第26話 心を奮い立たせて
「落合!」
そう叫んだが、落合は一切の反応を示さない。俺とあいつとの距離は僅か数メートル。聞こえていないだなんてことは、絶対にありえないはずだった。
落合に従う男が、倒れ伏した少年の胸倉を掴んで強引に立ち上がらせた。彼が発する苦悶の声が、俺の耳にも届く。
「やめて……! お願いだからやめて!」
少女がまた、涙を流しながら哀願した。
やめさせろよ!
いよいよ見ていられなくなって、そう叫ぼうとした時だった。
「おやおや、誰かと思えば……ドラゴンにも乗れない松野じゃないか」
俺に背を向けたまま、落合は言った。いつものように横柄で嫌みったらしくて、人を小馬鹿にしたような口調だった。
ポケットに手を突っ込んだまま、落合が振り返る。
その目つきも気持ち悪かった。まるで眼前を跳び回る羽虫を見つめるかのような、俺の存在など微塵も気に留めていないような……そんな目つきだった。
ぶん殴ってやりたい、心底そう思った。
だが、そんなことはもちろんできない。今までも、落合に対してそう思ったことはあったのだが、それをできない理由がある。
「もうやめろよ。彼、謝ってるだろ」
命じているというより、哀願しているような声しか出せなかった。
落合は暴力団関係者で、こいつに逆らってリンチに遭った奴もいる。下手に機嫌を損ねようものなら、何をされるかなんて分かったもんじゃない――その認識が、俺の心に恐れを生み出していたに違いなかった。
落合は従わなかった。それどころか、鼻で笑った。
「ずいぶんと情けない声じゃないか。今、何か言ったのか?」
もう、俺は何も言えなかった。
まばたきもせず、ただ拳を握りしめることしかできなかった。
「どうした卿介。そんな小僧に構ってるより、こいつがぶっ潰される様子を見ていたほうが面白いんじゃないのか?」
男が、少年の胸倉を掴む手に力を込めた。
苦悶の声がまた発せられて、俺は思わずビクリと身を震わせた。
「ああ、そうだな。それじゃ、さっさとゴミ掃除を済ませろよ」
男のほうを瞥見してそう言うと、落合は俺に向き直った。
「喜べ松野、お前にも見せてやるよ」
悪意が滲み出るような笑みを浮かべ、落合が言う。
その向こうで、少年の胸倉を掴んだまま、男がもう片方の拳を握り、そして振り上げていく――あいつがこれから何をするつもりなのかなど、考えるまでもなかった。
「ちょっと、そんなこと……!」
七瀬がそう言ったのが聞こえたが、彼女にはどうすることもできない。
俺も同じだった。あんな屈強で柄の悪い男に立ち向かう勇気など、持ち合わせていなかった。
「やめ……!」
やめろ、と叫ぼうとした時だった。
俺のすぐ横を、白い何かが通り抜けていった。
状況が状況だけに、忘れてしまっていた。今ここに居合わせたのは俺と七瀬と、それからもうひとり……この場を打開できる可能性を秘めた彼女が……最強のドラゴン少女がいるのだ。
その彼女、ルキアは前方に歩み出たかと思うと男の手首を掴み上げた。
たったそれだけで男の腕は拘束され、少年を殴りつけることができなくなってしまったのだ。
「っ、な、何……!?」
突然の出来事に、何が起きたのか分からなかったのだろう。少年を殴ろうとした瞬間、いきなり腕が動かなくなってしまった。あの男からしてみれば、そんな感じだったに違いない。
狼狽した様子で男は振り返り、その視線がルキアと重なった。
「何だ、てめえ!」
「教える義理なんてないわね」
柄の悪い男の叫びに、ルキアは一片も臆する様子を見せない。
手首を掴んだまま、挑むような眼差しで男を捉え――彼女は口を開いた。
「あんた、ドラゴンでしょ? こんなことが許されるとでも思っているの?」
「な、っ……!?」
男が、驚きに目を見開いた。
そして、驚いたのは俺も同じだった。まさか、本当なのか? もしもそうなら、あいつのやっていることは立派な原則違反だ。
「ちっ……放せ!」
男がルキアの手を振り払った。
というより、俺にはルキアが自らの意思で、あえて拘束を解いたように見えた。俺は彼女のアイアンクローを喰らわされたことがあるから、一度掴まれてしまえば逃げようがないのは身をもって知っている。
胸倉を掴まれていた少年も同時に解放され、地面に崩れ落ちて咳き込んでいた。
駆け寄りたかったが、まだそれができる状況じゃなかった。
「ドラゴンは人を傷つけてはならない、それは三原則の基本中の基本よ」
「このクソガキが、無事に帰れると思うなよ!」
ルキアの言葉など、もはや男は聞いてすらいなかった。
逆上した男は、再びルキアへと襲い掛かった。
しかし、振り回されるその拳が命中することはない。軽くその身を動かすだけで、ルキアは男の攻撃を難なくかわし続けた。
「それに、ドラゴンが人間のふりをして力を悪用し、悪事を働くことは重罪……それだけでも第三級の罪が適用されるってこと、もちろん知ってるわよね?」
男が攻撃の手を止めた瞬間を見計らうように、ルキアは言った。
「うるせえ!」
男は唾液を飛散させながら叫び、またルキアに攻撃を仕掛ける。
ルキアは回避しなかった。回避するどころか、彼女はむしろ前方へと歩み出た。
反応する猶予すら与えない速度で突き出されたルキアの拳が、男の眼前で止まる。
「っ……!」
一切の誇張を抜きにして、もし今の一撃が当たっていれば、それだけで勝負は決していたかもしれない。
力の差を感じ取ったのだろう。もう男は何も言わず、動かず……ただ目を見開いた。
「無事に帰れると思うな、だったっけ? さっきのセリフ、そのまま返すわ」
男は拳を下げ、へなへなと後退した。
その隙を見計らい、女の子が少年へと駆け寄り、彼を助け起こした。
少年があの男に何をされたのか、俺達は具体的に見ていたわけじゃない。だけど見たところ、彼に大きな怪我はなさそうだ。まだ立ち上がることはできないようだが、その表情から苦痛が薄らいでいるのが見て取れる。
俺は今一度、男のほうに向き直った。
「おい、何やってるんだ。こんな連中相手に……!」
しびれを切らしたように言いながら、落合が男に駆け寄ってくる。
「悪い卿介、この娘ただもんじゃねえ、俺の正体を見破ってやがる……! 一旦退こうぜ!」
すでに、男はルキアと戦うという選択肢を放棄したようだ。どうやら、力の差を思い知ったらしい。
落合が不服そうな声を出したが、男はそれに構わず後方に飛び退いた。
次の瞬間、男の全身が光に包まれ、その中から大型のワイバーンが姿を現した。飛ぶ能力に長けた、前脚と翼が一体化したタイプのドラゴンだ。
嗅覚を駆使して見破ったのか、それとも他に確証があったのかは分からない。だがルキアが指摘したとおり、あの男はドラゴンだったのだ。
「ちっ、くそが……!」
そう吐き捨てた落合が、ワイバーンに向かって走っていく。
その最中だった。
「邪魔だ、どけっ!」
少年を介抱していた少女を、その右手で思い切り突き飛ばしたのだ。
「きゃっ!」
少女が、地面に倒れ込んだ。
俺が向き直ると、落合はすでにワイバーンの背中に乗っていた。
「このままで済ませると思うなよ松野、その女もろとも、後悔させてやるからな!」
落合を騎乗させたワイバーンが、唸り声を上げて飛び去っていく。
あの野郎、どこまでクズなんだ……!
そう思った時だった、近くにいたルキアの身体が、淡い光に包まれた。
「何してんのよあんた、早く乗りなさいよ、あいつらを追うわよ!」
そう言った時、すでにルキアは真の姿に変じていた。白い身体に一対の金色の角を有する、優美で女性的なフォルムを有するドラゴンだ。
唐突ではあったものの、俺はすぐに彼女の意図を理解する。
しかし、俺にはルキアの行動が適切ではないように感じられた。
「だけど、もし仲間を呼ばれたりしたら……! それに、もしかしたら何かの罠かも……!」
さんざん好き放題やって人を傷つけ、貶した落合に心底ムカついているのは間違いない。
だけど、この場では落合を追わないのが適切であるように感じられた。暴力団関係者であるあいつの戦力は未知数で、もしものことがあったらルキアでも対抗し切れないのではないかと思ったのだ。
俺達がこの場で戦いを挑まなくても、例えば警察に通報するとか……他にもやり方はあるように感じられた。それに、落合に絡まれて怪我をしたふたりの救護が先決であるようにも思えた。
悔しいのが、今はしょうがない……しかし、そんな俺の考えはルキアの言葉に一蹴される。
「まだそんなことを言うの!?」
俺は思わず、ビクリと身を震わせた。
ドラゴンに変身していることもあって、彼女の声はより大きくなっていた。しかし、俺がルキアに気圧されてしまったのは、それだけが原因じゃないだろう。
「あんた、今あいつがやったことを見ていなかったの!? 暴力団だか何だか知らないけど、女の子を突き飛ばすなんて最低もいいところよ!」
それまでとは比べものにならないほど、一段と真に迫っていて、全身すみずみまで響き渡るような言葉で……俺はまばたきも忘れてしまった。
「あんな奴に好き放題言われて悔しくないの!? あいつをぶっ飛ばしてやりたいと思わないの!? あんたは、そんな根性なしだったの!?」
ルキアの言葉に触発され、身内に怒りが湧き上がるのが分かった。落合への恐れも、あいつが暴力団関係者で、下手に歯向かえば何をされるか分からないという認識も、みるみる上書きされ、消滅していく。
落合をぶっ飛ばしたい、天狗になって好き放題やってるあいつの鼻を、へし折ってやりたい。
答えを出した俺は、感情に突き動かされるがまま、ルキアの背中に飛び乗った。
「悪かったルキア、力を貸してくれ、落合の野郎をギャフンと言わせてやる!」
「はっ、いいじゃない……その意気よ!」
落合を騎乗させたワイバーンは、また視認できる位置を飛んでいた。
まだ十分、捕まえられるだろう。
「初心者標識のゼッケンは、もう着けないわよ?」
ルキアの言葉は、『警告』というよりも俺をライダーとして信頼しての『確認』であるように感じられた。
俺は頷き、
「ああ、そんなもんは必要ない!」
気づけば、もう飛ぶことへの恐れも感じていなかった。
ほんの数秒前までの俺だったら、こんなことは言えなかったに違いない。
「それと、今日は特別に角を掴んでもいいわよ」
「っ……!」
思わぬ言葉に息をのんだ。
俺はルキアの首のあたりまで移動し、目の前にある一対の金色の角を見つめ、ゆっくりとそれを掴んだ。
初めて触る、ルキアの角。
ドラゴンが有する独特の温かみが、手の平を伝って全身に巡ってくるように感じられた。
「さあ、飛ぶわよ!」
「ああ!」
風切り音とともに巨大な翼が広げられたと思った瞬間、ルキアは勢いよく地面を蹴った。
俺を乗せ、彼女は空へと舞い上がった。
◇ ◇ ◇
(あれが、ルキアさんの真の姿……!)
ドラゴンに変身し、智を騎乗させて飛び去っていくルキアの姿を、七瀬はしばらく見つめていた。
巨大な翼に対し、細身で優美なフォルム。人間の姿でいる時に違わず、綺麗なドラゴンだと感じたが、今はルキアに見とれている場合ではなかった。
ルキアと智が追っている相手は、落合だ。もちろん七瀬も、落合が暴力団関係者だということは認知している。このまま手をこまねいて見ていることは、できなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出して、七瀬は電話を掛けた。
『どうしました、お嬢様?』
数回の呼び出し音を経て、応答したのはベルナールだった。
「ベルお願い、すぐに来て!」
スマートフォンを耳に押し当てるようにして、七瀬は言った。




