第52話 絶対防御の穴
ルキアに警告を発しようとしたが、俺には声を出す余裕すら与えられなかった。
ファフニールが巻き上げた砂埃から顔を庇うことで精一杯で、あいつが何をしようとしているのかに気づくのが遅れた。ルキアから視界を奪い、自分の身体を思い切り膨らませ、風船のように空を漂ってルキアの頭上へと移動し……そこに至って、ようやく俺は奴がルキアにボディープレスを喰らわせようとしていることを悟った。
全体重をかけて繰り出されたその攻撃は、相当な威力を伴っていたらしい。
ファフニールが落下するのを見たと思った次の瞬間、轟音と振動が俺や七瀬が立つこの場所にまで伝わってきた。この状況を何も知らない人ならば、地震が起きたのかと誤解してもおかしくないほどだ。
砂埃が次第に晴れ、視界が開き始める。
そこには、ルキアの姿はなかった。風船のように膨らんだままの状態のファフニールが、うつ伏せの形でグラウンドの地面に寝そべっていた。
「へっ、ざまあみろ……ペチャンコだ……!」
ゲスな笑いを浮かべ、ファフニールはいかにも勝ち誇った様子だった。
脂肪で攻撃を吸収したり、さらにはこんなボディープレスを繰り出したり……奴は自分の体型を最大限に活用しているのだ。あんなに太っているのは戦闘にあたって不利益にしかならないはずだが、それを逆手にとる戦法を自ら考案し、実践しているのだろう。
自分の体型を言われてブチ切れた(といっても半ば奴の言いがかり・被害妄想なのだが)ことから見て、ひとたび頭に血が上れば何も見えなくなる気質かと思った。しかし戦い方から察するに、ああ見えて意外と分析派なのかもしれない。
「ルキアさん!」
七瀬が駆け出そうとするが、俺は彼女の腕を掴んで制した。
本来ならば、俺も同じ行動を取るべき状況だったのだろう。七瀬のようにルキアの身を案じ、危険を顧みずに駆け寄ってでも彼女の無事を確認すべきだったに違いない。
しかし、不思議と俺は取り乱さなかった。声を上げることすらなかった。
「智、何してるのよ! ルキアさんが!」
振り返った七瀬が叫んだ。
彼女の気持ちはよく分かる。ボディープレスの下敷きになったルキアが心配で、気が気じゃないのだ。
けれど、俺は彼女の腕を掴んだまま離さなかった。下手に近づくのは危険だった。
「心配するなって七瀬、大丈夫さ」
俺は断言した。
根拠なんてどこにもないのだが、俺はルキアが無事であると確信していた。
そう、あんなボディープレスで、最強のドラゴン少女たるルキアがやられるはずがないと分かっていた。それどころか……あのファフニールの身のほうが心配だと思っていたのだ。
やりたい放題やった挙句、あいつは『メスドラゴン』という禁句をルキアに投げつけてしまった。これからルキアの猛反撃が始まるはずだった。狂犬が暴れ出すのは、もう時間の問題だった。
そしてどうやら、俺の予感は当たっていたようだった。
「ほら、見てみろよ」
俺が指差した方向を、七瀬は目で追った。
その先では、何かに持ち上げられる形で、ファフニールがグラグラと揺れ始めていた。
◇ ◇ ◇
「うおっ、な、何だ……!?」
狼狽えるファフニールの様子から見て、彼はルキアを仕留められると確信していたに違いない。
実際のところ、反応が遅れたルキアに回避の余裕はなく、ボディープレスをまともに受ける形となってしまった。ただでさえ肥満体系のファフニールが、自重と落下速度を複合させて繰り出した攻撃だ。その威力は計り知れなく、人間はもちろん、そこらのドラゴンすら一発で沈んでいただろう。
しかし、ファフニールにとって大きな誤算があった。
誤算というよりは、計算外と言うべきか。今彼が相手にしているドラゴン、つまりルキアは人間ではないことはもちろん、並のドラゴンという枠組みからも逸脱する存在だったのだ。
真の姿に変身している彼女は、ファフニールのボディープレスすら受け止める怪力を持つ、規格外の戦闘能力を有するドラゴンなのだ。
「ペチャンコになったって、誰が……!?」
ファフニールを持ち上げたまま、ルキアは徐々に立ち上がっていく。彼女の細い両腕からは、想像もつかないような力だった。
「あ、ありえないぞ! ぼきゅの重さを受け止められる奴がいたなんて……お、お、お前、化け物か!?」
驚きのあまり、ファフニールは目玉を飛び出させそうな表情を浮かべていた。
きっと、彼はこれまでにも今のボディープレスをドラゴン相手に繰り出したことがあるに違いない。そして、その相手は例外なく戦闘不能となったのだろう。
自身の必殺技を初めて破られ、衝撃と驚きは相当のものだったようだ。
逃げることすら忘れていたファフニールを、ルキアは全身の力を込めて前方に投げ飛ばした。
「ぐわはっ!」
頭から落下したファフニールを視線に捉え、ルキアは夜空へと舞い上がった。
「言っとくけど、オナラぶっかけられた挙句にメスドラゴン呼ばわりまでされて、頭にきてるのはこっちなのよ!」
ファフニールは頭を押さえ、苦悶に呻き声を上げながら立ち上がった。
ルキアの金色の角が街灯の光を反射する、その青い瞳に相手の顔を映しながら、彼女は口元に炎を迸らせた。
「そういえばあんた、私の炎が美味いとか言ってたわよね?」
「ふ、ふん、だったら何だ? も、もっと食わせてくれるってことか……?」
顔を歪めるように笑いながら、ファフニールは応じた。
しかし彼のそんな表情も、今の状況では悪あがきにしか見えない。
「そんなに気に入ったんなら、いくらでもくれてやるわ!」
滞空したまま首ごと頭を後ろへ振って息を吸い込み、ルキアは炎を吐き出した。
そのブレスは、体育館で放った時とは比べ物にならない威力だった。戦いの場がこのグラウンドに移ったことで、気兼ねがなくなったからこそ出せる出力(もちろん、それでも100%ではなく、かなり加減していたが)だった。
上空から放たれたオレンジ色の炎の瀑布は、一気にファフニールへと向かう。逃げようとしても、逃げる時間もないだろう。
ファフニールは口を大開きにし、ルキアの炎を吸収し始めた。彼の一連の動作は、体育館の時の出来事をなぞるかのようにまったく同じだった。
吸い込まれた炎は吸収され、無効化されていく。
ルキアもファフニールも喋ることはできなかった。というよりも、ルキアは炎を吐いているから、対するファフニールはそれを吸い込んでいる真っ最中だったから、喋ろうとしても喋れる状況ではない。
ほくそ笑んだ表情を浮かべるファフニール――炎は吸いつくされ、通じないのかと思われたその時だ。
「んっ!? んぐっ! んごっ!?」
突然のことだった、ファフニールの顔から笑みが消え、苦悶の色に染め上げられたのだ。
内側から何かに押し上げられているかのように、彼の腹がボコボコと波打ち始める。それを見たルキアは、炎を吐くのをやめてグラウンドに降り立った。
もう、炎を吐き続けている必要はなかったからだ。
「やっぱり思ったとおり、あんたの腹は無尽蔵に炎を吸収できるわけじゃないみたいね、容量には限度がある……そうでしょう?」
ファフニールは答えなかった。いや、答えられなかったというべきだろう。
推測でしかなかったのだが、ルキアはファフニールの能力の欠点を見抜いていた。グラスに水を注ぎ続ければやがて氾濫して溢れ出すように、電池を過剰に充電すれば爆発するように、ファフニールが吸収できるエネルギーにも限りがあったのだ。
出力を上げたブレスを吸い込ませ続ければ、やがて暴発を引き起こすはず――ルキアの推測は、まさに的中していた。
「んがっ、もごっ、馬鹿な! ぼ、ぼきゅが吸収しきれないほどの出力なんて……!」
全身を滅茶苦茶に震わせ、もがきながらファフニールは言った。
その直後、爆発音とともに彼は口から炎を吹き出した。どうやら過剰に摂取した炎が体内で爆発を起こしたようだ。相当なダメージを負ったことは、想像に難くない。
「おごっ! お……ぼ……!」
絶対防御は、内側まで有効ではなかったようだ。
グラリと身を揺らした次の瞬間、ファフニールは白目を剥いて、背中からその場に倒れ込んだ。
勝負は決したと判断し、ルキアは人間の姿に戻る。
「生憎だったわね。私の炎、メニューには載ってないのよ」




