第22話 ル・ソレイユ
その日の放課後。
今朝の約束通り、俺と七瀬とルキアは学校から徒歩数分ほどの場所に位置する喫茶店、『ル・ソレイユ』を訪れていた。七瀬いわく、ここが前々から彼女が気に入っていた店だそうだ。
シックな音楽が流れる店内は隅々まで磨き込まれ、リトグラフや観葉植物が飾られていて……洒落た内装も合わさって、まるで外国を訪れている気分になる。ひとりで考えごとをしたい時や、紅茶や甘い物をお供に学校の課題に取り組みたい時などは、七瀬はここに足を運んでいたらしい。
「綺麗なお店でしょう?」
向かいの席に座った七瀬が、言った。
俺達はもう注文を終えていて、あとは品物が来るのを待つだけだった。他にお客さんはいないようだから、さほど時間はかからないだろう。
店の壁には、『洋菓子のご注文があり、お待ちのお客様がいない時に限り、午後五時まで店内での学習や談話、パソコンでの作業OKです』とチョークで書かれた黒板が掛けられていた。あえて貼り紙にしていないのは、店内の景観を損なわないためだろう。
「うん、本当に……」
俺は七瀬に応じた。
そしてふと、七瀬の隣に座っているルキアが、物珍しそうにきょろきょろと店内を見渡しているのが目に入った。
「ちょ、どうした?」
「えっ……?」
はっとしたように、ルキアは振り返った。
「いや、こういうお店に来るのって、私初めてだから……」
なるほどな、と思いつつ俺は頷いた。
味覚こそあるものの、ドラゴンは食事をする必要がない。食事が必要ない以上、飲食店に足を運ぶ機会もないのだろう。
それに詳しい経歴こそ知らないが、ルキアは龍界にいたはずだ。
龍界で暮らしている人もいるから、食べ物を手に入れられる店はあるに違いない。でも、向こうにもこういう喫茶店とかはあるのだろうか? 龍界を実際に訪れた記憶のない俺には、分からない。
「学校でも言ったけど、ここのタルトすっごく美味しいの。ルキアさん、きっと気に入ると思うよ」
溌溂とした感じで言う七瀬、ルキアは頷いた。
「ごめんね雪村さん、奢ってもらっちゃうだなんて、何だか悪いな」
「気にしないでルキアさん、全然大丈夫だよ。そもそも誘ったのは私だから。さて、と……」
七瀬は鞄を探って、数学の教科書とワークを取り出した。
俺は思わず、息をのんだ。最たる苦手科目の数学、その教科書を見るだけでも体が拒否反応を起こすのだ。
「じゃあ智、数学の課題始めよっか」
「え、もうやるのか? 注文した物が来てからでも……」
「何言ってんの、ここにいられるのは五時まで。それまでに終わらなかったら、智は自分で課題の範囲をやらなくちゃならなくなるんだよ」
穏やかでありつつも、どこか有無を言わせない雰囲気を滲ませて、七瀬は言った。
筋は通っていたし、何より俺のためを思っての言葉だったので……正直、反論の余地はなかった。
「期日までに課題をちゃんと仕上げないと、またシルヴィア先生に怒られちゃうよ」
ルキアがいるこの場では、決して言ってほしくないことだった。
「え、あんた怒られたの?」
笑みを浮かべるルキア、俺は顔を赤くする。
「ちょっ、七瀬、余計なこと言うなよ……!」
「あはは……!」
そんなこんなで、七瀬の数学授業が始まった。
しかしながら、教科書に書かれた式の羅列がグルグルと頭の中を巡り、すぐに混乱してしまう。
「うぐぐぐぐぐ……!」
頭を抱える俺をよそに、
「ふむふむ……」
先に出されたお冷を飲みながら、ルキアが小さく頷きつつ言った。
まるで理解したかのような様子に、俺は思わず笑ってしまう。
「ふむふむってお前、そんな簡単に分かるわけが……」
「それじゃ、この問題の答えはa²b(ab-1)ね」
俺の言葉を遮るようにして、教科書の問題の一節を指差しながらルキアは言った。
てっきり、適当なことを言っているだけかと思ったのだが、
「え、正解!」
七瀬が目を丸くしながら言った。
俺は耳を疑った。それもそのはず、俺が未だに理解できない因数分解の問題を、数秒七瀬の講釈を聞いていただけのルキアが解いてしまったのだから。
「ちょ、どうして分かるんだ? お前、数学を習ったことでもあるのか……!?」
この不条理に納得できない俺は、半ばムキになった感じでルキアに問うた。
するとルキアはお冷の入ったコップを置いて、
「あるわけないでしょ、この問題も今日ここで初めて見たわよ。つまり、共通する因数を見つけ出せばいいってことでしょ? こんなの教科書を見れば分かるじゃない。あんた、どうしてこんな簡単な問題に悩んでるの?」
「か、簡単って……!」
しれっとした面持ちで言うルキア。俺はもう、開いた口が塞がらなくなってしまった。
もしや、これがドラゴンの知能というものなのだろうか。
「すごいねルキアさん……ほら智、頑張らなくちゃ。できないままだと、ルキアさんに笑われちゃうよ」
「笑っちゃうわよ? ぷぷっ」
口に手を当てて、わざとらしく笑うルキア。
カチンときた俺は、ずびしっと彼女を指差した。
「くそ、だったらお前、俺の出す問題を解いてみろ!」
「へえ、どんな問題?」
頬杖をついて、ルキアは呑気に言った。
しれっとしていられるのも、今のうちだ。後悔させてやる……!
「一から百までの数字を全部足したらいくつになる? さあ答えてみろ! 今すぐ!」
「えっ、ちょっと智、いくらなんでもそれは……!」
俺が問題を突き出すと、七瀬が口を挟んでくる。
まあ、自分でも理不尽な問題だとは理解していた。どんなに暗算が得意な人だとしても、常人ならまず解けるはずがない。
ちなみに、俺はこの問題の答えをもちろん知っている。以前退屈な授業中に、先生の話そっちのけで紙にひたすら書き込み、計算したのだ。無意味な暇つぶしだったが、こんな形で役に立つとはな。
ふっふっふっ、さあ悩めルキアよ、そして降参するがいい……俺をコケにしたことを詫びさせてやる! と思いつつ、我ながらゲスい表情を浮かべていたら、
「五〇五〇」
頬杖をついたまま、やはりしれっとして、ルキアは言った。
「へ……?」
耳を疑った俺は、呆けた声を出す。
「あんたの問題の答えよ。一から百までの数字を全部足したら五〇五〇でしょ?」
俺の目論見は、いとも容易く崩れ去っていった。
正解だった。悩みも降参もすることはなく、ルキアはものの数秒で、俺のとっておきの問題(と言っていいのかも分からないが)の答えを出してしまったのだ。
ドラゴンの知能、まさかここまでとは……!
「せ、正解……」
ギャフンと言わせようとして、ギャフンと言わされてしまった。
完全に侮っていた。
「ルキアさんの勝ちだね」
完全敗北を喫した俺は、ただ情けない表情を浮かべつつ、テーブルに突っ伏すことしかできなかった。