第18話 天空の貴人
まさか、こんなことになるとは。
全身に風を受けながら、俺はこうなるに至った経緯を思い返した。
自転車のパンクに気づき、遅刻覚悟で学校まで全力疾走する選択肢を決しようとした時、ルキアが突如真の姿に変身した。
俺が知る限り、彼女がドラゴンの姿になるのは戦う時くらいだった。一体どうしたのか? そう問おうとする俺に先んじて、彼女はこう言ったのだ。
――乗りなさいよ、私が学校まで送ってあげる。
予期せぬ申し出に驚いたし、迷いもした。というのも俺は、騎乗免許こそ持ってるけれど教習所以外で一度もドラゴンに乗ったことのない、いわゆる『ペーパーライダー』なのだ。
ドラゴンの背中に乗って、空を駆ること。
それは一応、俺の小さい頃からの夢だったのだが……少なからず、ドラゴンに騎乗することへの恐怖感もあった。だってそうだろ、落ちたりしたらきっと助からないだろうし。
しかし今は、ルキアに感謝しなくてはならなかった。
彼女が乗せてくれなかったら、ほぼ間違いなく遅刻していた。仮に間に合ったとしても、朝っぱらから体力を使い果たす羽目になっていただろう。今の彼女は、俺にとって紛れもなく救世主だった。
ルキアが巨大な翼を羽ばたかせるたびに、規則正しい間隔で、ブオン、ブオン……という重く力強い風切り音が鳴り渡る。
彼女の背中に寝そべるように乗っていると、人の体温とはどこか違う……ドラゴン特有の温かみが感じられた。
「どう? 乗り心地は」
不意に、ルキアが問うてくる。
背中に棘があったり、乗るのに適していないドラゴンに騎乗する時には、原則として専用の道具を準備しなくてはならない(馬でいうところの、馬具だ)。
しかし、ルキアの背中には棘がない。だから追加装備は一切必要なく、そのまま騎乗することが可能だった。
「ああ、悪くない……」
目の前にはルキアの金色の角が見える。
これを掴めば安定感を得られそうだが、それは絶対にやらない。
ドラゴンにとって角を掴まれるというのは、人間に置き換えれば髪を鷲掴みにされるようなもの。やむなく掴む場合は、事前に許可を取るのがマナーだ。
俺は教習所の試験で二度落とされたが、一回目の不合格理由は、教官のドラゴンの角を掴んでしまったことだ。あの時俺は試験が始まる前に失格を喰らった挙句、他の受験生が見てる前でこっぴどく怒鳴りつけられたものだった。あれはもう、思い出すたびに恥ずかしくなる……我ながら、俺は何を血迷ったのだろうか。
同じ過ちは、もう二度と繰り返すまい……そう誓っていたのだ。
まあ、仮に『角を掴んでもいいか?』と申し出ても、拒否されるのは目に見えている。
ドラゴンであっても、ルキアは女の子。角の手入れにも、きっと気を遣っているはずだろうから。
「何よ、あんたのために高度も速度も抑えて飛んでるのに、『悪くない』程度なの?」
「え、そうだったのか?」
ルキアが飛んでいるのは、少なくとも電柱や周囲の建物にぶつからない程度の高度だった。速度も、体感では車でややスピードを出さずに走っている程度だ。
「当たり前よ。あんたペーパーなんでしょ? もしものことがあったら、私だって責任を問われることになるんだから。ほら、だからゼッケンも着けてるし」
棘のある言い方で応じつつ、ルキアは自分の腹部を指した。
彼女は、ドラゴンに変身した時の体格に合わせたゼッケンを身に着けていた。蛍光色でよく目立ち、デカデカと『初心者ライダー騎乗中』と書かれたそのゼッケンは、経験の浅いライダーを騎乗させていることを知らせる役割をもつ標識である。つまりは、車でいうところの初心者マークだ。
周りにも、人を乗せて飛んでいるドラゴンの姿が見受けられた。
乗っているのは俺と同じく学生だったり、スーツ姿の社会人だったり、買い物に向かおうとしているのか、主婦と思われる若い女性までいた。ただ、初心者ライダー標識のゼッケンを着けているドラゴンは、一見した限りでは見当たらなかった。
「けど、低い高度を飛ぶのって乱気流の影響を受けやすいんだろ? お前、大丈夫なのかよ?」
「はっ、誰に向かって言ってんだか」
俺が懸念を表明すると、ルキアは鼻で笑った。
「私のこの翼、あんたにはただの飾りに見えるわけ?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
思ってはいたんだが、ルキアの翼はとにかく大きい。
彼女自身が細身で、女性的なくびれを想起させるフォルムをしていることを考えても、それは明白だった。
「分類上では私はファイアドレイクだけど、制空能力ならワイバーンにも勝ると自負しているわよ。飛ぶことは得意なの」
ルキアの言葉に、俺は彼女が繰り広げた一戦を思い出した。
火事の現場から女の子を助け出したあとに、ルキアが犯人を特定して……そのまま三対一での戦闘にもつれこんだ、あの戦いだ。
主犯格らしきドレイクに加えて、飛ぶことに長けたワイバーンが二体もいた。しかしルキアは難なく、それも空中で相手を蹴散らした。
あの一件を振り返れば、強さだけでなく、彼女の制空能力にも目を見張るものがあるのはよく分かる。
「龍界にいた頃は、『天空の貴人』なんて呼ばれていたくらいだからね。空を飛んでの競争では負け知らずだったわ」
「天空の貴人?」
俺は、ルキアの言葉の中からそのフレーズを取り出した。
「似合わね……!」
笑い交じりに、思わず呟いた。
もちろん、ルキアに聞こえないように小声で言ったのだが。
「ちょっとあんた聞こえたわよ、落とされたいの!?」
「ええっ!? 冗談、冗談だっての!」
ドラゴンの聴力を侮っていた。
ルキアは、嗅覚で放火犯を特定するほど鼻がいい。もしかしたら、人間の俺達以上に感覚器官全般が鋭いのかもしれなかった。
「まったく……あんたのために配慮して飛んでるってのに、それがお礼だっていうの?」
「わ、悪い……」
ルキアの前では、小声だろうと思ったことをすぐ口に出すのは厳禁だな。
「ま、これからも私の背中に乗るなら、あんたもさっさと初心者ライダーを卒業してほしいもんだわ。『あの子』を乗せる時は、こんな物必要なかったんだから」
ゼッケンを忌々しそうに引っ張りながら、ルキアが言った。
「あの子って?」
俺が問い返すと、
「龍界にいた頃の友達だった女の子よ。あんたくらいの年になる頃には、もう凄腕のライダーだったんだから。一緒にドラゴンレースやアーティスティックフライングの大会に出て、優勝したこともあったのよ」
どこの誰なのかは分からないが、率直にすごいなと思った。
ドラゴンの背中に乗って飛ぶこと、今の俺はそれにすら尻込みしてしまっている。それに引き換え、そんな見事にドラゴンを乗りこなす女の子がいるだなんて。
一体、誰なんだろう?
遠目に見えてきた目的地、つまり学校を見つめながら、俺は思った。