第37話 ドラゴンは眠らない
「おはよう智」
居間に入ると、ソファーに座った母さんがこちらを向いた。
母さんが向かっているテーブルの上にはスーパーのチラシが広げられていて、そばには赤マジックが置かれていた。どうやら、購入する商品をマークしていたらしい。
そこで俺はふと、気づいた。
「あれ? 母さん、どうしたの?」
「どうしたのって?」
俺が問うと、母さんは怪訝そうな表情を向けてきた。
この時間帯は、母さんは忙しそうにしているのが常だった。料理に掃除に洗濯……ざっと考えただけでも、母さんがこなす家事は数多くある。それら以外にも、俺が知らない仕事だってあるはずだ。それなのに今の母さんはまったく忙しそうじゃなくて、エプロンさえ着けていなかった。
記憶している限り、朝に何もせず座っている母さんを見るのは初めてだったのだ。
「いや、何だか母さん……今日は暇そうだから」
「私が朝の家事を引き受けたからよ」
不意に後ろから声がして振り返ると、いつの間にそこにいたのか、ルキアが立っていた。
その片手には洗濯カゴが抱えられているが、さっきと違ってその中はもう空っぽだ。どうやら、ぎっしりと詰まっていた衣類はすでに干してきたらしい。
「洗濯に掃除に朝食の準備、今日は私がやったから。お母様にゆっくりしてもらおうと思ってね」
ルキアは俺の横を通り過ぎ、洗面所へと向かっていく。
「お母様、洗濯物も干し終わりました」
「ありがとうルキアちゃん、すごく助かるわ」
なるほど、ルキアが家事を代行してたのか。
洗面所に入ったルキアが出てくる、もうその手に洗濯カゴは抱えられていなかった。
「ほら、あんたの朝ごはん。早く食べちゃってね」
そう言って、ルキアがダイニングテーブルを指した。
「あ、ああ……」
ルキアに言われるまま、俺は椅子に座ってダイニングテーブルに向かう。
献立は、ロールパンとポトフにサラダのようだった。
時間がないし、早いとこ済ませないと……と思いつつフォークを手に取った、その時だった。
「いっ……!?」
思わず、眉をひそめてしまった。
ポトフには厚切りベーコンにジャガイモに人参に白菜、それに……俺の天敵たる緑色の拷問器具、ピーマンが入っていたのだ。ほんの数秒前は美味しそうだと思ったのだが、ピーマンが使われていることに気づいた途端、手が止まってしまう。
恐る恐る横を向くと、ルキアが腕を組んで立っていた。
「食べるまで、そこから立たせないから」
嘘偽りじゃないことは、身をもって知っている。
逃げようとしても無駄だった。ドラゴンであるルキアの前では、逃走を試みたところですぐに捕まってしまうだろう。下手をすれば、この前みたいにピーマンを無理やり口に突っ込まれる事態にもなりかねない。
な、何とかこれを食べずに済ませる方法は……と悪あがきを企てていると、
「急がないと学校に遅れるわよ。言っとくけど私、今日はドラゴンガードの仕事は非番だから。送ってもらおうとしても無駄だからね」
「んなっ!?」
まるで俺の考えを先読みしたかのように言うルキア。最悪、ルキアに頼み込んで学校まで送ってもらうことも考えていたが、その希望はあっけなく潰えることとなった。
ぐうう、ピーマンを食わない限りは学校には行かせない、それはつまり……もう食う以外に道はないということじゃないか。なんつう荒療治だ……!
いや、もう俺にはそんなことを考えている時間すらなかった。
遅刻なんてしようものなら、シルヴィア先生に何を言われるか分からない。こないだはワークの運搬で済んだが、今度は居残りか、それとも母さんに密告されるか……あるいは俺が考えつかないような、さらに苛烈なペナルティを課されるかもしれないのだ。
「ぐうう……分かったよ、いただきます!」
半ばヤケクソになって、俺はルキアが用意した朝食に襲い掛かった。
ロールパンを平らげて、続いてサラダ……ツナとレタスと胡瓜にドレッシングがかかったそれも平らげて、最後にポトフだ。
できるだけピーマンの苦みを感じないように、他の具と一緒に咀嚼して飲み込む……そんな作戦を実行に移したのだけれど、思った以上に難しかった。
ルキアの歓迎会でピーマン入りのハンバーグを食った時、もしかしたら克服できるかもしれないと思ったのを覚えてる。でも、やっぱりまだ無理らしい。
◇ ◇ ◇
「送ってくれるなら、最初からそう言えばいいだろ……」
ドラゴンに変身したルキアの背中で、俺は露骨に口を尖らせつつ言った。
今日はドラゴンガードの仕事は非番だから、送ってはいかない。ルキアはそう言っていたのだけれど、俺がどうにかピーマン入りポトフを完食して『ごちそうさま!』と叫ぶや否や、彼女は『お粗末様。じゃ、学校行くわよ』と応じたのだ(俺はその時、開いた口が塞がらなくなってしまった)。
こうして俺は、昨日と同じようにルキアの背中に乗って登校することになったわけである。
「ああでも言わなきゃ、あんたピーマン食べないでしょ?」
あえて嘘をつくことで、遅刻への恐怖と焦りを煽ってピーマンを食べさせる……見事に俺は、ルキアの策に嵌ってしまったわけだ。
卑怯者、という言葉が出そうになるが、俺は口を噤む。
彼女は朝食の準備もしてくれたわけだし、何だかんだでこうして送ってもらっているのだから、感謝しなくてはならないだろう。
「それに、ドラゴンに乗ることにだって慣れてほしいしね。ホストファミリーがペーパーだなんて、恥ずかしいもの」
「あー、そういうことか」
純粋な親切心から、というわけでもないらしい。
まあ、こないだ落合と揉めた時の件で、ペーパーライダーであることを貶されて腹が立ったのは事実だ。それに、やっぱり俺自身もドラゴンに乗れるようになりたいという気持ちがあるのは間違いない。
俺のことを考えてくれてるのかな……彼女の金色の角を握り、ドラゴン独特の温かみを感じながら、そう思った。
ふと、俺は思い出して、
「けどお前、大丈夫なのか? 朝早くから起きて母さんの代わりに家事やって……疲れるだろうし、眠たいだろ?」
「は? あんた何言ってんの?」
ルキアはこっちを見なかった。飛んでいる最中なので、前方から視線を逸らすことはできなかったのだろう。
「人間と違って、ドラゴンは眠らないのよ。一応眠ることはできるけれど、その必要はないの。知らなかった?」
「あ、そういえば……」
ルキアに言われて、思い出した。
ドラゴンは、睡眠を取る必要がない……前々から知っていたことなのだが、人間の姿でいるルキアと過ごす時間が長かったので、彼女がドラゴンであるという認識が希薄になっていたようだった。
寝る必要がない……か。でも、一応眠ることはできるのだから、夢を見ることもできるのだろうか。今朝見たあの夢を思い返しつつ、俺はそんなことを思った。
さらにドラゴンは食事もする必要がないので、考えてみれば俺達人間よりもよほど低燃費なのかもしれないな。
「じゃあお前、夜は何して過ごしてるんだ?」
「物音を立てないように居間を掃除したり、暇だったら外をぶらついたり……龍界に里帰りしたりもしてるわね」
彼女なりに、長い夜を潰す手段が存在するようだった。
龍界から来たばかりのルキアには、人間界は新鮮なのだろう。
「屋根の上から月を眺めてるのもいいものよ、龍界とは全然違う景色が見えるし。まあ、今晩もきっと……そんな静かな夜を過ごすことになるでしょうね」
「なるほどな……」
飽きないのか、と尋ねようとした矢先に、ルキアが先んじて答えを教えてくれた。
この時、ルキアは微塵も思っていなかったことだろう。
今日訪れる夜。それは決して彼女の言うところの『静かな夜』などではなく、この前の落合の時に続いて、また新たな戦いが勃発する波乱の夜になるだなんて。




