第17話 早く起きた朝
「それじゃ初めに、普段あんたがどんなふうに目玉焼きを作ってるのか教えてもらおうかしら」
朝七時過ぎ、台所でルキアが俺に言う。
彼女はエプロン姿で、片手にはフライ返しを持っていた。
外見的にはスタイルの良い美少女なのだが、その正体はドラゴン……それも、規格外と言って差し支えないほどの強さを誇る、まさしく最強のドラゴン少女だ。
口からは炎も吹けるし、自分より何倍も大きなドラゴンをぶん回して投げ飛ばすこともできる。聞く分には信じがたいだろうが、正真正銘の真実だ。
いつもは朝食の支度を終えてから俺を起こしに来てくれるんだが、今日は違った。
これまでよりも三十分以上早く叩き起こされて、引っ張るように台所に連れて来られて……突如として、『目玉焼きの作り方を教える』と言われたのだ。
「ふあ……別に今やらなくたって……!」
欠伸交じりに俺は言う。
確かに、目玉焼きの作り方を教えてほしいと言ったのは俺だ。でも今日は学校もあるし、正直まだ寝ていたかったのだ。
ルキアに起こされた時は散々ゴネたが、結局押し切られる形で布団から引っ張り出されてしまった。というか、彼女に逆らえば何をされるか分からないから、起きるしかなかったのだ。
「自分で用意しないと、朝ごはん抜きになるわよ。お母様、今日はまだ起きてこないから」
ルキアの言葉で、俺は母さんがまだ起きていないことに気づいた。
母さんはいつも俺よりよほど早く起きて、家事に精を出しているはず……だけど、今日は姿すら見えない。
「どういうことだよ?」
「昨日の歓迎会の後片付けで、お母様は遅くまで起きてたのよ。だからゆっくり休んでもらおうと思って……私が代わりに朝の家事を引き受けたのよ」
思い返せば、母さんはルキアの分の食事まで用意していた。
単純に洗い物も増えるだろうし、歓迎会の献立はハンバーグ……処理に手間取る油汚れもあっただろう。三人分もの食器を片付けるだけでも、結構な手間になるはずだ。
居間を見渡してみると、ルキアはもう掃除も済ませたらしい。隅から隅まで磨き上げられていて、どこにも埃ひとつ落ちていなかった。
「お母様、本来食事する必要のない私の分のごちそうまで用意してくださったのよ、そのお気持ちに報いようとするのは当然でしょう?」
「まあ、確かに……」
ルキアは、俺にはどことなく当たりが強い(十中八九、最初会った時に俺が彼女を『メスドラゴン』呼ばわりしてしまったことが原因だろう。あれは俺が完全に悪かったので、深く反省している)。しかし反面、母さんに対してはとても律儀だった。もはや、多重人格の域に達しているのではと感じるほどだ。
思い出せば、母さんはルキアの好物であるマスカットのために金を出した。決して安い商品じゃないのに……ルキアが母さんに恩を感じるのは至極当然のことだと思った。
「それじゃ始めるわよ。さ、やってみて」
「ああ……」
正直、俺は料理なんてきちんとやったことがない。普段は母さんが作ってくれたご飯を食べてるだけだから、まあ当然だった。
不慣れだということも原因だったのだろうが、それ以上に隣でルキアが見ていることにプレッシャーを感じてしまい、手元が狂った。
手を丹念に洗って、フライパンを温め、卵を割り入れたところで早速ハプニングが起きた。
力加減を間違えてしまい、殻が混ざり込んでしまったのだ。
「あ、やべ!」
慌てふためいてしまう。
「ああもう何やってんの、初歩的なミスじゃない……! ちょっと貸して」
隣にいたルキアが、やんわりと俺を押し退けてフライパンの前に立った。
彼女は細い指先で、器用に卵の殻をちまちまと取り除いていく。
「まったく、不器用なんだからあんたは……加熱するなら大丈夫だろうし、可能性としてはかなり低いけど、卵の殻にはサルモネラ菌が付いてることもあるの。食中毒の原因になるから、気をつけなきゃダメよ」
「悪い……」
俺が言えたのは、それだけだった。
前から感じていたが、ルキアはドラゴンなのにやけに料理の知識が豊富だった。
彼女は人の姿になれるドラゴンだし……もしかしたら、うちにドラゴンステイする以前にもどこかに寄宿していたのだろうか?
「あと、フライパンに直接卵を割り落すんじゃなくて、あらかじめ別の器に割っておいてそこからフライパンに移したほうがいいわよ。そうしたら殻も混ざりにくいし、黄身が潰れる可能性も低くなるし」
その後も、ルキアは俺に目玉焼きについての講釈を続けた。
調理する前に、卵を常温まで戻したほうがいい。そうすれば卵に火が通りやすくなって加熱する時間を短縮でき、底面が焦げるのを防げるとか。
他にも卵の保存方法についても。
卵を保存する時は尖ったほうを下に向けたほうがいいとか、卵が丸出しの状態で保存するのは衛生観念的に好ましくないので、冷蔵庫に入れる時はパックに入れたまま保存しておいたほうがいいとか……とにかく、知って得しそうなことを色々と教えてくれた。
卵に関するこれほどの知識、どこで得たのだろうか。
ルキアに教われば教わるほど、俺はそれが気になってしまった。
そんなこんなで、俺は調理を進めていったのだが、これまでと同じように白身は焦げだらけ、黄身は完熟でカチカチの目玉焼きになってしまった。
「はあ……教えることは多そうね」
呆れる気持ちをそのまま噴出するように言うルキア。
「ちょ、ため息つくなよ!」
俺が赤面しながら言った直後、居間のドアが開いて、母さんが入ってきた。
「おはよう智、ルキアちゃん」
母さんが俺より遅く起きてくるなんて、初の出来事だったと思う。
「お母様、まだお休みになられていて大丈夫でしたのに……」
ルキアが言うと、母さんは首を横に振った。
「もう十分休ませてもらったわ、ありがとうルキアちゃん。ルキアちゃんも、もうすぐ時間でしょう?」
「あっ、ええ、まあ……」
母さんとルキアのやり取りを、俺は怪訝に思った。
もうすぐ時間……? 一体何のことだろう? 気にはなったが、ふと時計が視界に入って、尋ねている暇はないことに気づいた。
目玉焼きを作るのと、それとルキアの講釈を聞くのに夢中で時間を気にしていなかった。時刻はすでに、普段なら朝食を食べ始めている頃に差し掛かっていたのだ。
「いっけね、もうこんな時間……!」
失敗作の目玉焼きを皿に移し、食パンに適当にジャムを塗り、コップに牛乳を注ぐ。
急ぎ過ぎず、しかし悠長にもならないで、俺は朝食を済ませた。学校がある日はギリギリまで寝ていたいから、朝食、歯磨き、トイレ、着替え、それぞれに割く時間配分は決まっているのだ。
高校の制服に着替え、通学用鞄を肩に掛けて、俺は玄関を出る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい、自転車気をつけてね」
母さんの言葉を背に受けつつ、玄関の脇に停められた自転車のバスケットに通学用鞄を放り込む。
鍵を差し込んでリング錠を開錠し、続いてダイヤルを合わせてワイヤー錠も外した。盗難防止のために二か所の施錠をしているのだが、時間がない時はこれが逆に煩わしくも感じてしまう。
サドルに跨った瞬間、違和感を感じた。
「え、ちょっ……?」
いつも自転車に乗る時とは明らかに違う、前輪が沈み込むような感覚……。
俺は自転車を降りて、前輪を見てみた。
まさか、そうであってくれるな……と思いつつ視線を巡らせていき、俺は絶望した。
「おいおい、ウソだろ……!」
前輪がパンクして、地面と接している部分がグニャリとひしゃげていたのだ。
「智、どうかしたの?」
俺の声を聞きつけたのだろう、母さんが駆け寄ってきた。その後ろにはルキアもいる。
「自転車、パンクしてるんだよ……!」
調べてみると、前輪に釘が刺さっていた。
最後に乗った時に踏み付けたのだろう。その時に気づかなかったのが、運の尽きだった。
「ああもう、遅刻だ……」
自転車なら余裕だが、徒歩ではまず間に合わない。予期せぬアクシデントに見舞われてしまい、運が悪いとしか言いようがなかった。
仕方ない、こうなったら遅刻覚悟で全力疾走するしかないか……と思った時だった。
「まったくもう、しょうがないわね」
母さんの後ろにいたルキアが、そう言って俺のほうに歩み寄ってくる。
「へ?」
彼女の言葉の意味が分からず、俺はただ間の抜けた声を出すだけだった。




