第54話 コカトリス
「分かった。それじゃあ、お願いできる?」
「うん、任せといて」
自身の胸をぽんと叩き、サンドラは応じた。
彼女がこの場に駆けつけてから、まだものの数分しか経っていなかった。詳しい状況を知りたかったし、あのファフニールは何者なのか。七瀬ともうひとりいる少年は誰で、どうして彼らがここにいるのか……尋ねたいことは数多くあった。
しかし今は、質問している場合ではない。
さっきルキア達に襲い掛かろうとしたファフニールを制圧することが、今この場における最重要事項だとサンドラは判断した。詳細は把握していなかったものの、オレンジ色で肥満体型のあのドラゴンが敵であるということに疑いの余地はない。
ルキアと敵対関係にあるならば、必然的にサンドラの敵だということになる。
「さ、ここからはあたしが相手になってあげるよ、おデブさん」
前方に歩み出ながら、サンドラは言った。緩やかな風が、彼女の赤いドレスやマゼンタの髪を揺らした。
「んなっ、デブだと!? お前、ゆ、ゆ、許さないぞ!」
見たところ、ファフニールは手負いのようだった。その身体の至るところに傷や汚れが付いているし、その表情には苦悶の色が滲んでいるように見えた。察するに、ルキアから結構な猛攻を受け、決して軽くないダメージを負わされたのだろう。
しかしながら、激昂するだけの元気は残っていたらしい。
サンドラに狙いを定め、ファフニールは一直線に突っ込んできた。
「あちゃ、気にしてた? それじゃ、あたしを見習ってシェイプアップすることね!」
軽口であり、挑発の意味も込めたサンドラの言葉、それが戦闘開始の合図となった。
迫ってくるファフニールを視界に捉えながら、サンドラは翼を出現させた。淡い光が寄せ集まって翼を形作るその様子は、ルキアのそれとまったく同じだった。
しかしながら、彼女の翼はルキアのとはまったく違った。
真っ当なドラゴンの翼を有するルキアに対し、サンドラのそれは無数の羽毛に覆われており、鳥類を思わせる外見をしている。別物と言って差し支えないが、それは至極当然のことだった。ファイアドレイクであるルキアに対して、サンドラはコカトリス。根本的に、彼女達は種別からしてまったく違うドラゴンなのだ。
そして、まったく違うのは翼だけではなく、能力もまたしかり。
コカトリスたるサンドラが有する彼女の力は、すぐにお披露目されることとなった。
「行くよ!」
眉の両端を吊り上げて、挑戦的に言い放った。
羽毛を舞い散らせながら、サンドラは翼を羽ばたかせて夜空に舞い上がった。
背中に翼を出現させて空を飛ぶだけなら、ルキアと同じ能力だった。しかしサンドラは、ファフニールに挑みかかる前にさらなる力を行使する。
下半身が光に包まれたと思った瞬間、サンドラの両脚が鳥のそれに変化する。
前方に伸びるように三本、後ろに伸びる形で一本の趾が生えていて、先端部分にはそれぞれ鋭利に尖ったかぎ爪が生えていた。おそらくは、鳥と聞いて誰もが想像するような下肢構造だろう。
ギリシャ神話に登場する半人半鳥の伝説の生物、『ハーピー』を思わせるその姿は、コカトリスたるサンドラが翼に加え、さらにその身を変身させた姿だった。
サンドラはそのまま、空中からファフニールに襲い掛かる。
「うおっ、ぐっ!」
両脚の爪を激しく振りながら、サンドラはファフニールへ猛攻を仕掛けた。
長く鋭利なサンドラのかぎ爪は、まるでナイフのごとき切れ味を帯びており、それが当たるたびにファフニールの身に傷が刻まれていく。打撃なら無効化できる彼の脂肪も、このような攻撃に対しては無力だ。
かぎ爪による攻撃に、羽を飛ばしての攻撃。サンドラは彼女が持ち得る技を活用し、ファフニールにダメージを与え続けた。サンドラが空を飛んでいることに加え、飛び道具を持たないファフニールには、反撃の手段がないのだ。
戦況は一方的かと思われたが、
「こ、の……野郎!」
逆上するような声を出しながら、突然ファフニールが手を伸ばし、サンドラの脚を掴み上げた。
振りほどこうと身悶えするが、相手はドラゴンの姿に変身し、最大限の力を発揮している。サンドラの力で逃れることはできなかった。
「ちょこまかと、い、い、いい気になるなよ!」
ファフニールはそのまま、渾身の力を込めてサンドラを前方に投げ飛ばし、グラウンドの地面へと叩き付けた。
空を飛んでいるとはいえ、ひとたび強引に捕まえてしまえば、まず逃れることはできない。一方的に攻撃を受けているように見えて、反撃の機会を待っていたのかもしれなかった。
衝撃は相当のものだった。叩き付けられた時に巻き上がった砂埃で、サンドラの姿が視認できなくなるほどだった。
◇ ◇ ◇
防戦一方と思っていたが、不意の反撃で状況が一変した。
ファフニールに脚を掴まれた次の瞬間、あの子は……サンドラはそのままグラウンドに叩き付けられ、巻き上がった砂埃でその姿が見えなくなった。
動きこそ鈍重に思えたが、ファフニールのパワーはその巨体に見合うほどのもので、かなりの勢いで投げ飛ばされたのは間違いない。ドラゴンといえど、ただでは済まないに違いなかった。
額に冷や汗が浮かび、まばたきすら忘れてしまう。
あの子、まさか今の一撃で……!
と思った、まさにその時だった。
「大丈夫よ、心配ないわ」
サンドラのところへ駆け出そうとした俺を、ルキアが横から制した。
どういうことかと思った俺は、もう一度前方を見やる。
巻き上がった砂埃の中に大きな影が浮かび上がり、一対の翼が勢いよく広げられ、その風圧で砂埃が打ち払われた。
そこにいたのは、サンドラ……だったのだろう。
というのも、知っている彼女の姿ではなかった。赤いドレスを着てもいなく、カールしたマゼンタの髪を後頭部の高い位置でポニーテールに結んでもいなかった。
当然だった。その時の彼女は、ドラゴンの姿に変身していたのだ。それも一部ではなく、完全にコカトリスの姿に変じていた。
赤い羽毛に覆われた体に、翼、胸部の毛に尾羽……何よりも目を引くのは、その鋭いクチバシだろう。
鳥類を思わせる風貌にはどことなく愛嬌があるが、彼女は紛れもなくドラゴンの一種だ。
「やってくれたわね!」
今度は、サンドラが逆上した。
甲高い鳴き声……いや咆哮を上げると、サンドラは投げ飛ばされた時のダメージなどものともせず、翼を羽ばたかせて一気にファフニールへと詰め寄った。
繰り出された攻撃は、さっきと同じくかぎ爪での引っ掻きがメインだった。しかし、今度はクチバシによる突きが加わる。
空を飛びながらファフニールを攪乱し、サンドラは頭を激しく上下に振りながら、そのクチバシを突き立て続けた。その様子はまるで、樹木を穿孔するキツツキだ。
「サンドラさん、強い……!」
戦いを見守っていた七瀬が、言った。
真の姿に変身したことで、力も制空能力も段違いに上昇したのだろう。ファフニールは成す術もなく、押されていた。コカトリスのクチバシによる突きは、分厚い鉄板をもぶち抜く威力があると聞いたことがある。そんな攻撃を連続して受け続けていれば、倒されるのは時間の問題だろう。
「ぐ、く、くそったれがあああ!」
防戦一方だったファフニールが、攻撃の合間を縫ってサンドラの脚に手を伸ばした。
危ない! そう思った。もう一度掴まれようものなら、ファフニールは今度は簡単には離さないに違いない。戦闘不能になるまで、サンドラを地面に叩き付けまくるかもしれない。
しかしサンドラは回避しようともせず、空を飛びながら大きく息を吸い込んだ。
「ちょっ、ふたりとも耳を塞いで!」
隣で戦いを見守っていたルキアが、俺と七瀬に促した。
どういうことなのかと、問い返す暇はなかった。
――サンドラが、その口から鳴き声を発した。
いや、それは鳴き声という枠組みには到底収まらない声量、音量を帯びていて……まさしく超音波、音響兵器と称しても間違いがないほどのものだった。その凄まじさに、サンドラの周囲の空間が歪んでいるのが見えた。
耐え切れずに、俺は耳を塞いで目を閉じた。七瀬も同じだった。
俺達よりよほど聴覚が鋭敏なルキアは、耳を押さえたまま俯いて悶絶していた。
「頭が、割れそうだ……!」
そう発しつつ、どうにか俺は前方に視線を戻した。
離れた場所でも、これほど鮮明に届き渡るほどの超音波――それを間近で受けたファフニールは、どうやら相当のダメージを負ったらしい。そもそもルキアとの戦いでかなり消耗していたのだ、今のサンドラの攻撃は、止めには十分すぎたようだ。
ファフニールの巨体が揺れて、背中から倒れ伏した。
また気を失ったようだが、さすがにもう、起き上がってはこないだろう……。
「超音波はクチバシと並ぶ、コカトリスの切り札。やっぱり強烈ね……!」
頭を押さえつつ、ルキアが言った。




