第50話 智の秘策
「へん、ざまあみろだ……!」
ファフニールは、ほくそ笑みながらグラウンドを逃走していた。
ちらりと振り返ると、今しがた飛び出してきた体育館が見える。追手が来る様子はない。いや、仮に追ってきたところで、問題にはならないと思っていた。
あの三人が何者なのかは分からない。恐らく学校側が警備要員として配置していたのだろうが、ふたりいた人間は非戦闘員であるようだし、あのドラゴンの少女も脅威にはならないと考えていた。
彼女はかなりの戦闘力を有しているようだったが、攻撃はいずれも無効化できるし、いざとなればまたリーサルウエポン――つまり、屁を喰らわせてやればいいと考えていた。いや、追ってくる様子がないことから考えると、さっきの一発ですでに行動不能になっているのかもしれない。もしくは行動不能になっていなくとも、勝ち目がないと判断して追跡を断念したのかもしれなかった。
しかしながら、完全に勝利したとは言い難い。というのも、彼がわざわざ夜中に学校へ忍び込んだ目的を達することなく、逃走せざるを得なくなったからだ。
あそこに長居すれば、増援が来る可能性がある。人数が増えれば分が悪くなるのだ。
「ふん、ま、まあいいさ……チャンスはまだある……!」
その時だった。
彼の目の前に、背に白い翼を生やした少女が降り立った。
◇ ◇ ◇
ファフニールの逃走を防ぐために、ルキアは智と七瀬より一足早くグラウンドへと向かった。
ここに来る前に少し『寄り道』をしてしまったものの、彼女が全速力で追跡すれば、追いつくのはそう難しいことではなかった。
グラウンドの照明はどれも電源が落とされていたが、脇に点在する街灯の光があったので、ルキアにはファフニールの顔がはっきりと視認できた。最初こそ驚いたような表情を浮かべたものの、彼はすぐに口角を吊り上げた。
「ふ、ふん! 追ってくるなんてな……ま、またぼきゅのオナラを味わいたいのか?」
「冗談じゃないわ。もう二度と喰らう気はないわよ」
言葉から察するに、ファフニールはどうやらルキアが追跡を断念したと思っていたようだった。
もちろん、ルキアにはそんなつもりなど微塵もない。ファフニールを見逃す気などないし、わざわざ屁をもう一度喰らってやる気もない。
だから彼女は対策を講じ、ある『秘策』を準備した上で立ちはだかったのだ。
「『もう二度と喰らう気はない』……!? はは、やっぱりお前馬鹿だな! ぼ、ぼきゅのオナラを防ぐなんて絶対に不可能だ!」
ファフニールは後方に飛び退き、ルキアと距離を取った。
「丸腰でノコノコ追ってくるなんて、ま、間抜けな奴が……こ、こ、これで完全にノックアウトしてやる!」
その場で、ファフニールは再び放屁した。
さっきとまったく同じ、危機的状況を想起させるにはどことなく間が抜けていて、日常生活でも大いに聞き覚えのある音が鳴り渡った。ルキアに背を向けて放屁しないのは、視線を外した隙を突かれないようにするためなのかもしれない。
そして、ファフニールは後方へと飛び退く。さっきとは違い、放屁してからの動きの流れはもう読めていた。翼を羽ばたかせて、その風圧で充満させた屁をルキアへと向かわせる。一連の動きはまったく同じだった。
しかしルキアが取った行動は、さっきとは打って変わっていた。
彼女はその手に隠し持っていた水色の洗濯バサミで、自らの鼻を挟んだのだ。
「は……?」
間抜けな声を発するファフニール、効果は劇的だった。
ルキアの鼻は洗濯バサミによって完全に塞がれ、屁の臭気を完全に遮断した。
臭いによる攻撃を繰り出してくるならば、嗅覚を自ら無効化すればいい。考えてみれば、至極単純なことだった。さらに洗濯バサミなら両手を塞ぐことはないので、リスクなしの対策であるといえるだろう。
翼を羽ばたかせて臭気を払い飛ばし、ルキアは鼻から洗濯バサミを外す。
ルキアは振り返り、体育館から出てきた智を向いた。彼の隣には、七瀬もいた。
「ナイスアイデアだったわよ」
軽く鼻をすすりつつ、ルキアは智に向けてサムズアップした。距離が開いていたが、彼女の声はしっかりと届いたらしく、智は手を振って合図してくる。
洗濯バサミで鼻を挟み、ファフニールの屁を防ぐ。
その対策の発案者は、智だった。彼は今朝の出来事――ルキアに洗濯バサミで鼻を挟まれて叩き起こされたあの一件を思い出し、同じことをすればファフニールの屁を防ぐことができるのではないかと提案したのだ。なので、ルキアは家庭科室から洗濯バサミを拝借し、この場に持ち込んだというわけである。
智がそうだったように、鼻を洗濯バサミで挟めば、人間ならばおそらく痛みに耐えられない。しかしドラゴンのルキアはそうではなかった。
見てくれはともかく、ルキアが言ったとおり、智の提案はナイスアイデアだったのだ。
「さあ、あんたの下品なリーサルウエポンは破れたわよ。それにここはグラウンド……体育館の中と違って、私も本気を出すことができるわ」
体育館の中には備品が数多くあったので、ルキアは気を遣って全力で戦うことはできなかった。しかし、グラウンドに戦いの場が移された今では、もう何も気にする必要はない。
今度は、こっちのリーサルウエポンを見せてやる。ルキアはそう思っていた。
「ほ、本気だと!? 一撃も喰らわせられていないくせに、ぼきゅに敵うとでも思ってるのか! オナラを防いだくらいでいい気になるな!」
ルキアを指差して、ファフニールは嘲るように言った。
確かに、これまでルキアは彼に僅かなダメージも与えることができていない。物理攻撃は脂肪の壁に阻まれ、ブレス攻撃は吸い込まれて無効化されている。
しかし、ルキアはもう突破口を見出していた。
「どうかしらね、降参するなら今のうちよ」
絶対防御を崩す術を、考え出していたのだ。
しかしもちろん、ファフニールがルキアの警告を聞き入れるはずがなかった。
「だ、だ、誰が降参なんかするか! こ、こ、こ、この生意気なメスドラゴンが!」
地団駄を踏みながら発せられた言葉には、こともあろうに『禁句』が含まれていた。
ブチン、とルキアの頭の中で音が鳴る。
「ちょっ……やばいぞ! 早く逃げろ!」
ルキアとファフニールのやり取りを見守っていた智が、叫んだ。
「ぶははは、誰が逃がすか! こいつはもう、し、し、し、死刑決定だ!」
「そういう意味じゃない、お前に逃げろって言ったんだ! ルキアに向かって『メスドラゴン』は禁句だ!」
智の言葉はファフニールに対して発せられていたのだが、どうやらファフニールはその意味を取り違えているようだった。
ルキアの頭の中で、怒りのボルテージが一気に上昇していく。彼女の拳が、ギリッと握られる。
「言ったわね……この品のないメタボドラゴンが、もう容赦しないわよ!」
ルキアの身体が淡い光に覆い包まれ、その中から白いドラゴンが姿を現した。
体育館の中では気を遣って変身できなかったが、ここならば真の姿になることができる。
「ふ、ふん! 変身したところで怖くなんかないぞ! ぶ、ぶ、ぶちのめしてやる!」
自らの力を誇示するように、ファフニールは両拳を打ち合わせた。
「やれるもんならやってみなさいよ、あんたを馬鹿にするとし、し、し死刑なんでしょ?」
「んなっ……お前、ぼきゅの吃音をマネしやがったな! き、き、き気にしてるんだぞ!」
体型のみならず、吃音もまたコンプレックスとなっているようだった。
そこを的確に煽られ、ファフニールは激昂する。しかし、怒りが頂点に達しているのはルキアも同じだった。
ドラゴンの姿に変身したルキアとファフニールは、対峙しながらお互いに咆哮を上げた。
夜空に届き渡るほどのそれは、戦闘開始の合図だった。