第36話 夢の中の少女
一面の花畑だった。
見渡す限りに花が咲き乱れていて、温かい風がそれらを揺らし、花びらを散らせている。大きくて色鮮やかな蝶がたくさん舞い、我先にと花の蜜を吸っていた。蝶達にとっては、ごちそうの山なのかもしれない。
赤い花に、黄色い花、ピンク色の花、それに白い花……そう思ったところで、俺は気づいた。
白い花かと思ったそれは、その女の子が着ているワンピースの裾だった。
「あ……」
思わず、俺は声を出してしまった。
花畑に立つその女の子は、とても小さい。離れた場所にいるから正確には分からないけれど、彼女の背は大きく見積もっても、俺の胸のあたりまでしかなかった。
俺に背中を向けて立つその子は、見た感じだと幼い女の子に見えた。恐らく、十歳前半くらいだろう。
「ねえ、君……」
俺はその子に声を掛けていた。知らない人に話し掛けるなんて、いつもならやらないことだ。しかし、気づいた時には声を発してしまっていたのだ。
女の子は答えなかった。
踝までの丈の白いワンピースや、腰まで伸びた水色の髪を風に揺らしながら、彼女はただ黙って俺に背を向け続けていた。彼女は後ろ手に手を組んでいた。
俺の言葉が、聞こえなかったのだろうか? そう思った時だった。
「お兄ちゃん」
そう発したと思うと、彼女はこちらを向いた。
――思ったとおり、幼い女の子だった。
広いおでこを出していて、長く伸ばした水色の髪やくりっとした大きな瞳が印象的で、とても可愛らしい女の子だ。可愛らしいだけでなく、その容姿は整っていた。成長すれば、きっと美人になるに違いない。
そこでふと、俺はさっきの彼女の言葉を思い出した。
「『お兄ちゃん』? それって……誰のこと?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ、他に誰がいるの?」
彼女の言葉に、俺は思わず周りを見渡した。
しかし、ここに他の誰かの姿はない。咲き乱れた花々や、その上を蝶が飛んでいるだけだった。
「え、俺のこと? いや、人違いじゃないかな……俺に妹はいないし」
少女は、首を横に振った。
「今はまだ分からないと思うけど、きっといつか……」
その時、俺は気づいた。その子の身体が、光の粒へと変じ始めていたのだ。
「もう時間か……」
自身の手の平を見つめ、慌てる様子もなく、無垢な声で彼女は言った。
俺が何かを言うより先に、彼女はその場で身を翻して再び背を向けた。
「ごめんお兄ちゃん、また今度ね!」
今一度俺を振り向いて手を振ると、彼女は花畑を駆け出していく。
俺は思わず、その後を追った。
「あっ、ちょっ……君!」
どうして俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのか。俺のことを知っているのか? そもそも、君は誰なのか……訊きたいことは山積していた。しかし彼女の姿はぐんぐん遠ざかっていって、俺が全力で追いかけてもまったく追いつけなかった。
その背中が完全に見えなくなる直前に、彼女はまた俺を振り返る。
「女の子に、『メスドラゴン』って言ったらダメだからね!」
笑顔とともに、俺に向かって無邪気に手を振りながら、彼女は言った。
「メスドラゴン……!?」
それは、俺がルキアに投げかけた『禁句』だった。
どうしてそれを知っているのか? 疑問がまたひとつ増えた。だけどもう、彼女の姿は花畑の彼方に消えてしまっていた。
◇ ◇ ◇
「ねえちょっと、もう時間よ」
洗ったばかりの衣類が詰め込まれた洗濯カゴを抱えながら、ルキアは呼び掛ける。
その相手は松野智、ルキアがドラゴンステイしているこの松野家の長男であり、つまり彼女のホストファミリーだった。ルキアが松野家に寄宿し、彼やその母とともに生活を送るようになってから一週間ほどが過ぎていた。智は朝が弱いらしく、こうして起こしにくるのがルキアの日課となっていたのだ。
ルキアの声に、智は反応を示さない。
うつ伏せの体勢で布団から顔だけを出しているその様子は、まるで亀のようだった。
「起きなさいってば、遅刻しちゃうわよ」
ルキアは再度呼び掛け、彼の身体を軽く揺すってもみた。しかし、智は口をモゴモゴさせるだけで結果は同じだった。
「何だか、今日はいつも以上にしぶといわね……」
呆れたようにため息をつき、ルキアは眉の両端を吊り上げた。
いつもは一言で起きるのだが、今日の智はそうではなかった。ずいぶん寝つきが良いらしく、ルキアの声にまったく反応を示さない。
どうしたものか、と思った時だった。
「んん……メスドラゴン……」
うわ言のように発せられた智の言葉には、『禁句』が含まれていた。
ブチン、とルキアの頭の中で彼女自身にしか聞こえない音が鳴る。
もちろん、智の口から出たのはただの寝言であって、悪意をもってルキアに投げかけられた言葉ではないことは明白だった。しかしいずれにせよ、禁句であることに変わりはない。
どう起こしてやろうか考えていたところだし、ちょうどいい。
「ったく……!」
怒気を噴出するように声を出すと、ルキアは洗濯カゴの中から洗濯バサミをひとつ取り出した。
そして一片のためらいもなく、ガラ空きになった智の鼻を洗濯バサミでつまんだ。
「いっ、いででででででで! あばばばばばばばッ!?」
意味不明な声を上げながら、呼んでも揺すっても起きなかった智が跳ね起きた。
陸に打ち上げられた活きのいい魚のようにバタバタと布団の上で暴れたあと、彼は自力で洗濯バサミを鼻から外し、ルキアを向いてきた。
「にゃにゃにゃ、にゃにひゅんじゃ!?」
何すんだ!? と言おうとしたらしい。
鼻を押さえてその瞳に涙を浮かべながら、智が睨んでくる。対するルキアは片手で洗濯カゴを支えたまま、もう片方の手を腰に当てた。
「やっと起きたわね」
「起こすために人の鼻を洗濯バサミで挟むやつがいるかよ!」
布団を蹴散らしつつベッドから立ち上がり、智はルキアに抗議した。
「あんた今、寝言で言ってたわよ。例の禁句!」
「は? 禁句って……」
困惑したように言いつつ、智はティッシュペーパーを数枚手に取って鼻をかんだ。
「メスドラゴンよメスドラゴン、覚えてないの?」
「覚えてるわけないだろ、そんなんでいちいちこんなことされたら、においが感じられなくなっちまうよ……」
ほんのさっき自分の鼻から外した洗濯バサミをかざしつつ、智は言った。
「ていうか、無理やりにでも起こさないとまずい状況だったのよ。あんた、学校に行く準備しなくていいの?」
わざと言ったわけではないし、それ以上に智に登校時間が迫っていることを伝えるほうが先決だと思ったので、ルキアは話題を一新した。
「は? まだ時間には余裕が……」
壁に掛けられた時計を見つめつつ、智は言った。彼が言うように、時計が示している現在時刻はまだ、支度を始めるには少々早いように思える。
しかし、
「あの時計、さっきからずっと止まってるけど?」
智は見ても分からないようだが、ルキアは違った。人間である智より、彼女の視力は数段優れていたからだ。
時計の針は同じ時刻を指し示したまま、完全に止まっていたのだ。ルキアにはもちろん、最後にいつ時計の電池を入れ替えたのかも分からない。
「は? そんなはずは……」
半信半疑の様子で、智は時計に歩み寄って確認し……絶句した。時計が動いていたかどうかは、彼の表情が雄弁に語っていた。
智は慌てた様子でスマホを手に取り、その画面を見つめた。どうやら、現在時刻を確認しているらしい。
「あああやばい、遅れる! 遅れちまうっ!」
通学用鞄を手に取り、智は慌ただしい様子でルキアの隣を通過し、階段を下りていく。
「ほんっと、忙しい奴ね」
そう呟くルキアの顔には、まんざらでもない色が浮かんでいた。




