第132話 エニジア
七瀬と翔子の保護、そしてもう一体のドラゴンの相手を仲間に任せたルキア。工場から飛び出した彼女はすぐに、手厚い歓迎を受けることとなった。
数発の火球が、背後から彼女に向けて放たれた。
追ってきた彼女を迎撃するために、死角にあたる位置から吐き出されたのだ。ルキアはすぐに気配を察し、翼を盾にする形でそれを防いだ。着弾時に爆発と煙が巻き起こる、工場内にいる友人達にも、きっと今の音は聞こえたに違いない。しかし、まったくの無傷だった。ルキアの白い翼には傷どころか、わずかな汚れも付いてはいない。
工場の壁を突き破って突入した時から、ルキアはドラゴンの姿に変身したままだった。
いや、正確にはもっと以前から……ル・ソレイユで智がいきなり駆け込んできて、彼の口から七瀬が危険な目に遭っていると聞かされた直後だ。ドラゴンサイズのマスカットタルトをたった二十秒で平らげて(大急ぎで食べるのははしたなく思えたが、食べずに残して退店するよりは絶対にマシだと判断した)、意図せず最速早食い記録を樹立し、サンドラとシェアトと一緒に(事情を知った彼女達は、協力を申し出てくれたのだ)店を飛び出した時から変身していた。
サンドラとシェアトは、ドラゴンの姿に変身したルキアの背中に乗ってこの場に赴いていた。人間がドラゴンに騎乗するには免許が必要だが、ドラゴンがドラゴンに騎乗することは制限されてはいない。
ルキアの背に乗った彼女達は、ともにその制空能力に驚いていた。『ルッキィ、ワイバーンでもないのに何でこんな速いの!?』とサンドラに訊かれたが、答えははぐらかした。
ファイアドレイクでありながら、ワイバーンに並ぶ……あるいは凌駕するほどの制空能力を持ち合わせている理由は、ルキア自身にも分からない。
制空能力も、彼女の戦闘能力も、ルキアに言わせれば『生まれつきの能力』だった。だから、そもそも答えようがないのだ。
「そんな小細工には、引っ掛からないわよ」
とはいえ、生まれ持ったその能力には感謝している。
他のドラゴンと比べて、突出した戦闘能力や制空能力。それらを駆使し、ルキアは悪辣なドラゴンを叩きのめすことができるのだから。
「俺の火球を受けて、無傷だと……!?」
目の前にいるこのドラゴンとは、面識もない。
しかし、智の話によれば七瀬は犯罪ドラゴンに命を狙われているとのことだった。状況から察するに、彼が件のドラゴンと見て間違いない。
人間を傷つけようとした、それだけで敵視する条件としては十分だった。たとえルキアがドラゴンガードではなかったとしても、戦いを挑んでいただろう。
しかも、彼が危害を加えようとしたのは七瀬だ。友人を傷つけようとしたとなれば、もはや見逃す気も、許す道理もない。
この場においてルキアがすべきことは、ただひとつだ。
「火球ってのは、こうやって吐くのよ!」
わずかな溜めを挟んで、ルキアは相手に火球を吐き返した。
敵が放ったそれ以上に素早く、狙いも正確で、さらに大きな威力を伴った火球だった。
「うおっ!」
相手のドラゴンは、目に見えて怯んでいた。
火球というのは、吐き出す直前に口腔内で炎を球状に圧縮する必要がある。その予備動作は避けられず、相手に悟られやすいという欠点があった。
しかしルキアは、その圧縮を一瞬で完了させることを得意としていた。そのため予備動作は非常に小さくて短く、これから火球を放つということを相手に悟られづらかった。
だからあのドラゴンも反応できず、回避は間に合わなかった。翼を交差させて、盾にする余裕すらなかった。
「ありえねえ、早すぎる……!」
受けたダメージが軽くないことは、余裕を欠いた彼の表情が物語っていた。
しかし、ルキアの攻撃は終わらない。彼女の口からは続けざまに火球が連発され、それらは引き寄せられるように相手へと向かった。
威力と速度、正確さのすべてを備えた攻撃だった。
「うがっ、がっ、がはっ!」
火球が命中するたびに、ドラゴンは身をのけぞらせて無意味な声を発した。
彼はたちまち空から叩き落され、工場の敷地内へと落下していった。力の差は察しているはずだったが、立ち上がって滞空しているルキアを睨みつけてくる。
降参の意思などないことは、明らかだった。
「分かってるでしょ? これ以上続けたところで、勝ち目はないわよ」
「くそ、なめやがって……ぶちのめしてやる!」
男が取り出したそれを見て、ルキアは青い目を見開いた。
シャープペンシルの芯入れのようなケースだった。一見、この状況で取り出しても役に立つようなものではない。しかし、ルキアにはある予感がした。
「まさか、それって……!」
男は、ケースを見せつけるように目の前に掲げ、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「覚悟しやがれ、取引用のブツを使うのはもったいねえし、はっきり言ってこんな量でもボロ儲けになるから無駄にはしたくねえが……お前をぶちのめすために、使ってやるぞ!」
ルキアが止める間もなく、男はケースを口の中に放り込んだ。ガリゴリと噛み砕く音が、ルキアの耳にも届いてくる。
喉を鳴らして飲み込んだかと思うと、男は目を見開いて咆哮を上げた。くぐもっていて禍々しく、邪悪な雰囲気を感じさせる咆哮であると、ルキアには思えた。
「やっぱり、エニジア……どうなっても知らないわよ」
破滅の欠片と称される、ドラゴンの力を増強させる作用を持つ禁止薬物だ。
たぶん、このままではルキアに敵わないと悟り、切り札のつもりで使用したのだろう。しかしルキアは余裕を崩さない。彼女はただ、あんなものに頼る男を憐れむような表情を浮かべるだけだ。
対して、男はまるで勝ちを確信したように叫んだ。
「ギャハハハ! これで俺は無敵だ、生意気な小娘が……命乞いしようが許さねえぞ!」
「別に命乞いはしないわよ」
息を吸い込んだと思うと、男は今度は火球ではなく、炎のブレスを吐き出した。
かなりの出力を伴ったブレスで、浴びせかけることでルキアを焼き尽くそうとでも考えたのだろう。エニジアの効力が現れているらしく、並みのドラゴンが発揮できる出力ではなく思えた。
ドラゴンの力を増強させる禁止薬物、エニジア。
その実物を見るのも、それを使用した相手と戦うのも、ルキアは初めてだった。
とはいえ、やることは変わらない。相手が攻撃を仕掛けてきたのであれば、彼女は応戦するのみだ。
滞空したまま、ルキアは迎え撃つ形でブレスを吐き返した。
男のブレスとルキアのブレス、双方が真正面から衝突し、鍔迫り合いの形となる。
ブレスを吐き続けたまま、男は笑みを浮かべていた。エニジアを使用した以上、自分は無敵だとでも勘違いしていたのだろう。
しかし、ルキアのブレスに徐々に押し込まれていき、男の表情から笑みは消え失せていく。彼の表情は次第に、焦りに上塗りされていった。エニジアによって増強されていても、彼の力では相手にならないほど、ルキアのブレスの出力は大きかったのだ。
決着がついたのは、それからすぐのことだった。
男のブレスはルキアのブレスに蹴散らされ、彼はそれをまともに受ける羽目になった。
「があああああっ!」
それでも、ルキアは手加減していた。
本気の出力でブレスを放っていようものなら、男はきっと跡形もなく消し飛ばされていただろう。彼女が出したのはせいぜい、半分くらいの出力だった。
ブレスを浴びたことと、エニジアを使用した反動が来たのかもしれない。男はグラリと身を揺らして、背中から地面へと倒れ込んだ。もう戦闘を続けられる状態ではないのは、一目瞭然だ。
人間の姿に戻ったルキアが、彼のそばへと降り立つ。
「ば、馬鹿な……エニジアを使っても勝てない、なんて……ありえねえ……!」
エニジアのことを、本気で自分を無敵化させる夢のアイテムとでも勘違いしていたらしい。
つくづく、愚かだと思った。この禁止薬物を投入したせいで、彼は勝つどころか、より自分への負担を増やす結果となった。
もちろんのこと、同情する気はない。因果応報というものだ。
「ズルして手に入れたものに、価値なんてないわよ」




