第57話 光の中の後ろ姿
「あ……」
気づいた時、俺は花畑に立っていた。
どこなのかは分からない。しかし、まったく見知らぬ場所というわけでもない。
温かい風に全身を撫でられつつ、周囲を見渡してみる。赤い花に、黄色い花に、ピンクの花。大きな花と小さな花、名前も分からない無数の花が咲き乱れていて、それぞれが『僕を見て』、『私を見て』と自己主張しているように思えた。
そして花々のそばには色鮮やかな蝶がたくさん舞い、その光景にさらなる彩りを添えている。
「お兄ちゃん」
花や蝶に見とれていた時、不意にその声に鼓膜を揺らされて、俺は振り返った。
俺には妹なんていないから、『お兄ちゃん』だなんて呼ばれる心当たりはない。しかしこの花畑の景色に既視感があったのと同じように、その少女の声にも聞き覚えがあった。どこなのかも分からないのに、見知らぬわけではないこの花畑。それと同様に、声の主の名が分からないはずなのに、彼女の声には大いに聞き覚えがあったのだ。
呼ばれるまで、まったく気配を感じなかった。
いつからそこにいたのだろうか、その子は後ろ手に手を組んで俺のことを見つめていた。
「君は、この前も……!」
俺が覚えた既視感は間違いではなかったようだった。
踝までの丈の白いワンピースに、腰まで伸ばされた水色の髪。間違いない、この前も夢の中で出会った女の子だ。
背は俺の胸の高さくらいまでしかなく、その顔立ちから歳は十代前半くらいなのだと思う。
たかが夢だと思って前は気にも留めなかったが、まさかまた会うことになるだなんて。
「ねえ、お兄ちゃん」
くりっとした瞳で俺のことを見つめ、少女はゆっくりと俺に歩み寄ってきた。
彼女の水色の髪や白いワンピースが、風に撫でられて緩やかに空を泳いでいた。
不思議なことに、俺は少女から目を離すことができなくなってしまっていた。花畑を歩くあの子に見とれてしまったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、理由は分からなかった。
少女は俺の間近まで歩み寄り、そして俺のことを見上げた。
微笑みを浮かべる彼女は言葉では表せないほどに可愛らしく、そして美しかった。
「どうしたの?」
夢で出会った少女との、予期せぬ再会。そんな不思議な出来事に完全に面食らい、戸惑いと困惑に頭を塗り潰されそうになっていた。それでも、俺はどうにか声を出すことができた。
返答はなかった。ただ、少女は少しのあいだ俺の目をじっと見つめて、いきなり俺の手を握った。
「ちょっ……!?」
少女は、俺の声など意にも介さない様子で駆け出した。
「こっちに来て!」
いきなり手を取られて驚いたし、困惑もした。けれど、彼女の手を乱暴に振りほどくことも気が引けたので、俺は手を引かれるしかなかった。
幼い外見に違わず、彼女の手は小さくて……温かかった。
「い、いきなりどうしたんだ!?」
年齢的には十代前半くらいだと思ったが、彼女は走るのが速かった。引き離されないようについていくのが大変なくらいで、さらに花畑には見えないデコボコもあったから、そのせいで何度か転びそうになった。
それでも俺は、こんな小さな女の子に引き離されるなんて恥ずかしい……という謎の意地に突き動かされて、懸命に彼女の小さな背中を追った。
俺の問いに、少女はただ前を見つめ、走り続けながら応じた。
「お兄ちゃんに会わせたい人がいるの!」
その声は溌溂としていて、楽しげですらあった。俺は背中を追うのに一苦労だったが、彼女のほうは疲れすら感じていないようだった。
会わせたい人? 誰なんだ?
そう尋ねようとしたが、言葉を発するよりも先に目が眩んでしまう。
「うっ……!」
俺は目を細めた。
そこには依然として花々が咲き乱れていたのだが、大きく異なる点があった。
視界を覆いつくしても余るほどの金色の光が、満たされていたのだ。目を開けていられないほどに眩しくて、俺はその光を直視できなかった。
「お兄ちゃん、あそこ」
気づけば、少女はもう俺の手を開放していた。
彼女が手の平で指したのは、光の中――そこに、誰かが立っていた。
誰だ……!? そう思った時だった。
「ようやく会えたな、松野智」
そこにいた『誰か』が、先んじてそう発した。
目が眩まんばかりの光の中に立ち、俺に語り掛けたその人物。ほとんど視認できなかったので、かろうじて姿が見えるだけだった。
どうやら、その人物は俺に背を向けているようだった。
「誰だ……? どうして俺の名前を……?」
「当然だろう」
俺の質問に、光の中の人物は即答した。
声は女性……のようだったが、かなりトーンが低く落ち着いた口調で、男性と言われても納得してしまいそうだった。
後ろ姿なので、もちろん顔は見えない。しかし長い金髪が三つ編みツインテールに結ばれ、風を受けて揺らいでいるのが見えた。マントを纏い、その左手には何か……大きな杖のような物が携えられているのが分かる。
もちろん、俺には彼女(実像がはっきりしないので確証はないが、女性である可能性が高いと思った)が誰なのかは分からない。分からないけれど、雰囲気からしてドラゴンなのだろうと思った。
それもただのドラゴンじゃなくて、何というのか……『大物』という雰囲気だった。
「吾輩と君は、初対面ではないのだからね」
依然として俺に背を向けたまま、彼女は告げる。
俺が知る限り、『吾輩』という一人称は男が使うもので、女が用いるには不似合いに思えた。しかし、彼女のクールで大人びた声があってか、違和感は感じなかった。
彼女が言っていることが本当なら、俺は以前この人と会っているということになる。だが俺には、まったくその覚えがなかった。
「今は思い出せないだろう、そもそも、思い出すべき時でもない……ゆくゆくは『その時』が訪れるはず。いずれ会えるのを、楽しみにしているよ」
その言葉と同時に、彼女の後ろ姿が急激に遠ざかっていく。
「っ、待ってくれ!」
引き留めても、意味はなかった。
彼女の姿は、金色の光の中に引き寄せられるように小さくなり、ほどなくして、完全に消えてしまった。
振り返り、俺は会話を見守っていた水色の髪の女の子と視線を合わせた。
今の女性と同様、この子も俺にとっては得体のしれない存在だった。しかし彼女に訊くことでしか、手掛かりを得られそうにはなかったのだ。
「今のは、誰なんだ……!?」
暖かい風が吹き抜け、色とりどりの花弁が空を舞っていた。
「ごめんねお兄ちゃん、それはわたしの口からは言えないの」
「言えない? どうして……!」
返答はなかった。
会話が途切れてしまい、一時の沈黙が流れる。
風が吹いて、女の子の髪やワンピースが強く揺さぶられた。
「でも、いつか」
女の子がぽつりと呟いて、俺は「えっ?」と声を出した。
「いつか、会える時が来るよ。あの人とも……それに、わたしともね」
「どういう意味……」
そこで、俺の言葉は止まった。いや、止められてしまったのだ。
より強い風が吹き、無数の花弁が吹き乱れた。思わず目を開けていられなくなり、俺は女の子から視線を逸らさずにはいられなくなってしまった。
まるで、風が意思を持って俺をこの花畑から追い出そうとしているようにも思えた。一面に花が咲いていて、綺麗な蝶が飛び交う、童話に出てきそうな平穏の理想郷と呼ぶべき場所。だが、俺はここに長居はできないようだ。
花がいつか枯れるように、生き物はいつか死を迎えるように、物事には常に限りがある。
そして、俺がこの花畑にいられる時は、もう過ぎ去ってしまったらしい。
「うっ……!」
風は次第に強くなっていき、やがて嵐のような勢いを帯びた。
目も開けられない中、俺は自分の頭にコツンと何かが当たったのを感じた。




