第25話 不穏の予兆
ル・ソレイユを後にした俺達は、三人で会話を弾ませながら帰路についていた。
「龍界にもマスカットはあったんだけどね、やっぱり地上のマスカットのほうが美味しいかな」
「へえ、龍界なんてもう私、いつ行ったかも覚えてないな……」
あの喫茶店で過ごした時間はほんの一時間半くらいだったと思うが、ルキアと七瀬は完全に打ち解けていた。彼女達は今朝、初めて顔を合わせたばかりなのだが、もうそれ以前からの友人だったと言っても違和感がないくらい仲良くなっていた。
七瀬の人当たりの良さと、コミュニケーション能力の賜物だな。
とてつもなく苦戦したものの、彼女の協力の甲斐あって数学の課題も片付けることができた。
というか、最初から答えを丸写しさせてくれれば手っ取り早いのだが、あえてそれをさせてくれないのは七瀬なりの思いやりだろう。
「あ、そうだ……ねえ智!」
「ん、どうした?」
突如、七瀬が何か閃いたように言ってきた。
「今度の海に行く約束さ、ルキアさんも一緒にどう?」
「えっ、海?」
俺に向けられた言葉だったのだが、ルキアが先んじて反応した。
七瀬は、ルキアのほうを向いた。
「そう。夏が本場になったらさ、智と私、それにもうひとりの友達で海に遊びに行こうって話してたの。ルキアさんも、よかったら一緒にどうかな?」
もう少し先の話なのだが、七瀬の言ったとおり、俺と彼女、それにもうひとりの友達で海に行く話があった。そこにルキアを加えようというのが、七瀬の提案だった。
夏といえば海、高校生活最初の夏に一生ものの思い出を作ろう! というコンセプトでの計画だった。痛いフレーズだと思われてしまいそうだが、立案者は俺ではなく、話題に上っている『もうひとりの友達』である。
ともあれ、海遊びなんて子供の頃以来で、何だかんだで楽しみにしているのは間違いなかった。
と、ルキアが思いがけない反応を見せる。
「あー、誘ってくれてありがとう七瀬さん。でも私、その、ちょっと……水は苦手っていうか……」
突然、ルキアがしどろもどろになった。
指先で頬をぽりぽりと掻き、苦笑いを浮かべつつ視線を泳がせる彼女……その様子を見て、俺はふと思った。
「もしかしてお前……カナヅチなのか?」
俺が訊いた瞬間、ルキアは弾かれるように俺を向いた。
「し、仕方ないじゃない! 言ったでしょ、私はファイアドレイクなの! リヴァイアサンとかとは違って、そもそも泳げるドラゴンじゃないんだってば……!」
顔を赤らめて取り乱すルキアを見るのは初めてで、新鮮味を感じた。
「でも、人の姿に変身できるドラゴンなら別に、ドラゴンとしての分類は関係ないんじゃないのかよ?」
たとえ炎を操る力を持つドラゴンであっても、それがカナヅチとイコールで結びつくわけではないんじゃないかと思い、俺は言った。
するとルキアは、「う……」と呻くような声を発し、押し黙ってしまった。
その様子から察するに、純粋に泳げないらしい。
「ちょっと智、誰にだって苦手分野はあるものだよ。智だって、数学が大の苦手でしょ?」
七瀬にたしなめられる。
とはいえ、ルキアの意外な欠点が垣間見えて、どことなく面白みを感じてしまった。
まずまずの容姿とスタイルを備え、家事もできて、さらには自分より大きなドラゴンを真っ向からねじ伏せる戦闘能力を誇るルキア。
一見すると万能に思える彼女にも、弱みは存在するのだ。
「まあ、それもそうだな」
何かしらの欠点があるということは、人間もドラゴンも同じなんだな。
そう思いつつ、俺は七瀬の言葉に頷いた。
と、その時だった。
「お願いします、もう許してください!」
街のどこかかからか聞こえてきた少女の声に、俺は振り返った。
少し離れた歩道で、学生服姿の少女と、倒れ伏している少年が目に入る。
そして彼らの前に立つひとりの男と、その後ろでポケットに両手を突っ込んで立っている、俺達と同じ学生服に身を包んだ少年――その横顔に、大いに見覚えがあった。
「落合……!?」
思わず、俺は目を見開いた。
そこにいたのは、俺の『関わり合いたくない同級生ランキング』で堂々の一位に君臨する、落合卿介だったのだ。
こんなところで何やってんだと思い、思わず歩み寄った。
すると、彼らの会話がより鮮明に聞こえた。
「ぐっ……アイスを付けたことは、謝ってるじゃないか……!」
道路に倒れ伏した少年が、腹部を押さえつつ苦しげな声で懇願する。
「もうやめて、お願いだから……!」
続いて、彼を庇うように立つ少女が涙ながらに言った。どうやらあのふたりは、友人同士のようだ。
そんな彼らを相変わらずの嫌な目で見つめ、落合は口を開いた。
「おいおい、人の服をこんなに汚しておいて、ただ謝れば済むとでも思ってるのか?」
気がつくと、落合の制服の右袖に白いべったりとした物が付着していた。
何だあれ? と思った矢先、俺は歩道の片隅に落ちたアイスクリームのカップとスプーンを見つけた。
察するに……どうやら、あの少年が落合の制服の袖に誤ってアイスクリームを付けてしまい、それにブチ切れた落合が報復をしているようだった。
しかし、手を下しているのは落合ではなく、その前に立つ男のようだ。
落合に続いて、そいつが口を開く。
「どうする卿介、もうこいつ許してやるか? それとも……もっとボコボコに痛めつけとくか?」
大柄で筋肉質で、いかにも柄の悪い男。その雰囲気は、民家に放火したあの悪辣なドラゴン達を想起させた。
「ん? あいつ……!」
何かに気づいたのか、ルキアが声を出した。
あの男が一体何者なのかは、皆目見当もつかない。
だが察するに、どうやらあいつは落合に従う立場にあるようだった。落合は、学校だといつも取り巻きの連中を引き連れている。しかし今、落合に付いているのはあの男ただひとりだ。
「そうだな……情をかけてやれ」
落合はそう言った。
しかし、あいつにそんなつもりがないことは明らかだった。
「情ってのは、非情ってことだな?」
男が、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
「ああ、好きにしろよ」
落合の言葉を受けた男が、ゴキリと拳を鳴らした。
少女がまた「やめて、もうやめてよっ……!」と懇願する。だが落合にも、落合に従うあの男にも、それを聞き入れる気など微塵もなかった。
「ちょっと、このままじゃ……!」
七瀬が言った。
俺ももう、黙って見ていることはできなかった。
落合に関わりたくなかったのは間違いない。しかし、この状況を目の当たりにして、傍観者に徹してなどいられず……俺は駆け出した。




