第130話 逆転と窮地
ベルナールは、ついに地面に片膝をついた。
マーヴィンと目を合わせてはならないことは承知だった。しかし、彼の攻撃手段である毒液や噛みつきを避けるためには、否応なく顔を見なければならなかったのだ。
そのたびに身体は重みを増していく――それは、ベルナールに敗北が迫っている証でもあった。
「あなたの能力は、その視線を通じて相手に毒素を送り込み、行動不能にさせる……言うなれば、『石化能力』。そんなところですね?」
「はっ、それが分かったからって、何になるってんだ?」
ベルナールが分析の結果を述べる、マーヴィンは否定しなかった。それは、ベルナールの考えが正しいという証明だろう。
非常に厄介な能力だった。
詳細な原理こそ分からないが、簡単に言えば見ただけで相手を倒せるということになる。その恐ろしさは、単純に毒を操るだけのドラゴンゾンビに勝るかもしれない。
「強酸の毒液に、その眼……たいした殺傷能力ですね」
どちらか一方でも十分に恐ろしいが、ふたつの能力を併せ持っていることで、より凶悪性を助長させられていると思った。毒液を回避し続けるのも容易ではないし、動きを止める凶眼を併用されようものならば、そもそも逃げ切れる者がいるかどうかすら怪しいだろう。
毒液か凶眼か、もしどちらか片方でも封じられれば、戦況に変化を起こせるのかもしれない。しかしベルナールは、そのような手段を持ち合わせてはいなかった。
「余裕こいていられるのももう終わりだ、その様子だと、もう動くこともできねえんだろ?」
ベルナールは、手近に落ちていた金属板を拾い上げてマーヴィンに投げつけた。
しかし、そんな攻撃は意味をなさない。尻尾の一振りで金属板は打ち砕かれ、無数の破片となって工場の床に飛散する。
「ハハハハ、なんだ今のは? 追い詰められて悪あがきでも起こしたのか? 無様なこったな!」
無策に他ならない、やぶれかぶれの不意打ち――マーヴィンはそう思ったようだった。
ベルナールはもう、顔も上げなかった。片膝をついたまま、俯くように視線を下げ続けていた。
「なら、もう終わりにしてやる。お前を始末したら、次はあのメスガキふたりだ!」
ベルナールは顔を上げないまま、その身をかすかに震わせた。
メスガキふたり、それが誰のことを指しているのかは考えるまでもない。翔子と、そして七瀬のことだ。
マーヴィンが口を開き、鋭利に尖ったその牙を覗かせた。鋭利で太い牙には、噛みついた相手に毒を注入する機構が備わっている、毒液を浴びせる以上に、致命的な一撃を繰り出すことだろう。
「くたばれ!」
大蛇のごとき胴体をくねらせ、マーヴィンは一気にベルナールへと迫った。
牙が届く範囲にまで距離が詰まるのに要した時間は、たった数秒。バジリスクは、平坦な場所であれば非常に機敏に動くことができる。支柱が幾本か立っていることを除けば、工場内にはマーヴィンの動きを阻害するような物体は存在しない。彼の機動力を、最大限に活かせる地形であるといえるだろう。
ベルナールは動かなかった。
凶眼によって、ついに立ち上がることすらできなくなった――マーヴィンは、そう確信していた。いくら耐性があるとはいえ、送り込まれる毒を完全に無効化できるわけではない。
あとは、自分の牙を突き立てるのみ。
そうすれば強酸の毒液を直接注入し、致命傷をもたらすことになる。マーヴィンはそう確信していた。
確信していたのだが、
「うがっ!?」
奇妙な声を発すると同時に、マーヴィンは突如として動きを止めた。毒液が滴り落ちている牙はベルナールの身を貫くどころか、彼の身に触れることすらなかった。
「あが、が……まさか、てめえ……!」
ほんの前まで十中八九勝利を確信していたであろうマーヴィンだったが、様子が急変していた。
彼は口を閉じることすらせず、目を見開いたままガクガクと全身を震わせていた。ベルナールに注入するはずだった毒液が、ボタボタと無意味に滴り落ちる。
その理由は、ベルナールが手にしている大きな金属片だ。さっき彼が投げた際、マーヴィンの迎撃によって粉々に砕かれたものだ。
光沢があるそれには、鏡のように前方の物体を映し出していた。
――凶眼を発動させたままの、マーヴィンの顔だ。
ベルナールは、前方に金属片をかざしたまま口元に笑みを浮かべた。
「もしかしてあなた……バジリスクの凶眼には、致命的な欠点があることをご存知ありませんでしたか?」
マーヴィンは答えなかった。
いや、答えられなかったのだろう。鏡面越しに自分の凶眼を見てしまった彼は、自分自身の毒を受けることとなった。
分かりやすく言えば、『自滅』したのだ。
自分の眼を見てしまえば、自分の毒を受ける羽目になる。それが、バジリスクの凶眼における致命的な欠点だった。
「形勢逆転、というものでしょうか?」
金属片を前方にかざしたまま、ベルナールは立ち上がった。
毒の影響を受けてはいたが、身動きができなくなるほどの影響ではなかった。膝をついていたのも、マーヴィンの油断を誘ってこの状況を作り出すための布石だったのだ。
「『もう終わりにしてやる』、でしたっけ? あの言葉、そのままお返ししますよ」
◇ ◇ ◇
「あっ!」
七瀬に案内される形で彼女の背を追っていた翔子が、転倒した。床に散乱していた瓦礫に足を取られたのだ。
振り返った七瀬は、すぐに翔子へと駆け寄った。
「翔子先輩、大丈夫ですか?」
「っ、足が……!」
翔子は左の足首を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。
思えば彼女は男達に暴行を受けていたし、もうずいぶん長く工場内を逃げ回っている。体力を消耗したことが原因で、転倒してしまったのかもしれない。
それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
七瀬と翔子は地下の連絡通路を抜けている最中だったが、彼女達は一度同じ方法で男達を振り切っている。同じ手が通用するとは思えず、ここにいては発見される危険が高いと思われたのだ。
「先輩、ごめんなさい……でも、少し頑張って!」
翔子に肩を貸して、七瀬は彼女を立ち上がらせた。
どうやら足首を捻ってしまったらしく、翔子は痛みに表情をしかめていた。しかし諦めてはいないようで、七瀬の言葉にしっかりと頷いた。
移動速度は大幅に落ちたものの、ふたりはどうにか連絡通路を抜けることができた。
抜けた先はまた別の工場で、七瀬は事務所として使われていた部屋へと翔子を連れて行った。壁際には大きな窓があり、七瀬はそこから外を確認する。ひとまず、男達が追ってきている気配はない。
部屋の隅に位置する場所で、七瀬は翔子を座らせた。
「先輩、ちょっと見せてください……!」
足首を押さえている翔子の手をやんわりとどかして、七瀬は見てみる。
そして、息をのんだ。
「こんなに腫れてる……!」
翔子の左足首は真っ赤に腫れており、これ以上逃げ続けるのは困難であるように思えた。
すぐにでも処置が必要であると思ったが、ここには冷やすものも何もない。
「うぐっ、うっ!」
翔子が、痛みに身を強張らせた。
工場の窓ガラスには割れている箇所があるし、壁にもヒビが入っている。男達が翔子の声を聞きつける危険があった。しかし、声を出すなと言えるはずもなかった。
七瀬にできたのは、ただ翔子の肩を抱くことくらいだったのだ。
「翔子先輩……!」
そしてまた、最悪の事態が訪れた。
工場の窓ガラスが砕ける音とともに、そこから室内へと何者かが乗り込んでくる。男のうちのひとりが、彼女達の前に現れたのだ。
「こんなところにいやがったか!」
翔子の声を聞きつけたのかどうか、それは分からない。
立てないなどと言っている場合ではなく、七瀬は翔子を立たせようとする。しかし、七瀬が何かをするよりも先に、もうひとりの男が現れて立ちはだかった。
その男は何も言わなかったが、怯える七瀬や翔子の顔を見て、不気味に顔を歪ませつつ笑みを浮かべた。
「鬼ごっこは、もう終わりにしようぜ」
「っ……!」
逃げたい気持ちは山々だった。
しかし七瀬は翔子を庇うようにその場にしゃがみ込んだまま、挑むような眼差しを向けた。
じわじわと追い詰めるように、男達がゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。
「裏切り女に、みすみす火に飛び込んだ蛾のような小娘……お前らどっちも、自業自得ってもんだろ。恨むんだったら、自分の愚かさを恨むんだな」
翔子と七瀬を交互に見つめながら、男は吐き捨てた。
彼は、その場に落ちていた巨大な瓦礫を片手で拾い上げた。もしも投げつけられようものなら、人体など簡単に潰せるような瓦礫だ。
「七瀬……!」
恐怖に震える声で、翔子が呼んでくる。
しかし七瀬はやはり、挑むような、毅然とした眼差しで男達を見据えていた。
表情には出さなかったが、彼女の胸には諦めと絶望が込み上がっていた。
それでも、後悔はしていない。もし、危険な目に遭っているであろう翔子を見捨てていれば、これまでと同じように女子高生としての平穏な日常が続いていただろう。
こうなると分かっていれば、助けになど来なかっただろうか。答えは、『NO』だった。
仮に翔子を見捨てなどしようものなら、それこそ七瀬は一生後悔していたに違いない。
「怖がることねえさ、一瞬で終わっちまうんだ。痛みなんかありゃしねえよ!」
直後、男が瓦礫を持ち上げている腕を後方へと振りかぶった。
次の瞬間、轟音とともに凄まじい振動が、工場内を走り抜けた。




