第24話 ルキアと七瀬
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
そう告げた智が席を立ち、店の玄関の近くにある『TOILET』という標識が貼られたドアに向かっていく。
空になった皿はすでに店員が下げてくれて、テーブルの上には再び、数学の教科書やワークが広げられていた。スイーツを堪能した智達は、勉強を再開していたのだ。
その場に残ったルキアと七瀬、先んじて口を開いたのは七瀬だった。
「はあ、これじゃあ智、また数学のテストで赤点になっちゃいそうだね」
呆れたように言いつつ、七瀬はテーブルの上にシャープペンシルを手放した。
「同感。ホストファミリーがこんな問題も解けないだなんて、私まで恥ずかしくなるわ」
数学の教科書を見つめながら、ルキアは七瀬に応じた。
さっきの因数分解といい、ルキアがざっと目を通した限りでは、智が苦戦しているのは解き方さえ覚えてしまえば答えを導き出せそうな問題ばかりだった。
ドラゴンであるルキアに、人間の知能がどれほどのレベルなのかは分からない。しかし見た様子では、七瀬がこの問題に悩んでいる様子は見受けられなかった。智への教え方を見る限り、七瀬はこの問題の解き方をしっかり理解している。そもそも、学校で使われている教科書に載っている問題なのだから、生徒全員がちゃんと解けるはずなのだ。
七瀬から問題の解き方を教示された時から……いや、教科書を開いてその内容に目を通し始めた時から、智はすでに煮詰まってしまい、頭を抱えながら『うぐぐぐぐぐ……!』と唸ってしまっていた。よほど数学が苦手なのか、あるいはそもそも数学が嫌いすぎて拒否反応を起こしているようにも見えた。
誇張抜きで、頭がオーバーヒートして気絶してしまうのではないかと心配になったほどである。
「他の教科だったら智、こんなにできないわけでもないんだけどなあ……」
水の入ったコップに口を付け、店内のどこかを見つめつつ七瀬が言った。
ルキアは教科書を置いて、彼女と視線を合わせる。
「数学以外は、そこまで成績が悪くないの?」
七瀬は頷いた。
彼女の茶髪と、それをポニーテールに結んでいる赤いリボンが揺れるのが見えた。
「智ね、英語とかドラゴン語はすごく得意なの。いつも満点に近い点数で……クラスどころか、学年でもトップクラスの成績なんだよ」
「へえ……つまり、苦手分野がはっきりしてるってことなのね」
決して、頭が悪いわけではないんだな。ルキアはそう思った。
得意不得意は誰にでもあるものだろうが、智はその差が非常に大きく、極端すぎるのだ。
智の五教科の出来具合を表示したレーダーチャートを、ルキアは頭の中に思い浮かべてみた。語学系が突き抜けて伸びているかわりに、数学は寂しいことになっている……とてつもなくアンバランスな形になった。
「だからきっと、できないだなんてことはないんだよ。私がちゃんと教えてあげれば、きっと……」
そう言うと、七瀬は教科書を手に取った。
「ここはどうやって教えてあげればいいかな……この公式さえ覚えられれば、智にも分かると思うんだけど……」
教科書に視線を巡らせながら、七瀬は呟いた。どうやら、智にどう教えれば理解してもらえるのか、それを考えているらしい。
そんな彼女を見て、ルキアはくすりと微笑んだ。
「ルキアさん、どうかした?」
「いや、ちょっとね……」
ルキアは改めて七瀬と視線を合わせると、
「雪村さんって、世話好きっていうか……優しくて面倒見がいいのね。あいつに数学を理解してもらうために、そんなに必死に考えこんじゃうなんて」
「えっ、ええっ!?」
ルキアには、どうすれば智が数学を理解できるのか、それを考え込む七瀬が、もう智以上に真剣になっているようにすら見えた。
智のために眉間に皺を寄せ、懸命に思案を巡らせる彼女を見ていて、思わず笑みをこぼしてしまった。
七瀬の様子がどこか面白く思えたのは確かだったが、それ以上に彼女の天衣無縫な人柄が垣間見えて、嬉しくなったのだ。
「い、いや、別に優しくなんて……私はただ、智がまた先生に呼び出されたり、怒られたりしたら可哀想だと思ったから……」
視線を巡らせつつ弁明する七瀬、そんな彼女を見て、ルキアはまた微笑んだ。
本当に優しい者は、自分が優しいなどと思わないものだ。
(すごくいい友達がいるんじゃない)
智の顔を思い浮かべながら、ルキアは心中で呟いた。
彼はまだ、トイレから出てくる様子はなさそうだ。
「た、助けてあげたいと思っただけだよ。本当にそれだけだから……!」
弁明を続ける七瀬、彼女を見たルキアは、思った。
(雪村さん、きっとあいつのことが好きなのね)
ドラゴンにも感情がある。
姿こそ人間と違えども、楽しいことがあれば笑えるし、悲しいことがあれば涙を流せるし、嫌なことがあれば怒ることができる。
だからもちろん、ドラゴンは愛も知っている。故に、誰かを好きになる気持ちも理解できる。
ルキアが松野家、つまり智の家にドラゴンステイしてから、まだ一か月も経っていない。しかし七瀬は智の幼馴染だと聞いているから、ルキアとは比べ物にならないくらいの長い時間、智のことを見てきているはずだ。
智がどんなふうに怒って、笑って、泣くのか。彼の良いところに悪いところ、何が好きで、何が嫌いなのか。智のことは、七瀬のほうがよほど深く幅広く理解しているに違いない。
初対面の時、智が自身を『メスドラゴン』呼ばわりしたことを、ルキアは鮮明に記憶している。というより、忘れようとしても忘れられない。
あの時ルキアは、智を礼儀知らずでデリカシーがなくて、平気でドラゴンに対する差別用語を使う嫌な奴なのだと感じた。第一印象は、まさに最悪だったのだ。
しかし、智と一緒に生活する中で、彼の美点も垣間見えていた。
ドラゴンによる放火事件の時、彼は身の危険を顧みずに燃え盛る家屋へと突入し、取り残された女の子を助けようとした。スーパーで岩石ドラゴンと対決した時には、まだ爆弾が残っているかもしれない状況で、逃げ出すことなく救護活動に助力した。無謀だと言われればその通りだったが、道徳的な行動だとも感じていた。
七瀬は、ルキアの知らない智の美点を他にも知っているのかもしれない。それなら、智に惹かれるのも無理はない気がした。
「雪村さん、今日は誘ってくれてありがとうね。マスカットタルト美味しかったよ、ごちそうさま」
七瀬と知り合えて、友達になれてよかった。
心からそう思ったルキアは、改めて七瀬に心からの感謝を贈った。
「あ、『七瀬』でいいよ、ルキアさん」
「え?」
ルキアが一文字で問い返すと、
「私の呼び方は、七瀬でいいよ。苗字よりも名前で呼んでくれたほうが、友達って感じがして好きなの。ダメかな?」
ああ、そういうことか、とルキアは思った。
もちろん、拒否する理由は見当たらない。
「分かったわ、それじゃあ……これからもよろしくね、七瀬さん」
と、その時だった。
「あ、あのさ……」
声のほうに視線を向けると、いつからそこにいたのか、智が気恥ずかしそうな様子で立っていた。
「あ、智。戻ってきてたの?」
七瀬が言うと、智は頷いた。
「邪魔しちゃ悪いかと思って席に戻らずにいたんだけど、ふたりとも何て言うか……この短時間に、随分仲が良くなったもんだな」