第20話 シルヴィア
「よーし、朝の会はこれにて終了。それでは諸君、今日もしっかり勉学に励むように」
出席簿を閉じつつ、シルヴィア先生は朝のホームルームを締めくくった。
ほんの数秒前まで先生の言葉を静聴していた生徒達が話し始め、教室内が一気に賑やかになる。
二十分後には、一時間目の授業が始まる。ちなみに科目は英語で、シルヴィア先生が担当教員だ。
用意があるのだろう。一時間目が自身の担当科目である日は、先生は一度教室から出てまた戻ってくる。クラスメイト達は、各々授業の準備を始めた。
「ねえ智、英語のワークの課題、全部できた?」
右隣の席に座っている七瀬が、俺のほうに身を乗り出しつつ訊いてきた。
ちなみに俺の席は窓際の一番後ろ、つまり隅っこに位置している。なので、後ろと左隣には誰もいない。
「ああ、やったよ」
英語の教科書にノート、それに英和辞典を机の上に準備しつつ、俺は答える。
いつもはワークも出すのだが、今朝シルヴィア先生に提出したので、今は持っていない。
「さすがだね、私ちょっとできない部分があって……範囲全部は埋められなかったんだ」
感心したように目を見開き、七瀬が言う。
分からない部分は空欄でも構わない、提出することに意味があるのだとシルヴィア先生は言っていた。よほどスカスカじゃなければ、大幅に減点されはしないだろう。
知ってるだろ、英語は得意だからな。そう得意気に七瀬へ言ってやろうとした時だ。
「おーい松野、ちょっと」
ざわめく教室の中でも、その声は明瞭に俺の耳に届いた。
シルヴィア先生が俺を名指して、手招きしていたのだ。
「え、はい?」
怪訝に思いつつも、俺は席から立ち上がり、先生のところに向かった。
一体、何の用だろうか? 俺が尋ねるよりも先に、用件は先んじて知らされた。
「一時間目の授業が始まる前に、このワーク全部職員室のアタシの机の上に運んでおいてくれ」
教卓の上に積み上げられた、四十冊にも及ぶワークを指差して、シルヴィア先生が言った。
前触れの欠片もない藪から棒な命令に、俺は仰天する。
「は? 何で俺が……!?」
不満な気持ちを表明するように、俺は答える。
するとシルヴィア先生は、腕を組んでいかにも不機嫌そうに俺を睨んだ。
「オマエ、こないだの数学のテストまーた赤点だったそうじゃないか。岩野先生から聞いたぞ」
「はうっ……!?」
図星を突かれた俺は、無意味な声を出すことしかできなかった。
ま、まさか、俺のショボい点数の情報が先生の間で共有されているとは……!
「ったく……松野はやれば優秀なのに、好き嫌いが激しいし、それに得意不得意の差がありすぎるんだよ」
ため息をついた後、先生は腕を組んだまま、どこか残念そうに言った。
返す言葉が、見つからない……。
「とりあえず、もう一度チャンスをくれるように岩野先生には口利きしといてやった。だがこのままだと、瑞希に報告しなくちゃならないかもな」
「ええっ!? ちょっ、それだけは!」
俺は、慌ててシルヴィア先生を制した。
瑞希……ってのはつまり、俺の母さんだ。シルヴィア先生と母さんは昔馴染みの友人で、現在もちょくちょく連絡し合う仲らしい。
なお、シルヴィア先生はドラゴンだ。うちのクラスの担任であり、担当科目は英語と女子の体育だ。それから、生徒指導にも当たってるらしい。
校内では基本的に人の姿をしていて(聞くところによると、校内でドラゴンに変身するのは禁止らしい)、スタイルが良くて美人だと、生徒達の間ではもっぱら評判である。
基本は面倒見が良くて、気さくで、『姉御肌』という言葉がよく似合う人なんだが……『怒らせないほうがいい先生』としても有名だった。
一か月くらい前、授業を抜け出してトイレで油を売っていた生徒が、シルヴィア先生に見つかって怒鳴りつけられているのを見たことがある。その時のシルヴィア先生の怒声ときたらもう、廊下中に響き渡るほどで……そこらの男性教員を軽く超える迫力だったな。
「そうならないためにも、しっかり勉強するんだな。それじゃ、アタシはちょっと用事で教頭先生のとこに行かなきゃならないから……ワークをよろしく頼んだぞ。遅刻するなよ」
ぴらぴらと手を振りながら去っていくシルヴィア先生、俺はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
母さんと交友関係があるので、俺がまだガキだった頃、先生が家に来た時は一緒に遊んでもらったり……昔から俺は、何かとシルヴィア先生と交流があった。
一緒に遊んでくれる優しいお姉さん……って思っていた時期もあった。しかしまさか、シルヴィア先生が教鞭を執っている高校に入学することになるなんて、しかも先生が担任を務めているクラスに入るとは、俺は予想もしていなかったのだ。もはや、巡り合わせという言葉では済まないな。
昔馴染みの間柄とはいえ、シルヴィア先生は決して俺を特別扱いせず、他の生徒と同じように接してくれた。そんな先生の姿勢は、決して嫌いじゃなかった。
ま、岩野先生に口利きしてもらった恩がある。
これくらいの雑用、引き受けていいか……と思いつつ、教卓に積まれたワークの山を抱えようとした時だ。
「ぷっ……ふふ」
背後からの笑い声に振り返ると、いつからそこにいたのか……七瀬が口と腹を押さえていた。
「ちょっ、七瀬お前、今の話聞いてたのか!?」
「ふふ、智、また数学赤点だったんだね。英語とかドラゴン語は得意なのに、ほんと苦手だよね」
俺が何かを言い返す前に、七瀬は教卓に歩み寄ると、ワークの山を半分ほど抱え上げた。
「ほら、早く持っていこうよ」
「は……?」
七瀬の意図が理解できなくて、俺は呆けた声を発した。
「こんな量のワーク、智ひとりで持ってくのは大変でしょ? 私も手伝うよ」
予期せぬ援軍だった。
七瀬の言う通りだと感じた俺は、残ったワークを両手で抱え上げた。
教室を出て廊下を歩く最中、俺は隣を歩く七瀬を見やる。
「その……ありがとな」
「これくらい大丈夫だよ。それよりもさ、私びっくりしちゃったんだよね」
「何が?」
俺が目を丸くしながら訊くと、七瀬はこっちを振り向いた。
ポニーテールに結ばれた長い茶髪が、さらりと空を泳ぐ。
「ルキアさんのこと。だってほら、智が希望してたドラゴンと全然様子が違ったから」
「あ……」
なるほどな、と俺は思った。
ルキアがうちにドラゴンステイしているドラゴンだと言った時、七瀬が驚いた様子をしていたが、つまりそういうことだったのか。
歩を進めつつ、七瀬は俺から視線を外して、上のほうを向きながら片手の人差し指を立てた。
「性別は男で、大柄でがっしりとしたフォルム。情に厚い性格を備えていて、体色は青系統……っていうのが、智が希望してたドラゴンだったよね?」
「おいおい、よく覚えてるなそんなこと」
一字一句違わず、俺の希望していたドラゴンの条件だった。
ドラゴンステイさせるなら、どんなドラゴンがいいか。という質問を以前七瀬から受けたのだが、その時返した答えとまったく同じだ。
とりとめのない会話のつもりだったのだが、まさか覚えているとは。
「ルキアさんは、どの条件にも当てはまらなさそうだけど……でも、よかったんじゃない? 私はまだちゃんと話したこともないけど、彼女すっごく可愛いくて綺麗だし……私も友達になれるかな?」
七瀬の言葉に、俺はルキアのことを思い返した。
初対面の時にメス呼ばわりしてしまったことが原因で、多少俺には当たりが強めだけど……今朝、送り迎えしてくれたことといい、何だかんだで彼女は優しいんだと思ってる。
それにルキアは母さんにはとても献身的で、素直だし……きっと仲良くなれるんじゃないだろうか。
七瀬への答えは、ひとつだった。
「ああ、きっと友達になれるさ」