第32話 危機
ドラゴンの姿に変身したルキアは、正面からワイバーンを見据えた。
ワイバーンの隣には落合が立っており、忌々しげな目つきで彼女を睨んでいる。
「よくも、あいつらを……!」
ワイバーンが言う。
彼の言うところの『あいつら』とは、さきほどベルナールによって眠らされたドラゴニュート達のことなのだろう。
ベルナールは彼らを眠らせただけであり、傷つけたわけではない。それでも、仲間を無力化されてはらわたが煮えくり返る思いのようだ。
ルキアは前に歩み出る、身を覆っても余るほどの大きさの翼が、かすかに揺れた。
「ドラゴンの力で人を傷つけるあんたに、そんなことを言う資格はないわよ」
怒りを抱いていたのは、ルキアも同じだった。ドラゴンが人間の姿に変身し、その正体を隠匿して力を悪用することは重罪だ。
いや、そんなことは大した問題ではない。
ルキアが憤りを感じているのは、ワイバーンが原則を破ったからではなく、彼がその力で人を傷つけたからだ。至極単純なこと、力を悪用するドラゴンが許せないのだ。
ワイバーンが睨みつけてくる。
鋭く威圧的で、向けられた者すべてに恐怖を与えるような眼差しだった。しかしルキアは視線を逸らさず、それどころか彼女は、ワイバーンを睨み返した。
「二度とあんなことができないように、ぶっ飛ばしてやるわ」
そのルキアの言葉が、戦闘開始の引き金となった。
咆哮を上げたワイバーンが、翼を広げて正面からルキアに襲い掛かる。
悪辣な相手だ、何か小細工でも仕掛けてくるのかと思ったが、そういった様子は見受けられない。とはいえもちろん、容赦する気などなかった。
ワイバーンは、最大の武器である尻尾の毒棘をルキアに打ち砕かれ、すでに失っている。だから、代わりに両足の爪を振りかざして襲ってきた。
侮れないとはいえ、爪による攻撃は危険度が低く思えた。毒棘は少し傷つけられただけでも致命傷に繋がりかねないが、引っ掻きはせいぜい手傷を負うくらいだろう。
しかし、ルキアは手傷すら負うつもりはなかった。
自らに向けて突き出された鋭利な爪を、ルキアはその足首を掴み取る形で制し、防いだ。
「まだ分からないの? 格が違うのよ」
この倉庫に来る前の戦闘で、すでにルキアとあのワイバーンとでは、戦闘能力に大きな差があることは承知のはずだった。
勝てる相手ではないと思い知っているはずだし、この倉庫には逃げ道もない。ならば降伏以外に選択肢は存在しないはずだ。往生際悪く抵抗を続けるワイバーンの思考回路が、ルキアには理解できなかった。状況的に、ワイバーンの行動はもはや悪あがきに等しい。
ならば、力で制圧するのみだった。ワイバーンの足首を放すと、ルキアはその尻尾を床に叩き付けた。その衝撃で、倉庫全体に振動が走る。
次の瞬間、彼女はその場で回転し、ワイバーンの身体を尻尾で打ち払った。鞭を振り抜くかのごとく、凄まじい速度と威力を伴って放たれた打ちは直撃し、ワイバーンを弾き飛ばした。
「があっ!」
砂埃を舞い上げ、倉庫の床を抉りながら、ワイバーンが転がりゆく。
大きなダメージを負ったのは明白だったが、ルキアの猛攻は止まらない。
翼を羽ばたかせ、ルキアは舞い上がる。空中から急襲するつもりだった。最大の武器たる炎のブレスを吐きたいところだったが、場所が倉庫の中である以上、それは断念せざるを得ない。
だがブレスを吐けないにせよ、とどめの一撃を与えることに変わりはない。
空中で制止して狙いを定め、ルキアがワイバーンに迫ろうとした時だった。
「おい、いいのか! 松野達が危ないぞ!」
突然、落合が叫んだ。
繰り出そうとした攻撃を中断し、ルキアは智達を振り返った。
――新手、つまり五体目のドラゴニュートが智達の前に立っていた。
(まさか、まだいたの……!?)
迂闊だった。
ワイバーンによってこの場に呼び寄せられたドラゴニュートは、ベルナールによって眠らされたあの四体で全員だと思っていた。思い込んでしまっていた。伏兵として、彼らは予備の戦力を隠していたのだ。
さらに、ルキアは失敗を重ねる。
智達のほうへ視線を移したことで、ほんの一瞬といえどもワイバーンから注意を逸らせてしまった。
「くたばれ!」
ルキアはブレス攻撃を遠慮したが、ワイバーンはそうではなかった。
彼女が見せた隙を見逃さず、ワイバーンはルキアに向けて炎を吐き出した。
恐らく、出力を最大にして放ったのだろう。放たれた炎の奔流はルキアの身体を覆い尽くすほどの大きさで、避けることなど不可能だった。
「っ!」
一瞬と呼べる時のうちに、ルキアの身体は炎の奔流に飲み込まれた。
◇ ◇ ◇
「ベルナール、危ない!」
俺が叫んだのと、ドラゴニュートがベルナールに襲い掛かったのは、ほぼ同時の出来事だった。
あの四体で全員だと勝手に思い込んでいたが、大きな間違いだった。
連中にはまだ伏兵がいたのだ。どこかに身を潜めて様子を窺っていた五体目のドラゴニュートが、ベルナールに不意打ちを仕掛けた。寸前で俺はそれに気づき、警告を発したのだ。
さっきの一体と同じように、ドラゴニュートは両手の爪を伸ばし、それを武器としてベルナールに襲い掛かった。
「俺は、あいつらのようにはいかねえぞ……!」
突き出される爪を、ベルナールはドラゴニュートの手首を掴んで押し返していた。
言葉から察するに、あのドラゴニュートはベルナールの能力を盗み見て、それを分析・考察したあとで攻撃を仕掛けてきたようだ。用意周到に、確実にベルナールを倒す算段を組み上げたうえで奇襲攻撃を行ったのだ。
ドラゴニュートはベルナールの手を振りほどくと、彼の腹部に蹴りを入れた。
「ぐっ!」
後方へ吹き飛ばされたベルナールは、空中で一回転してすぐさま体勢を立て直した。
しかし、気を抜く猶予は与えられない。
ドラゴニュートがその腕を勢いよく振ると、爪がまるで手裏剣のように飛び、ベルナールに迫った。
ベルナールは、横に素早く移動してそれを避けた。数秒前まで彼が立っていた場所に、ドラゴニュートが飛ばした爪が突き刺さる。
切り離した爪を飛ばし、相手を串刺しにする――それがあのドラゴニュートの能力のようだ。
「ブレス攻撃は、吐くのに一瞬の隙が生じる。そこを素早く連続で妨害してやれば、繰り出すことすらできない。毒を仕込んだ刃も、近づかなければ相手に傷をつけられない……」
喋りながら、ドラゴニュートがその右手を目の前にかざした。
指の先から新たな爪が生え、再生される。
「さらに言っておくが、解毒剤も忍ばせてきた。仮にお前の毒を受けたところで、俺には痛手にすらならねえよ」
思えば他の連中よりも体は大きいし、思慮深くて慎重重視なその雰囲気といい……もしかしたら、リーダー格の存在なのかもしれなかった。
「お礼を言わなければいけませんね、僕を倒すためにそこまで綿密に準備してきてくれるとは」
ベルナールの言葉からは平常心が感じられた。しかしわずかながら、その表情には苦悶の色が滲んでいるように見えた。きっと、さっき受けた蹴りのダメージのせいだろう。
ただの蹴りとはいえ、ドラゴンの蹴りなら威力は人間のそれとは段違いだ。
ベルナールにとって、毒は切り札のはずだった。それを無力化する手段を講じられた以上、この戦いは不利に思えた。
「ベル!」
七瀬が叫んで、ベルナールに駆け寄ろうとする。
「来ないでください、お嬢様!」
しかしベルナールは、七瀬のほうを振り向かないまま彼女を制した。
「どうやら、さらなる奥の手を使う必要がありそうです。解毒剤でも無毒化できない、より濃度の高い毒を」
ベルナールが言った、次の瞬間だった。
「くたばれ!」
遠くから聞こえたその声に、俺は思わず振り向く。
声の主は落合に加担するあのワイバーンで、相手はルキアだった。
智達のほうを向いているルキア、その背後から突如、ワイバーンが炎を吐きかけた。その出力は凄まじく、倉庫内に光と熱気が届き渡るほどのものだった。
ドラゴンに変身したルキアの姿が、炎に飲み込まれて見えなくなる。それを見たと思った次の瞬間、流れた炎が俺達のほうに迫ってきた。
炎が向かう先に立っていたのは、七瀬だった。
「えっ……!?」
人の命を奪うには十分すぎる威力の炎――それが迫ってくる中、七瀬はただ、その場に立ち尽くすのみだった。




