャックと遊んでいると時間を忘れそうになるし、家に連れて帰りたいとすら感じてしまうから。
しかし、今はいつまでも寄り道しているわけにもいかなかった。
というのも、俺とルキアは今、母さんの頼みで買い物に行く途中だったからだ。
「ああ、そうね。ごめんねジャック、よっと……」
ルキアは今の目的を思い出したらしく、やんわりとジャックの身を引き離した。
もっと遊ぼうよ、と言わんばかりに彼女を見上げるジャック。ルキアはその頭を優しく撫でた。
「ごめんね、私達もう行かなきゃ。また来るから、その時遊ぼうね」
ジャックは、尻尾を振りながら俺達を見送ってくれた。
そうして俺達は目的地――この前と同じデパートへ再び向かい始めた。あの爆弾魔ドラゴンの事件があってから数日間閉鎖されていたが、もう復旧作業も終わって営業を再開しているらしかった。
ドラゴン交通安全ポスターを作るにあたり、資料としてドラゴンに騎乗している人を横からのアングルで撮影した写真が必要だった。母さんが協力してくれたお陰でそれを得ることができたわけだが、見返りとしておつかいを頼まれたのだ。
買ってくるように頼まれたのは『みりん』だ。母さんは今日の夕飯を肉じゃがにしようと思っていたそうだが、ちょうど切らしてしまっていたらしい。みりん自体は近所のコンビニでも買えるらしいのだけれど、デパートと違って値段が高いし、そもそも母さんが愛用している銘柄はデパートじゃなきゃ売ってないらしい。
みりん抜きではダメなのか、俺は尋ねてみた。しかし母さんが言うには、味を染み込ませジャガイモの煮崩れを防ぐためにも、みりんは必要不可欠なんだそうだ。
『ドラゴンの筋肉構造をヒントに作り出された、こちらの人工筋肉内蔵ズボン。傍目にはただのズボンと大差ありませんが、なんと履くだけで足腰の弱った方も快適に歩くことができるようになります。怪我や病気で足に障害が残ってしまった方、年齢には逆らえないと諦めていたそこのあなた。店頭において本製品を無料にてお試しいただけますので、この機会にぜひ!』
目的地のデパートが見えてきた頃だった。
街頭ビジョンに映し出されたそのコマーシャルに、思わず俺は足を止めた。
『人とドラゴンを結ぶ企業、エックスブレインがお届けいたしました』
コマーシャルが終了し、『X-BRAIN』というスタイリッシュなロゴマークが表示された。
「エックスブレイン……人間界で一番の巨大企業よね。あれがどうかしたの?」
じっと街頭ビジョンを見つめていると、横からルキアが問うてきた。
「いや、俺の父さんがあそこで働いてるからさ」
ルキアに視線を移しつつ答えると、彼女は「えっ、お父様が?」と目を見開いて言った。
無理もないだろう。さっきルキアも言っていたように、エックスブレインは世界有数の巨大企業、俺達人間どころか、ドラゴンだってその名を知らない者を探すのが大変なほどの規模を誇る会社だ。
その事業内容は非常に多岐に渡り、医療関連や自動車、家電や他にも色々……とにもかくにも、テレビを付けてエックスブレインのコマーシャルを目にしなかった日の記憶がないくらいである。
さっきも流れていたが、『人とドラゴンを結ぶ企業』というキャッチフレーズを掲げており、ドラゴンの火でも燃えない不燃塗料や、初心者ライダーを騎乗させる時ドラゴンが身に着ける初心者標識ゼッケンを開発したのもエックスブレインだ。他にも騎乗に適さないドラゴンに人が乗る時の器具とか、とにかく今の世の中のニーズに応えた数多くの商品を世に送り出していた。
エックスブレインなくしては、Withドラゴンたる今の世の中はありえなかった。そう唱える人もいるそうだが、まさにそのとおりだな。
「そういえば、前から気になってたんだけど……お父様って、エックスブレインでどんなお仕事をされているの? 全然家には帰ってきてないでしょ?」
ルキアが投げかけてきたのは、至極もっともな疑問だった。
うちにドラゴンステイしている以上、父さんが不在な理由を気にするのは当然だろう。今まで尋ねてこなかったのは、きっと彼女なりに配慮してくれていたのかもしれない。
「会社に泊まり込んで仕事漬けの毎日を送ってるらしいのさ。どんな仕事をしてるのか訊いてみたこともあるけど……決まって、『みんなのために日々努力してるのさ』って言うだけ。たまに帰ってくるけど、またすぐ会社に行っちゃうし」
デパートに向かってまた歩を進めながら、俺は答えた。
俺が小さかった頃は父さんは家にいることも多かったけれど、俺がある程度大きくなってからは、今のように会社に入り浸った生活になっていた。それがいつからだったのか……俺が中学一年? いや中学二年? とにかく詳しい時期は、もう覚えていない。
家のことを母さんに任せきりなのは、さすがにどうかとも思った。
でも、何だかんだで俺をここまで育ててくれた父さんだし、裏を返せばそこまで仕事熱心なんだってことだし……父さんが帰ってきた時には、俺はいつも歓迎していた。それに俺はドラゴンが好きだし、ドラゴンと人の共生を理想にした会社に勤めている父さんは、誇れる存在でもあった。
最後に帰ってきたのは二か月近くも前になるだろうか、その時はまだルキアがうちにドラゴンステイしていなかったけど、きっとルキアとも良い仲になれると思う。
「そうなんだ……でも、私もいつかお会いしたいわね」
「まあ、そのうち会うことになるだろうさ」
父さんについての会話をしつつ、そろそろデパートに着くかと思った時だった。
突然の轟音と悲鳴に、俺はビクリと身を震わせた。
ほど遠くない場所から聞こえたことは、すぐに分かった。
「今の音は……!?」
俺は言った。
次の瞬間、こっちを向いてきたルキアと視線が重なって……俺達はほぼ同時に、音がしたほうへと駆け出した。言葉なんて交わさずとも、互いの意見は一致したようだった。