第33話 謎の力
「お嬢様!」
ベルナールにとって、雪村七瀬はホストファミリーだった。
いや、そんな枠組みに収まる程度の存在ではない。雪村家にドラゴンステイしてから、彼はもう十年以上に渡って七瀬を見守り続けてきた。彼女が幼い頃からの仲であり、どれほどかも分からない時を共有した、大切な家族だったのだ。
だから当然、七瀬の危機に駆けつけようとしないはずがない。
ワイバーンがルキアに向けて吐き出した炎が流れ、七瀬へと向かってしまった。
それは恐らく、元凶たるワイバーン自身にも想定外の出来事だったに違いない。言うなれば、不幸が引き金となって生まれた状況だった。
イレギュラーな事態だったことに加え、伏兵として襲ってきた五体目のドラゴニュートとの戦闘に注意を集中させていたせいで、助けに向かうのが遅れた。
ベルナールが叫んだ時には、もう七瀬の姿は炎の中に飲み込まれていたのだ。
生身の人間が、あんな炎に包まれて無事でいられるはずがない。助かるはずがない――重苦しい絶望が、ベルナールの心を蝕みかけた時だった。
――炎の中に、人影が浮かび上がった。
◇ ◇ ◇
「はあ、はあ……!?」
どうしてこんなことが起きたのか、俺自身にも分からなかった。
七瀬に炎が迫っているのを見て、思わず彼女の前に飛び出してしまった。ルキアと違い、ドラゴンではない俺は七瀬を守る術など持ち合わせていない。そんなことは百も承知だったはずなのに……体が勝手に動いてしまったのだ。
炎の前に歩み出た時点で、俺の運命はもう決まっていた。焼き尽くされて、絶命する。それしかなかったはずだった。
それなのに……俺はこの場に立っていた。焼き尽くされるどころか火傷のひとつも負うことなく、五体満足のまま、まったくの無事でいられていたのだ。
「さ、智……!?」
後ろにいる七瀬が、驚いたような、心配するような声色で俺を呼ぶ。
驚いたのは、俺自身も同じだった。
迫りくる炎の恐怖に思わず目を閉じてしまったが、それでもほんの数秒前の出来事は、俺の頭に残っていた。
俺に向かってきた炎が俺の前で二分され、消失した。それはまるで、見えない壁に阻まれたかのようにも思えた。もちろん、俺が何かをしたわけではない。というか俺が何をしようと、炎を遮ることなどできるわけがない。
だったら、誰かが何らかの方法で助けてくれたのだろうか。でもベルナールは離れた場所にいたし、ルキアが何かをしたわけでもない。
そこで、俺は気づいた。
そうだ、ルキアはどうなった? ワイバーンの炎を間近で受けて、その中に飲み込まれて……まさか……!
ルキアが、絶命したかもしれない。いくら彼女が凄まじい強さを誇るドラゴンといえど、決して無敵じゃないはず。あんな炎を間近で受ければ、きっと無事でなど……! 恐ろしい想像に、一瞬とはいえ背筋が凍るような感覚を覚えた。
しかし、次の瞬間には、それが無用な心配だったことを知った。
◇ ◇ ◇
ルキアは、決して油断していたわけではなかった。
しかし落合の言葉によって注意を逸らされ、一瞬とはいえ智達のほうに注意を逸らせてしまい、ワイバーンに隙を見せてしまったのが失敗だった。さらに、こんな倉庫の中で下手に炎を吐いてきたりはしないだろうという思い込みも、一因だった。
結果として、ルキアはワイバーンが最大出力で放った炎をまともに浴びることとなってしまった。
しかし、ルキアは直前で自らの翼を交差させて盾にすることで、それを防いでいた。あの爆弾を繰り出す岩石ドラゴンと交戦した時のように、咄嗟の対応で事なきを得ていたのだ。
防ぐことができた理由は、ワイバーンの最大出力がルキアにとってあまりにも微々たる威力だったからなのか。それとも、ルキアの防御力がワイバーンのブレスを寄せ付けないほどに強固だったからなのか。あるいは、その両方か。
詳しくは分からなかったが、少なくともルキアには、今はそんなことはどうでもよかった。
生身で炎を打ち消した智も気になってはいた。しかし現状、ルキアにとって最も優先すべきは、目の前にいるワイバーン、それに落合を成敗することだった。
「ありえねえ、俺の最大出力の炎を喰らって無傷だなんて……!」
ワイバーンは、目に見えて狼狽していた。
尻尾の毒棘をルキアに破壊され、最大出力の炎まで防がれ、自身の武器をことごとく破られたのがショックだったのだろう。
その様子から察するに、もう攻撃手段は持ち合わせていないに違いなかった。
「さっきのが最大出力? 冗談でしょ、お陰でほんのり温かかったわよ」
ルキアの言葉は決して嘘偽りではなく、ワイバーンが吐いた炎ではまったくダメージになっていなかった。
「この野郎、コケにしやがって!」
逆上したワイバーンが、真正面からルキアに挑みかかる。
その行為には戦術など一切伴われておらず、破れかぶれの悪あがきに過ぎなかった。
火事を起こすわけにはいかないので、ブレス攻撃は使わないほうがいい。ルキアはそう思っていたのだが、もうその必要もなかった。さっきワイバーンが炎を吐いた時、この倉庫が耐炎素材で作られていることは確認済みだった。
つまりルキアは、気兼ねなくブレス攻撃を使用できるのだ。
「炎はね……こうやって、吐くのよ!」
ドラゴンの姿のまま、ルキアは思い切り息を吸い込んだ。
次の瞬間、彼女はその口から炎を吐き出した。
反応する間もない速度で放たれた、オレンジ色に輝く炎の奔流――それはワイバーンを直撃し、その身体を後方へと押し飛ばした。
凄まじい威力を伴ったブレス攻撃だが、それでもルキアは本気を出していない。仮に彼女が最大出力のブレスを繰り出していれば、ワイバーンなど一瞬で消し飛んでいただろう。
「があっ……!」
吹き飛ばされたワイバーンは、そのまま倉庫の壁を打ち砕いて静止した。
耐炎素材は、文字通り燃えない素材という意味である。ドラゴン建築の家屋などにも用いられるが、完全無敵の強度を備えているというわけではない。
もう、ドラゴンの姿でいる必要はない。
そう判断したルキアは、人間の姿に戻った。ワイバーンが戦闘不能かどうかなど、もはや確認する必要もなかったのだ。
「火力が全然足りてないわね。ガソリンでも飲んでみたら?」