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第61話 ルキアの絵


「うーん……」


 帰宅した俺は制服を私服に着替え、居間のテーブルに向かっていた。

 テーブルの上には、まっさらな紙がある。元から線が引かれているノートやルーズリーフと違って、こんな物は学校に持っていくどころか、普段なら手に取ることすらない。

 いつ買ったのかすら覚えていない、無地の筆記用紙……自室の戸棚を探ってこれを見つけ、わざわざ引っ張り出して居間に降りてきたのには、もちろん理由がある。

 右手にシャーペンを持ち、左手でテーブルに頬杖をついて、俺はひたすら考えあぐねていた。


「智、何してるの? そんなに考え込んで」


 洒落た食事トレーを両手に、母さんが歩み寄ってきた。

 トレーの上には、チョコチップクッキーが盛られた皿とココアが入ったカップが載せられていた。見た目にも可愛らしく、すごく美味しそうなこのチョコチップクッキーは、母さんの手作りだ。

 お菓子作りが趣味な母さんが作っただけあって、見た目には菓子屋に商品として並んでいても違和感がないほどの出来栄えだった。しかしながら、今の俺には喜んでいる余裕はない。

 チョコチップクッキーにもココアにも手を出そうとせず、俺は視線を目の前の紙に戻した。


「いや、ちょっと学校祭でドラゴン交通安全ポスターをやることになっちゃってさ。デザイン案を描いてくることになったんだよ」


 学校でルキアに言ったように、俺は幼稚園や学校の授業以外では絵なんか描こうと思ったことすらない。急にこんな難題を課されたところで、描けるはずなどない。

 だから目の前の紙には、さっきからシャーペンの芯を触れさせることすらできていなかった。

 ああ、まったくもって面倒な仕事だ。くどいようだが、七瀬を信じなかった自分自身が恨めしい……。


「へえ、そうなんだ。でもどうして部屋でやらないの?」


 トレーを傍に置いて、母さんが問うてくる。


「部屋だと漫画とかゲームとか、とにかく誘惑が多すぎて続けられそうにないんだよ……」


 母さんが投げかけてきたのは、至極もっともな質問だった。しかし俺にも、部屋でこの作業を行えない正当な理由があったのだ。

 ただでさえ投げ出したさに駆られているんだ。さらに気が逸れそうな物が周りにあろうものなら、集中できなくなるのは目に見えている。


「そういうことね。でも智、えらいよ。投げ出さないでちゃんとやろうとしてるんだから」


 不意の褒め言葉に、思わず顔を上げた。母さんは、俺の向かいの椅子に座った。


「お母さんも手伝うよ、クッキーでも食べながらやろう?」


「ん、分かった……」


 とりあえず、煮詰まってしまった頭を冷やすべきか。

 そう思った俺は、母さんの提案を受け入れてチョコチップクッキーを一枚手に取った。母さんは何も言わなかったけれど、いつもどおり穏やかなその表情からは、『召し上がれ』という言葉が聞こえてきそうだった。

 母さんが作ってくれたクッキーはサクサクしていて、ほんのりと温かくて……とても美味しかった。というか、母さん手作りのお菓子はそれこそ数え切れないくらい食べてきたけど、美味しくなかったことなんて一度もない。

 クッキーとチョコチップの絶妙なハーモニーを堪能して、ココアも一口飲んで……気を一旦落ち着けた俺は、再びシャーペンを手に取った。


「で、どんな絵にするかは少しでも考えたの?」


 俺は頷いた。


「とりあえず、ざっくりとは考えてみた……」


 とにもかくにも、このまま唸ってるだけじゃ進まない。

 何か描いてみないと……どうせ、これは試作品的なものだ。これがそのままクラスメイトの目に入るわけでもないんだし、下手だろうと気にする必要なんかない。

 そう自分に言い聞かせて、俺はささっと描いてみた。

 空を飛ぶドラゴンを横から見た構図の絵……だったのだが。


「ただいま戻りました」


 描いている最中、居間に続くドアが開いてルキアが入ってきた。


「お帰りなさい、ルキアちゃん」


 母さんに軽く頭を下げて、ルキアがこちらに歩み寄ってきて……俺が描いたドラゴンの絵を覗き込んだ。

 彼女は怪訝な表情を浮かべ、じっと視線を落とし続け、


「何描いてるの? これって……トカゲ?」


 俺の絵を指差しながら、眉間に皺を寄せつつ、そう問うてきた。


「ちがっ……ドラゴンだよ!」


「え、ドラゴン? これが?」


 俺がムキになって反論すると、ルキアはもう一度絵に視線を向けた。


「ぷっ……あははははは!」


 そして突如、腹を抱えて笑い始めた。

 ルキアに便乗するように、母さんまで笑い始める。ななな、何だよもう、内心では俺の絵が下手だと思ってたってことなのか。俺的には、上手くはなくてもとりあえずドラゴンには見える出来だと感じてたのに……!

 

「これがドラゴンて、ちょ、ちょっとお腹痛い……ははははは!」


 腹を押さえたまま、ルキアは身を屈めて笑い続ける。

 くそっ、こんな笑いやがって! 俺はもう、恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまった。


「ふふふ、ルキアちゃんの分のお菓子、用意してくるわね」


 母さんが椅子から立ち上がり、キッチンへ向かっていく。

 そうは言っているものの、笑いを誤魔化すための口実にしか聞こえなかった。


「そんなに笑うなら……お前、描いてみろ!」


 壊れたように笑い続けるルキアに、俺は手に持っていたシャーペンを突き出した。

 

「え?」


 笑うのを止めたルキアが、呆けたような声を出した。


「人の絵を笑うくらいなんだ、お前はもちろん俺より上手く絵が描けるってことだよな!?」


 ルキアは何も言わず、俺が差し出しているシャーペンを見つめている。

 ほほう、これはきっと図星を指されて返答できなくなっているな。よし、目には目を歯には歯をだ。ルキアがそうしたように、俺も彼女が描いた絵を存分に笑い飛ばしてやる!

 クックック、さあどう笑ってやろうか……我ながらゲスな表情を浮かべていた時だった。

 何も表情を変えないまま、ルキアは俺の手からシャーペンを受け取り、さっきまで母さんが座っていた椅子に腰を下ろして、もう片方の手を差し出してきた。


「シャーペン、もう一本貸して。それから新しい紙も早くちょうだいよ」


「え? ああ、悪い……」


 まるで命令されるように言われ、思わず謝罪の言葉が口をついてしまった。

 けど、強がっていられるのも今のうちだ。ルキアは両手に一本ずつ、計二本のシャーペンを持って新しい紙に向かった。

 ――おいおい、冗談だろ?

 曲芸じゃあるまいし、そんな状態で絵なんか描けるわけが……と、タカを括っていた俺は、心底驚かされることになる。


「んー、ふん、ふん、ふん」


 俺が用意したばかりの新しい紙、見当をつけるようにその数か所をシャーペンの先でつついた、次の瞬間にそれは起きた。

 目にも留まらぬ速さで、ルキアの両手が動き――ドラゴンの絵が描かれていったのだ。

 

「え、ええっ!?」


 驚きに、まばたきも忘れてしまった。

 俺が声を発しているあいだにもルキアは腕を動かし続け、プリンターが印刷するようにみるみる絵が出来上がっていく。紙とシャーペンの芯がこすれ合う音が、絶え間なくリビングに響き続けた。

 シャーペンの芯を出し直す時以外、ルキアは一切手を止めることもなく、そして。


「こんなもんかしらね」


 一分とかからず、ドラゴンの絵を描き上げてしまった。

 シャーペンしか使っていないのでもちろん白黒なのだが、陰影まで描き込まれていてとても手が込んでいた。

 上手さ以上に、彼女がこの絵を描く様を目の当たりにしてしまった俺は、まさに目を丸くしていた。ドラゴンて、こんなことまでできたのか。


「どんなもんよ、あんたのトカゲよりはいい出来だと思うけど?」


 今しがた描かれたドラゴンの絵を目の前に突き出され、俺は何も言い返せない。


「ま、参りました……でも、これって何のドラゴンなんだ?」


 ルキアが描いたドラゴンの絵……王冠のような角が数本頭部から突き出ていて、翼がとても大きくて……どことなく神々しいというか、ドラゴンの中でも別格という感じだ。

 ドレイクとは違うようだし、翼と前脚が一体化していないからワイバーンでもない。少なくとも、俺には見たことのないドラゴンだ。


「んー、あれ? ドラゴンを描けばいいっていうから、半ば無意識にこの絵を描いちゃったけど……私も見たことがないドラゴンね」


 自分の絵を見つめ直し、怪訝な表情を浮かべるルキア。

 何だそりゃ、描いた本人が分からないなら俺が分かるわけないだろう。いや、きっと誰にも分からないに違いない。ルキアが描いたこのドラゴンは、おそらく彼女が適当に描いた実在しないドラゴンだ。

 確証はないけど、そんな気がした。


「どんなドラゴン?」


 キッチンに行っていた母さんが、トレイを抱えて戻ってきた。ルキアの分を用意したのだろう、トレイの上にはさっき俺に出してくれたのと同じ、チョコチップクッキーが盛られた皿とココアが入ったカップが載せられていた。

 歩み寄ってきた母さんが、ルキアの描いたドラゴンの絵を覗いた、その瞬間だった。


「っ!」


 母さんは青ざめた表情を浮かべ、息をのんで身を震わせた。その拍子にトレイに載せられていたカップが倒れ、中のココアがトレイの中に漏れ出した。

 ガチャンと大きな音が鳴ったけれど、カップは割れなかったようだ。


「お母様、大丈夫ですか?」


 ルキアがすぐに立ち上がって、母さんに駆け寄る。

 母さんはその場にしゃがみ込んで、トレイの上で倒れたカップを直していた。幸い、ココアはトレイの中に溢れ出ただけで、床にはこぼれていないようだった。


「うん、大丈夫。ごめんねルキアちゃん」


 トレイを抱えて立ち上がり、母さんは足早にキッチンへと戻った。

 すぐに水を流す音が聞こえてくる。ココアまみれになってしまったトレイを洗っているのだろう。


「珍しいね、母さんが手元を狂わせるなんて」


 記憶している限り、母さんはさっきみたいにカップを倒したことも、食器を落として割ったりしたこともない。


「本当、何やってるんだろうね……」


 水音と一緒に、母さんの声が聞こえてきた。

 ふと、俺はさっきの母さんの様子を思い出した。

 気のせいだろうか? ルキアが描いたドラゴンの絵を見た瞬間に母さんの様子がおかしくなった気がしたが……。

 今一度、テーブルの上のルキアの絵を見てみる。

 やっぱり、見たことのないドラゴンだ。

 ドレイクにワイバーンにリヴァイアサン、リザードマンにドラゴニュート。イフリートにサラマンドラにバハムート、ドラゴンゾンビにコカトリスにジャバウォック、ヒュドラにバジリスク、ヨルムンガンドにケルベロス、キャスパリーグ。その他、俺が知っているどのドラゴンにも当てはまらない……。






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― 新着の感想 ―
ここまで読ませていただきました。サンドラにグスタフさん、そしてレオンと、また様々なドラゴンが登場して、これからが楽しみです。 じゃんけんでの七瀬の厚意にも拘らず、負けてしまった智が面白かったです。 …
[一言] 心理学的に見れば……ルキアちゃんの深層意識に刻み込まれた謎のドラゴンってことかなぁ。謎が深まりますねぇ。
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