第134話 満月の予兆
「うん、今日はありがとね智」
電話越しに、七瀬は智に感謝を伝えた。
廃工場で窮地に陥った時、ルキアやサンドラ、それにシェアトが駆けつけてくれたおかげで、七瀬と翔子は難を逃れた。彼女達が救助に駆けつけてくれるように計らったのは智だ、間接的に七瀬は智に救ってもらったわけであり、そのお礼を伝えたかった。
七瀬はあのあと、警察から簡単な聞き取りを受けて帰宅した。翔子と違って負傷しているわけでもないので、すぐに帰ってくることができたのだ。
『それより、七瀬は怪我とかしてないのか? 急に電話してきたし、危ない目に遭ってるっていうからビックリしたぞ』
智は何よりも、七瀬の身を案じてくれているようだった。
彼の気持ちが嬉しくて、七瀬は思わず笑みを浮かべた。
「私は大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。ルキアさんにもお礼を伝えておいてもらえる?」
七瀬に怪我はなかったが、翔子はそうではなかった。
ドラゴン達から暴行を受けていた翔子は病院へ連れていかれ、手当てを受けた。七瀬は彼女の身を案じていたが、少し前に翔子から『私は大丈夫だから、心配しないで』というメッセージがスマートフォンに送られてきた。
助けに行くのがもう少し遅れていたら、どうなっていたのだろうか。
それを考えると恐ろしくなるので、七瀬は考えないことにした。結果として、翔子を助けることができたのだからそれでいい。
『ああ、言っとくよ。それじゃ、そろそろ時間も時間だし……またな』
智の言うとおり、時刻はすでに夜になっていた。
長々と電話を続けても迷惑だし、要件だったお礼も伝えることができたので満足だった。
「うん、それじゃあね」
そう言い残して、通話を終了した。
スマートフォンを耳から離した七瀬は、『松野智 通話終了』と表示された画面を見つめて微笑んだ。
(智、優しいね)
すでに入浴を終えた七瀬は、ネグリジェ姿で部屋のベッドに座っていた。学校の準備も終えているのであとは眠るだけだったのだが、不意に足音が近づいてきて部屋のドアがノックされた。
「お嬢様、少しよろしいですか?」
「ベル、入っていいよ」
ちょうど智との電話を終えたところだったし、七瀬はまだ誰かと話していたい気分だった。
七瀬に促されるまま、ベルナールが入室した。
「夜分遅く、失礼します」
小さく頭を下げる彼は、いつもどおり紳士的で物腰穏やかな様子だった。
ベルナールがどのようにして犯罪ドラゴンを倒したのか、七瀬は見ていない。しかしきっと、ドラゴンゾンビとしての能力を活用して相手を制圧したのだろうと思った。普段は優しい彼だが、高い戦闘能力を秘めていることは七瀬も知っている。きっと、真の姿に変身もしたのかもしれなかった。
どうしたの?
七瀬は声には出さず、その眼差しでベルナールに問いかけた。
「その、お身体の具合はいかがですか? あれから少しでも変わったこととかは……」
怪我などはしていないと伝えているが、ベルナールは七瀬の身を案じていた。
ドラゴンバトルの場に居合わせた以上は、何かしらの影響を受けていないかと懸念しているのだ。ベルナール自身を含め、あの場には毒を扱うドラゴンもいた。本人も気づかないうちに有害物質を吸引していて、一見すると異常がないように思えても、時間が経った頃に症状が現れてくる可能性も考えられるのだ。
それを考えれば、ベルナールが七瀬のことを気にかけるのも決して過保護ではないだろう。
「別に変わってないよ、大丈夫」
下ろされた長い茶髪を揺らしながら、七瀬は首を横に振った。
「それならよかった……それにしてもお嬢様、今後はあんな無茶は謹んでくださいね」
腰に手を当てて、眉の両端を吊り上げるベルナール。
元から目つきが悪い彼なので、一層に人相が悪くなった。七瀬は見慣れているので平気だが、今の彼の表情で街を歩こうものならば、たちまち職質を受けそうなくらいだ。
廃工場に駆けつけた時、ベルナールは一応は七瀬の行動を称賛した。他人のために自らを省みない七瀬の行動は尊敬に値すると思っていたし、『それでこそ、僕のお嬢様です』という言葉に迷いはない。
とはいえ、見方を変えれば無謀と言えてしまうのも事実だ。
ベルナールは決して、今回の七瀬の行動を否定するつもりはない。否定はしないが、無茶をしないよう釘を刺す必要があるのも事実だ。
「あ、あはは……ほんとごめん。さっきも言ったけどさ、翔子先輩のことを考えたら、どうしてもじっとしてられなくて……」
「はあ……」
ベルナールは嘆息した。
七瀬はそんな彼を指さして、
「あっ、ベル、今『やれやれだ』って思ったでしょ?」
どこか嬉々とした面持ちで、ベルナールの口癖を指摘した。
「お嬢様、笑いごとではありませんよ」
穏やかではあれど、ほんの少し怒気の滲んだ言葉。
七瀬の身にもしものことがあれば、ベルナールも責任を問われることになる。それ以上に、ベルナールにとっては七瀬が傷つくようなことは耐えられないのだ。幼い頃から見守ってきた七瀬は、彼にとって大切な家族なのだから。
花が枯れたかのように、七瀬はたちまち俯いた。
「はい、ごめんなさい。反省します……」
ベルナールはまたため息をつき、一旦目を閉じる。主人にかしずくだけが仕事ではない。正しい方向に導くのも、執事の仕事だ。
もう一度七瀬を見つめた時、彼の表情は穏やかな色に戻っていた。
「以後、気をつけてくださいね」
その後、ベルナールは七瀬の部屋から退出した。
これで一件落着……そう信じたいところだったが、ザンティの言葉がどうしても頭に浮かんでしまう。
七瀬と翔子を助け、犯人であるドラゴン達も逮捕された。しかし彼の姉は何かが引っ掛かっているようで、翔子の見張りを続けるよう弟に進言した。
廊下に歩を進めていたベルナールは、ふと窓の向こうに広がる景色に視線を向けた。夜闇のとばりに覆われた街の風景を、淡く輝く満月が照らし出していた。
幻想的でありつつ、同時に不気味とも取れる景色。それがまるで、これから起こる不穏な出来事を暗示しているかのようにも思えて――ベルナールは眉間に皺を寄せた。
「姉さんの思い過ごしであれば、いいのですが……」
だが、そうではない可能性が高いような気がしていた。昔からザンティは鋭くて思慮深く、彼女のこの手の勘はよく当たるのをベルナールは知っていたのだ。
外は風が吹いているようで、満月を切り裂くように木の葉が飛んでいくのが見えた。
ザンティの進言に従って、引き続きキュラスに翔子の様子を見張ってもらっていた。今後、また彼女の身に何かが起ころうものなら、すぐにでもベルナールに知らせに来るだろう。
どうか、キュラスが妙な知らせを持ってこないよう祈る。夜明けまで、この静けさが続くことを祈る。
現時点では、それがベルナールにできるすべてだった。
◇ ◇ ◇
「傷に障るだろうし、今日はここまでにする……だが忘れるな、この罰は必ず与えるぞ! お前はうちの恥さらしだ!」
怒声とともに、バンと大きな音を立てて扉が閉められる。
その音が響き渡って、負傷した腹部がズキズキと痛みを放ち、そして翔子の心はズタズタの血まみれにされる。自室の床に倒れ込んだまま、翔子は息を荒げていた。
犯罪者であるドラゴン達と付き合い続けた挙句、警察沙汰となる騒動に巻き込まれた。そのことはすぐに、翔子の父にも伝わった。父は娘を心配するどころか(翔子が負傷していることを考慮して、さすがに以前のような折檻はしなかったが)、数十分に渡って怒鳴りつけた挙句に自室へと放り込んだ。
翔子にも非はあるかもしれないが、父からは娘への心配の気持ちを微塵も感じられなかった。
彼にあるのは、娘よりもよほど大事にしているであろうプライドだけだったのだ。
「畜生、畜生……!」
七瀬に励まされた時は、やり直そうと思いつつあった。
しかし、その気持ちも黒い感情に上塗りされていく。
「畜生っ!」
それは怒りか、あるいは悔しさか。
突き上がってくる感情に動かされるまま、翔子は壁に右拳を思い切り打ちつけた。壁は固い建材で作られているため傷つかず、ただ手の皮膚が切れて血が滲んだだけだった。
物に当たっても仕方がない。
しかし、今の翔子はそんなことを考えられるような精神状態ではなかった。
拳を引いて、もう一度壁を殴ろうとする。
しかし突然腕が動かせなくなり、それはできなかった。
「っ!?」
息をのんだ翔子は、自分の右腕を見つめてみた。
――見覚えのある触手が、グルグルと蛇のように絡みついていた。
「お姉ちゃん……」
呟きながら現れたのは、エヴリンだった。
いつの間にこの部屋にいたのか? それを問うことはできなかった。
電気の点いていない部屋に、エヴリンの黄色い左目がぼんやりと光を放ちつつ浮かび上がっていた。その光景が不気味で、翔子は声を喉の奥で押し殺してしまったのだ。
「エヴリン……どうしたの?」
唾を飲んでから、翔子は平静を取り繕って問いかけ直した。
一歩ずつ一歩ずつ、エヴリンはゆっくりと、しかし確実に歩み寄ってきた。
「お姉ちゃん、今からエヴリンと一緒に、夜のお散歩行かない?」




