第58話 眠りから覚めて
「あいたっ……!?」
気がついた時、俺はもう花畑にはいなかった。そこには花も咲いていなくて、蝶も舞っていなくて、水色の髪の女の子も、あの子に引き会わされた女性の姿もなかった。
見慣れた教室の風景が広がっていた。
それから、まるで浴びるかのような視線。三十人以上いるクラスメイトが全員俺のほうを向き、どこからともなく笑い声まで聞こえてきた。
「一時間目から居眠りとはな。いい度胸してるじゃないか、松野」
教壇に立っているシルヴィア先生が、腕組みをして俺を睨みつつ言った。
机の上に、白いチョークが落ちていることに気づく。どうやら俺は、シルヴィア先生が放ったこれを頭に食らったらしい。
頬杖をついて眠ってしまっていた俺は、たちまち現実に引き戻されてしまったのだ。
「あ、すみません……ちょっとウトウトしちゃって」
教壇から一番遠い席に座っている俺の頭に、的確にチョーク投げを決めるなんて、すごいコントロールだ。さすがはドラゴン……と思ったが、感心してる暇はない。
「まったく、夜更かししてゲームでもやってたのか? そんな暇と元気があるなら数学の勉強でもしたらどうだ、また赤点採ったらオマエ、確実に補習を受けるハメになるぞ」
クラスメイト達の笑い声で、教室中が満たされた。
恥ずかしさに、顔が真っ赤になるのが分かる。
今日は一段と強い眠気に襲われていた。それもそのはず、ファフニールの件……あの一件以降身体のリズムが狂ってしまったのか、昨日は遅くまで寝付けなかったからだ。事件は解決したし、とりあえず誰も傷つかない形で区切りをつけられた。
その代わりに今、俺は押し寄せる睡魔と壮絶な格闘を繰り広げている。俺の席は窓際なので陽の光がポカポカしており、余計に眠気が助長されるのだ。
ファフニールとの一戦が繰り広げられたのは金曜だった。で、今日は月曜日。土曜日と日曜日を経ていても、狂った体内時計は正常に戻り切ってはいなかったようだ。
あの晩、夜更かしはしていた。しかしゲームをしていたわけじゃない。
「あ、はい……すみません」
たった一晩夜更かししただけで、人間の身体ってこんなにおかしくなるものなのか。
けれどもちろん、そんなことをシルヴィア先生に言うわけにはいかなかった。理由があったとはいえ、夜中に学校に忍び込んだなんてバレれば、どうなるか分かったもんじゃない。
恥を忍びつつ、ただ謝ること。それが、今俺にできるすべてだった。
「智、大丈夫?」
隣の席の七瀬が、小首を傾げながら問うてきた。
この教室にいる中で、彼女は唯一俺がこんなにも眠たそうにしている理由を知っている。それもそのはず、七瀬は俺と一緒に夜の学校に忍び込み、事件の真相を見届けているのだから。
夜に寝る構造になっているのが人間の身体だと思うが、俺と違って七瀬にはまったく影響を受けた様子はなく、いつものように溌溂とした感じだった。
「いや、あのファフニールの件のあと、ちょっと寝つきが悪くなっちまってさ……あの夜、七瀬は寝れたのか?」
「うん、ぐっすり眠れたよ。ベルの力を借りたから」
「ベルナールの力を? どういうこと?」
話題に上ったベルナールとは、七瀬の家にドラゴンステイしているドラゴンゾンビのことだ。
あの戦いの場には来なかったが、察するに七瀬が夜中に家を抜け出したのはベルナールの知るところとなったようだ。ドラゴンゾンビとはいえ、彼は穏やかで紳士的だし、それに七瀬には優しいから……たぶん、大事にはならないだろう。
「ベルの催眠毒、私の身体に影響がないように入れてもらったの」
「あ、なるほどな」
納得がいった。
ベルナールは様々な種類の毒を操る力を有している。眠気を催す毒は、濃度を調整すれば睡眠薬の代わりとしても使えるってわけだ。
「さて、それじゃ学校祭の役割分担を決めていくぞ」
黒板にチョークを走らせながら、シルヴィア先生が生徒達に告げる。
今は総合学習の時間で、その内容は先生が言ったとおり、およそ一か月後に開催される学校祭の準備の役割分担だった。
クラス展示に模擬店、ステージ発表、ドラゴン交通安全ポスター……他にもステージイベントなど、様々な催し物が出て、学校行事の中でもかなり生徒達の熱が入るイベント。まもなく、その準備期間が訪れようとしているわけである。
シルヴィア先生が「模擬店やりたい人!」、「ドラゴン交通安全ポスターやりたい人!」という感じで順番に生徒達の希望を聞いていき、皆がそれぞれの役割に振り分けられていく。とはいっても、皆それぞれ仲のいい生徒と一緒のチームに入りたいだけのようだった。まあ、そんなもんだろう。
そして俺は、模擬店のチームに配属されることとなった。
とはいっても、模擬店に特別関心があるわけじゃない。仲のいい友達である七瀬や真吾と一緒のチームになりたかっただけだ。
そして、俺の希望は見事に叶った。
「やったね智、一緒に模擬店頑張ろうよ!」
「よろしくな!」
七瀬と真吾が、嬉しそうな面持ちで俺に言った。
仲のいいふたりと一緒のチームになれて、俺の学校祭も安泰……と思った時だった。
「よし、それじゃそれぞれのチームでひとり、代表者を決めてくれ。公平にジャンケンでな」
シルヴィア先生の言葉で、俺の安泰に影が落ちる。いや、俺だけじゃなくて、みんな同じだろう。
それもそのはず、代表者は読んで字のごとく、それぞれのチームの最高責任を負うことになる。シルヴィア先生によると、学校から説明を受ける『代表者会議』というものにも出席しなくてはならないそうだ。
め、めんどくせえ……正直言って、いや正直に言わなくたってやりたくない。皆が一様に、そう思っているはずだ。
「ま、代表者は必要不可欠だし……仕方ないよな。恨みっこなしの一発勝負で決めようぜ!」
いかにも正々堂々とした台詞を、真吾は発した。
サッカー部で培ったスポーツマンシップが垣間見えて、拒否する余地はない。
「望むところだ!」
模擬店チームに配属されたのは、俺と七瀬と真吾を含めて十数人程度だった。
俺達は円を囲い、代表者という貧乏くじを引き受ける犠牲者を決めるためのジャンケン大会に臨んだ。ジャンケンなんて所詮は運頼みだ、でもこれだけ集まっているのだから、運が悪くなければきっと負けはしない……!
そう思っていたのだが、
「んなっ……!?」
結果から言うと、俺は代表者を引き受けることとなってしまった。
当初、人数が多くてあいこばかりになってしまい、勝敗が付かなかった。だから約半分の人数、ふたつのブロックに分割して、そこで負けたふたりがさらに最終決戦を行う形を取ったわけだ。
俺は予選と決勝、その両方で敗北を喫したのだ。
「おっしゃ、代表は回避! やったぜ七瀬ちゃん!」
決勝の相手は真吾だった、露骨にガッツポーズをして大喜びするその様子からは、さっきまでのスポーツマンらしさは微塵も感じられなかった。
正々堂々としていると思って感心したが、取り消しだ。
感極まった真吾が、七瀬の胸目掛けて手を伸ばす。しかしよからぬ気配を察したのか、七瀬はそんな真吾の手首を掴んで捻り上げた。
「いっ、いででででで!?」
「塚本君、どさくさに紛れてセクハラしない!」
真吾の手首を捻ったまま、七瀬が説教する。テニス部で鍛えているだけあって、男子を痛めつけるだけのパワーがあるようだ。
教室の中で堂々とセクハラを仕掛けるとは、真吾の女好きは筋金入りだな。
七瀬と真吾のやり取りも、普段なら笑えるものだった。しかし、代表を引き受けることになってしまったという事実が背中にのしかかり、俺は盛大にため息をついた。
「マジかよ……」
とはいえ、ジャンケンで負けてしまった以上は仕方がない。
勝利の女神は、俺に微笑んでくれなかったということ。まあそう思っておくしかないな。
「悪い、模擬店の諸君! そっちからひとり、ドラゴン交通安全ポスターを兼任する人を決めてくれないか」
ふと、シルヴィア先生が俺達、模擬店チームに告げた。
「どういうことですか?」
七瀬が訊き返す。
「ドラゴン交通安全ポスター、ちょっと人手が足りなそうなんだ。こっちに手を貸す人を誰か、決めてくれ」
模擬店は、一番人数が多いチームだった。
なるほど、だからここからひとり、ドラゴン交通安全ポスターを手伝う役割を担う人を選出してほしいというわけか。
「それじゃあ、もう一度ジャンケンする?」
七瀬の提案に、他の生徒が「それしかないな」と同意した。
模擬店の代表を引き受けることになった俺も、免除はされなかった。
代表ほどではないとはいえ、ドラゴン交通安全ポスターを兼任するなんていかにも面倒くさそうだ。いや、いくら何でも二連敗だなんてことはないだろう……と思っていたのだが。
「ありゃ、智と勝負か」
最終決戦に進出してきた七瀬が、俺の顔を見るなり言った。
そう、俺は予選でまたもや敗退し、またもや決勝(というか罰ゲーム決定戦?)に進出してしまった。
これに敗北しようものなら、模擬店の代表に加えてドラゴン交通安全ポスター兼任というクソ面倒な役割を背負わされてしまう!
「負けてたまるか……!」
何としてでも勝たなければ、ダブル貧乏くじは絶対に回避しなければ!
意気込んでいた時だった。
「智、私グー出すから。わざと負けてあげるよ」
七瀬が少し顔を近づけて、他の誰にも聞こえないくらいの声で告げた。
気遣ってくれたのか? と思ったが、すぐにこれは罠だと確信する。そんな手に乗るか!
そして運命のジャンケン対決、結果は……。
――七瀬は、本当にグーを出した。
「え、えええええ……!」
七瀬の言葉はハッタリだと信じ切っていた俺は、チョキを出してしまった。
「智、私グー出すって言ったのに……」
結論から言うと、七瀬は嘘などついていなかった。本当に俺のことを気遣って、わざと負けてくれるつもりだったのだ。
彼女を信用しなかった俺は、こうして模擬店の代表に加えてドラゴン交通安全ポスターを兼任することとなってしまった。自分の愚かさを呪ったが、もうどうにもならなかった。




