第45話 不穏な影
「ごちそうさま、七瀬さん。すごく美味しかった」
七瀬手作りのフルーツサンドイッチを完食し、ルキアはお礼とともに簡潔に感想を述べた。
ドラゴンは本来、食事をする必要がない。しかし味を感じることはできるので、ルキアの口の中にはまだ、マスカットやクリームの味が広がっていた。
ルキアと七瀬が学校で初対面した時、七瀬はルキアの好物がマスカットだということを聞いていた。彼女はきっと、ルキアの好みを考えてマスカットをサンドしてくれたのだろう。半分にカットされていたとはいえ、サンドイッチの具に使われているマスカットは大粒で香りも豊潤で、そしてとても甘かった。物が良いマスカットなのは一目瞭然で、値も張るはずだった。
言葉が足りないと思ったルキアは、重ねて感謝を伝える。
「本当にありがとうね、いい値段のマスカットだったんじゃない?」
「大したことないよ。まだあるけど、ルキアさん食べる?」
七瀬は、ショルダーバッグからラップにくるまれたままの新しいサンドイッチをルキアに差し出した。
「ううん、今は大丈夫」
ルキアは、やんわりと断った。
決して七瀬のサンドイッチがいらなかったのではない、次々と欲しがるのははしたない気がして、遠慮しただけだ。
「それで、これからどうするんだ?」
サンドイッチを完食した智が問うてきた。
ルキアは答えようとしたが、彼の口の横にクリームが付いてるのを見て、発する言葉を変更した。
「とりあえずあんた、口拭いたほうがいいんじゃない? クリーム付いてるわよ」
「えっ、ちょっ……マジか!?」
オーバーに焦る智の横で、七瀬がショルダーバッグからハンカチを取り出した。
「もう、しょうがないね。ほら智、じっとして」
手に持ったハンカチを智の顔に近づけたと思うと、七瀬はそれを智の口の横に宛てがい始めた。
「ちょ、七瀬?」
智の言葉が聞こえていないかのように、七瀬はハンカチをちょいちょいと動かした。すると、智の口の横に付いていたクリームはみるみる拭き取られていった。
「これでよし、もう大丈夫だよ」
「わ、悪い……ありがとな」
ハンカチを折り畳んでバッグに仕舞った七瀬に、智は少しぎこちない感じでお礼を言った。
喫茶店で少し会話した時、七瀬が智に対して単なる友達以上の感情を抱いていることを、ルキアは察していた。やっぱり間違いないな、とルキアは改めて思う。
ドラゴンであるルキアには、人間の感情が一から百まで理解できるわけではない。しかし、百に限りなく近い部分までは理解できるつもりだった。少なく見積もっても九十……誇張抜きにして、九十五までは分かる。姿こそ違えども、ドラゴンには人間と同じように『心』があるのだから。
智の口を拭いた時の七瀬の表情は、どことなく楽しそうで、嬉しそうだった。
少なくとも、好意を抱いていない相手には見せないような顔だと、ルキアには思えたのだ。
「ふっ」
こんなに良い子が近くにいることに、いつになったら気づくのか。
そう思うと、思わずルキアは笑みをこぼしてしまった。
「ん、どうかしたか?」
「何でもないわ。さて、そろそろ仕事に取り掛かるわよ」
智を振り切るようにして、ルキアは校舎へと向いた。
会話を弾ませるのは結構だが、この場に赴いた本来の目的を忘れてはならなかった。
サッカーゴールが盗み出された以上、犯人が何か、他の物を狙う可能性は否定できない。さらなる被害を防ぐことこそ、ドラゴンガードとしてルキアが遂行すべき任務なのだ。
学校の備品が盗まれれば、当然多額の損害が出る。金銭面ではもちろん、話に聞いた智の友人がそうであったように、多くの生徒に影響を及ぼすことになりかねない。
これ以上は、絶対にやらせてはならない。
改めて使命感を研ぎ澄まし、ルキアは警備業務に取り掛かることにした。
「まずは何をするんだ?」
「そうね……」
顎に人差し指を当てて、ルキアは考えた。
学校に常駐し、異常が起きないか見張る……それを効率的に行うにはどうすればいいのか。
「あ、そうだ」
そう呟くと、ルキアの身体が淡い光に包まれる。
ドラゴンの姿に変身したルキアは、智と七瀬に促した。
「上空から見回るわ、ふたりとも乗って」
その後、背中にふたりを乗せてルキアは夜空へと舞い上がった。彼女の白い身体が月光を反射し、淡く照らし出される。
学校やその周辺を見回るには、上空から様子を見るのがもっとも効率の良い方法だと考えた。自身だけでなく智と七瀬にも見張り役としての役割を与えられるし、自分の近くにいさせることで、彼らの安全も確保できる。
しかし最たる理由は、誰かに智と七瀬がここにいるのを見られた際の言い訳作りだった。
ドラゴンガードとして、本来ルキアは彼らが夜間に外出していることを咎める立場にあった。しかし『帰れ』と行ったところで智は聞かなそうだし、七瀬にはサンドイッチまでごちそうになってしまった。ならば多少手伝ってもらって、適当なところで区切りを付けて、改めて帰宅を促そう。それならばきっと、ふたりも納得するはずだ……と考えたのだ。
「見たところ……変な様子はないな」
「そうね……」
ルキアの背中の上で、智と七瀬が言った。
なお、『許容人数を超えない範囲で』という規定こそあるものの、騎乗免許さえ持っていれば、一度に騎乗させる人数に制限はない。なので、ルキアが智と七瀬を一度に背中に乗せることに関しては何ら問題はなかった。
空から見落ろす夜の学校の景色は、きっと新鮮なものだろう。見慣れた校舎も、体育館も、グラウンドも、校庭も、昼と夜とではまるで様子が違って見えるはずだ。
数分のあいだ、ルキアは滞空し続けて智と七瀬とともに見回った。
ふと、学校の近くに植えられた大きな木の陰から校舎の様子を窺うようにしている人物の姿が目に入り、ルキアは目を細めた。しかし、その人物がそれ以上の行動を起こす様子は見受けられなかったので、智と七瀬には伝えなかった。
「一度、降りるわ」
そう告げると、ルキアは翼を羽ばたかせて地上に降り立った。
智と七瀬が背中から降りたのを確認し、彼女は人間の姿に戻った。
「ふたりとも、そろそろ帰ったら? こんな時間にここにいることが知れたら、怒られるわよ」
とりあえず見回ったし、智も七瀬も飽きて帰りたくなってきているのではないか。と思い、ルキアは促した。
しかし智も七瀬も、首を横に振った。
「いや、まだいるよ。まだ数分程度しかいないし……これから何か起きるかもしれないしさ」
「私も」
どうやら、微塵も飽きてはいないようだ。
仕方ないわね、と心中で呟きつつ、ルキアは鍵を取り出した。サンドラから預かったそれは、言わば学校のマスターキーで、これがあれば校舎に入ることができる。
「分かった。それじゃ、これから学校の中を見回るわ。ふたりとも、私から離れないでね」
智と七瀬が頷いた。
鍵を片手に校舎に歩み寄る最中で、ルキアはふとサンドラのことを思い出した。
彼女は『自分も様子を見に行く』と言っていたが、具体的な時間は言っていなかった。もしもこの場に彼女が来て、智と七瀬がいるのを見られたら、大目玉になるのではないか。親しみやすくて軽い感じがしたけれど、それでもサンドラはルキアにとって先輩の立場にある。一般人をこの場に連れ込んだことが知れれば、シルヴィアに報告されたりするかもしれない。
やはり、智と七瀬に早く帰ってもらうしかない。それにはやはり、校舎内の見回りも終わらせて彼らの気を済ませることだ。
学校の職員用玄関の鍵を開けつつ、ルキアはそう思った。
「さ、行くわよ」
扉を開け、中に入る前に智と七瀬を振り返り、ルキアは促した。
その最中、彼女は物陰に潜む人物の姿を瞳に捉えて目を細めた。暗くてはっきりと顔は見えないが、どうやら木陰から校舎の様子を窺っていた者と同一人物らしい。
早くこの仕事を終わらせたいが、そうもいかなさそうだ。