第41話 サンドラ
「ちょ、ちょっと! 急に何なの!?」
ルキアの問いに応じることなく、コカトリスの少女は迫ってきた。彼女が履いているパンプスがアスファルトの地面を打ち、硬い音を鳴らす。
互いを隔てていた距離は、一瞬と呼べる時のうちに詰められた。それほどまでに彼女は素早く、ルキアにはそれほどまでに呼び掛ける猶予すら与えられなかった。
カールしたマゼンタの髪といい、赤いドレスやパンプスといい、少女の装いはどう見ても戦闘向きではない。しかしその洗練された動きを見て、ルキアはすぐに確信した。
彼女は非常に戦い慣れており、油断できる相手ではない、と。
「はあっ!」
パンチを繰り出さんとする彼女、ルキアは右手に提げていた買い物袋を手放した。コカトリスであるということ以外は何も知り得なかったが、恐らく片手が塞がった状態で応戦できる相手ではない。
その拳が届く範囲に踏み入るや否や、彼女は右から拳を突き出してきた。
ルキアは顔を横に動かしてそれを避けたが、今度は逆方向からパンチが襲い来る。回避は間に合わないと判断したルキアは、今度は両手で彼女の腕を横に押し出す形で攻撃をいなした。
即座に追撃が繰り出され、今度は蹴りが放たれる。
顔を狙ってきたそれを、ルキアは前転して回避した。一旦距離を取り、彼女の攻撃範囲外に逃れようとしたのだ。
「ちょっと、話を聞いてってば! 私に何の恨みがあるっての!?」
前転したルキアはすぐに立ち上がって振り返り、一時の猶予を見逃さずコカトリスの少女に呼び掛けた。最初の羽から始まり、絶え間のない猛攻を仕掛けられていたが、そのすべてをルキアは無傷で掻い潜っていた。
しかし、決して余裕があったわけではない。
「なかなかやるわね、こんなに攻撃を避けられたのは初めてだよ……!」
ルキアの質問に応じることなく、彼女は呟いた。
「ちょっと聞いてんの? 何でこんなことするのよ!」
コカトリスの少女は違うのだろうが、少なくともルキアには害意はない。
名前も知らない相手を攻撃などしたくなく、できることならば、穏便にこの場を収めたかったのだ。
「とぼけないで!」
会話など不要だ、と言わんばかりの様子だったコカトリスの少女が、やっとルキアの言葉に応じた。
「あなたさっき、公園で子供を襲ってたでしょ! ドラゴンの姿に変身して!」
「え……は!?」
ルキアは思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。
コカトリスの少女は、どうやら公園での一幕をどこかから目撃していたようだった。
もちろん、ルキアにはあの子供達を本気で傷つけるつもりなどなかった。女の子に意地悪をした挙句、ルキアの制止に耳を貸すどころか、彼女のワンピースをめくり上げて喜ぶマセガキ連中を懲らしめただけだったのだ。ドラゴンの姿に変身したのも、その一環だった。
しかしどうやら、彼女の目にはそうは映らなかったらしい。
「いやちょっと、あれは違うんだってば……!」
誤解を解こうとするルキアだが、コカトリスの少女が取り出した物を見て息をのんだ。
「ドラゴンの力で人を傷つけるのは原則違反、ドラゴンガードとして見過ごすわけにはいかないの!」
まるで警察手帳のごとく、彼女がルキアに向けて掲げたのはドラゴンガードの腕章だった。青い地に、盾を象ったマークが描かれたそれは、つい数日前にルキアが支給されたのとまったく同じ物だったのだ。どこに所属しているのかは分からないが、つまり彼女はルキアと同じく、警備業務に従事するドラゴンということになる。
突然の襲撃者が自分と同じ立場にある者であったことに、ルキアは驚いた。驚きつつも、なおのこと誤解を解かなければならなかった。
「ド、ドラゴンガード……!? ちょっと、私も……!」
ルキアも腕章を取り出そうとするが、それより先にコカトリスの少女が攻撃を再開した。
今度は、助走の勢いも伴った飛び蹴りだった。
「わっ!」
ルキアは、横へ飛び退くことで蹴りを回避した。
ほんの数センチ隣を、コカトリスの少女が通過していく。
その隙を見逃さずに、ルキアは後方へ大きく跳躍して再び距離を取った。
(説得が通じる状況じゃなさそうね……!)
こちらを振り返った彼女の顔を見て、ルキアは思った。
よほどドラゴンガードの職務に真剣なのか、あるいはとても正義感の強い気質の持ち主なのか、理由は定かではない。
確かなのは、あの少女がドラゴンによる犯罪を絶対に許さない気質の持ち主だということだった。ルキア自身もそうなので、気持ちは理解できる気がした。
説得によって誤解を解くことは困難に思えた。ならば、戦うという選択肢しか残されていない。できるだけ傷つけないように動きを止められれば、突破口も見出せるかもしれない。
コカトリスの少女を見やり、ルキアは身構えた。
(でも、戦うにしても用心しないと……コカトリスなら当然、『あの能力』だって持ち合わせているはずだから……!)
コカトリスの少女が、ルキアに向き直った。
「こうなったら……!」
コカトリスの少女はそうとしか言わなかったが、何をしようとしているのかは理解できた。
大きく息を吸い込む彼女を見て、ルキアも慌てて同じように息を吸った。
ドラゴンが息を吸い込むのは、ブレス攻撃の前触れと判断して間違いない。そしてコカトリスである彼女が何を吐くのかは、ルキアは十分に理解していた。だからこそ、絶対に阻止する必要があったのだ。
その攻撃が放たれてしまえば、少なくとも今のルキアに対抗手段はなかった。
回避は間に合わないだろうし、接近して物理攻撃で阻止する猶予もない。となれば、炎を吐き出して妨害するしか方法は思いつかなかった。
街中で炎を吐きたくはなかったが、何としてでも止めなければ敗北は決定的になる。コカトリスの少女が繰り出そうとしているのは、それほどまでに恐ろしい攻撃なのだ。
ルキアの口元に炎が迸り、ブレスを吐こうとしたその時だった。
「こら、何やってんだお前ら!」
突如、誰かがルキアとコカトリスの少女を制止した。
声は女性が発したものだったのが、そこには男性にも劣らない声量と迫力が内包されていた。
互いにブレス攻撃の中断を余儀なくされ、ふたりは同時に声の主を振り向く。その先には、ルキアが大いに見知った女性が腕組みをして立っていた。
「シルヴィア先生……!」
「シル姉……!」
ルキアとコカトリスの少女の声が重なる。
次の瞬間、彼女達はふたりとも「え?」と声を出しつつ、顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
「はいこれ……お詫びの印」
ビルの屋上の淵部分に座ったルキアは、差し出されたジュースの缶を受け取った。
贈り主は、ほんの数分前まで敵対していたあのコカトリスの少女で、誤解はすでに解けていた。きっかけは、あの場に現れたシルヴィアだった。
シルヴィアの口から、ルキアもまたドラゴンガードであるということが明かされ、続いてルキアも事情を説明した。そしてようやく、戦闘中止となったのである。
その後ルキアは買い物袋を回収し、それを家に置いてきて、改めてこの場に来た。
コカトリスの少女が、ルキアの隣に腰を下ろした。
傍から見れば、ビルの屋上の淵にふたりの少女が座っている光景は危険極まりない。しかし彼女達はドラゴンなので、転落したところで何の問題もなかった。
「本当、ごめんね? まさかドラゴンガードの仲間だなんて思わなくて、完全に早とちりしちゃって……」
「ううん、分かってくれれば別にいいの」
ルキアは、彼女の謝罪を受け入れた。
誤解さえ解ければ、別に責めるつもりはなかった。
コカトリスの少女がくれたジュースの缶には、葡萄のイラストとともに『巨峰サイダー』という字が大きく書かれていた。
「そうだ、自己紹介しないとね」
緩やかな風が吹き、彼女のマゼンタの髪や、背中のリボンが揺れるのが見えた。
「あたし、『サンドラ』」




