第35話 それぞれの思い
倉庫を後にした俺達は、帰路についていた。
ルキアとベルナールがドラゴンの姿に変身し、ルキアは俺を、ベルナールは七瀬をその背中に乗せて飛んでいた。もう夕刻の時刻を回っていて、周囲は夕焼けでオレンジ色に染まっている。どこかからか、カラスの鳴き声が聞こえてきた。
ふと、俺は気づいた。
これまでドラゴンの背中に乗ることに抵抗があったのだが、今は恐怖を感じなかった。それどころか、絵本のページを次々とめくるように移りゆく街の景色が素敵で、思わず目を奪われていた。
ルキアがうちに来るまで、ドラゴンに乗る機会に恵まれなかったこともある。しかし、半ば食わず嫌いでペーパーライダーを押し通していたことが、もったいなく思えてきた。
何事も、まずは挑戦だな……と思っていた時だった。
「智、本当に怪我はないの?」
横から、七瀬が問うてきた。
互いの翼がぶつからない程度の隙間を開けて、ルキアとベルナールは近い距離を飛んでいる。お互いの家族であるドラゴンの背中の上で、俺達は会話をすることができた。
「平気さ、何ともないって」
さっき倉庫でも同じ質問をされたが、俺の身を気遣っての言葉に違いなかった。
七瀬への返答に、一切の嘘偽りはない。
どこも痛くなく、怪我もなく……自分でも信じられないが、俺はまったくの健常だった。
「智君、さっきはありがとうございました」
七瀬を庇った時のことを思い返していると、ベルナールが不意に感謝を伝えてきた。
「ん、どうした?」
その理由が分からなくて、俺は問い返した。
七瀬を背中に乗せて飛びながら、ベルナールはこっちを向いてきた。
ドラゴンゾンビらしく、その見た目はとてつもなく恐ろしい。でも、穏やかで紳士的な物腰は、人間の姿でいるベルナールと変わらなかった。
「お嬢様を助けていただいたことです、僕の助けは間に合わなかった……君が守ってくれなければ、お嬢様に危険が及んでいたのは疑いようのない事実でした」
「あ……いや、いいよ。むしろ、ベルナールこそ俺達を助けに来てくれただろ? こっちこそありがとな」
ベルナールの黄色い瞳を見つめながら、俺は応じた。
多数のドラゴニュートに包囲され、多勢に無勢だったあの状況を打開してくれたのは、他でもないベルナールだ。彼が来てくれていなければ、ルキアはもっと不利な戦いを強いられていただろうし……正直、俺だってどうなっていたか分からない。
「私からもお礼を言うわ、ありがとうベル。あなたのお陰でワイバーンとの戦いに専念できた」
ルキアも俺に同意し、ベルナールに感謝を表明した。
思えば、ドラゴンに変身した状態同士での会話って、ちょっと新鮮だな。
ふたりの会話を聞いていて、思い出した。ベルナールの他にも、俺にはお礼を言わなければならない相手がいた。
「それに七瀬も……助けを呼んでくれたどころか、わざわざあの場にまで来てくれて……しかも俺達が危ない目に遭ってると思って、スパナまで買いに走ってくれたんだろ?」
ベルナールに救援を頼んでくれたのは、他でもない七瀬だ。
その点を鑑みれば、彼女が一番の功労者と称しても間違いではない気がした。
しかも自転車であの倉庫まで来て、俺達があそこに閉じ込められていると察するや否や、即座にスパナを買ってきて南京錠を破壊する行動力と決断力……凄まじいと思った。凄まじいけど、同時にありがたくもあった。
救援をベルナールに頼んだんだから、あとは彼に任せることもできたと思う。七瀬がそうしなかったのは、どうしてなのだろう?
「あ……ううん、いいよそれくらい。気にしないで」
俺はポケットから財布を取り出した。
「スパナ代、返すよ。いくらしたんだ?」
「いやいや、大丈夫だよそれくらい! 本当に気にしないで? たったの何千円かだから」
財布を開いて、数枚の千円札を取り出そうとしたのだが、七瀬に制されて引っ込めた。
彼女の『たったの何千円』という言葉に、思わず苦笑いしてしまう。俺にとっては千円札一枚でもそれなりの貴重品なのだが、さすがはお金持ちのお嬢様だな。
ていうか、どうしてさっきから七瀬はどこか慌てふためいた感じなのだろうか。気づけば、ちょっと顔が赤いような……?
「それにしても七瀬さん、すごいね。南京錠を壊す方法なんて、どうして知ってたの?」
ルキアの言葉に、俺も七瀬を見つめた。
「うちの会社、主力事業は金属加工だから。ドラゴンでも壊せない独自の金属素材とかも開発してるんだよ、エックスブレインとの取引もあるんだ。智には言ってなかったっけ?」
ポニーテールに結われた茶髪を手で押さえながら、七瀬は応じた。
「いや、初耳だったと思う……」
記憶している限り、七瀬からそういった話を聞かされたことはなかったと思う。
なるほど、頑丈な製品を開発する過程で、従来品の南京錠を簡単に壊す方法も耳に挟んだってことだろうか。といっても七瀬は携わっているわけじゃないだろうから、親父さんあたりから聞いたのかも。
ていうか、ドラゴンでも壊せない金属素材ってすごいな。
「お嬢様、このあたりで……」
と、ベルナールが告げると、七瀬は「あ、うん」と頷いた。
「それじゃあ智、ルキアさん、私達は向こうだから……今日はありがとう。また明日ね」
うちとは逆の方向を指差しながら、七瀬は言った。
「ああ、また明日」
「今日はごちそうさま。こっちこそありがとう、七瀬さん」
俺とルキアは、それぞれ七瀬に別れを告げた。
「それでは、失礼いたします」
そう言い残すと、ベルナールはその翼を羽ばたかせて、空の彼方へと飛んでいく。彼の背中の上で、七瀬が最後まで俺達に手を振っているのが見えた。
七瀬とベルナールを見送って、俺とルキアだけになる。
「それにしても、気になるわね……」
ルキアの翼が巻き起こす風切り音を聞きつつ、街の景色に視線を泳がせていた時だった。
前方を見つめたまま、ルキアが不意にそう言った。
「気になるって、何が?」
「あんたが発揮した謎の力よ。ドラゴンの炎を打ち消すなんて、単なる人間ができることじゃないでしょ?」
ルキアの言葉を受けて、俺は今一度思案を巡らせる。
あの時、一体何が起きたのだろうか。
偶然、炎が俺を避ける形で分散したのか。それとも、あの場に他のドラゴンがいて、俺を守ってくれたとか……色々と仮説を立ててはみたけれど、結局はどれも推測の域を出ない。
少なくとも、今は何も分からなかった。考えるだけ無駄だと判断して、俺はとりあえず顔を上げた。
オレンジ色の空を、数羽のカラスが鳴き声を上げながら横切っていくのが見えた。
◇ ◇ ◇
それからしばらく、ルキアは背中に智を乗せ、何も言わずに翼を羽ばたかせていた。
智の自宅が遠目に見えた時、彼女は口を開く。
「ねえ、もしかしてあんた……本当はドラゴンなんじゃないの?」
「は? そんなわけないだろ……!」
ルキアが言うと、智は答えた。
それはもちろん、冗談交じりの質問だった。しかしそうでもなければ、智が有する謎の力の説明がつかないように思えたのだ。
「冗談よ、言ってみただけだってば」
そう答えはしたものの、ルキアは表情に疑問の色を滲ませる。
(ま、それは当然よね。そもそもこいつからは、ドラゴンのにおいなんてしないし……)
智が正真正銘人間であることは、疑いようのない事実だった。
ルキアの嗅覚は、人間の姿に変身したドラゴンを見破れるほどに鋭敏だ。もしも智が人間ではなくドラゴンなら、見逃すはずなどない。
そもそも、戸籍上の記録だって残っているはずだから、ドラゴンが人間のふりをして生きていくのはまず不可能だ。
「ま、あんたのお陰で七瀬さんは助かったんだし……お礼を言っておくわ」
今日知り合ったばかりだが、七瀬はルキアにとってすでに友人と呼べる間柄だった。
友達を危機から救ってもらったことに関しては、感謝しなくてはならないだろう。
「いや、俺は別に……」
飛んでいる最中だから、ルキアは前方から視線を動かすわけにはいかなかった。智の顔は見えないけれど、声を聞けば、彼が赤面しているのは明白だった。
それが何となくおかしくて、ルキアは笑みをこぼす。
「今朝の送迎代のマスカットはチャラにしてあげる。それと今晩のおかず、ピーマン料理は勘弁してあげるわ」
「なっ、ピーマン料理を出す気だったのかよ!?」
慌てふためく智に、ルキアはまた笑みを浮かべた。
「言ったでしょ? 私が責任を持ってあんたのピーマン嫌いを矯正させるって。ま、それは明日からね。そうと決まれば、早く帰ってお母様と献立の相談をしなくちゃ……というわけで、スピードを上げるわよ」
返事を待たずに、ルキアは一層の力を込めて翼を羽ばたかせ始めた。
「うわっと……!」
智が驚くような声を発した。
「角、掴んでもいいわよ」
聞かれるよりも先に、ルキアは智に促した。
それは、彼への信頼が芽生えつつあったからこその言葉だった。