第129話 バジリスクの凶眼
戦況は、ベルナールが劣勢だった。
ドラゴンバトル開始時から変わらず、マーヴィンは絶え間なく彼に向けて強酸性の毒液を放ち続けた。金属をも腐食させるそれは、威力だけでなく狙いも的確で、さらには遠距離にいるベルナールにも届く射程距離まで備えていた。
ドラゴンゾンビであるベルナールは、毒に対して耐性がある。あの毒液が即座に致命傷になることはないだろうが、それでも下手に喰らっていいものではない。強酸が放つ有毒ガスもまた危険で、もしこの場に七瀬や翔子が留まっていたら、彼女達の命は危うかっただろう。
たとえドラゴンであったとしても、ベルナールのように毒に対して耐性があるドラゴンでなければ、すでに行動不能に陥っていたかもしれない。
(あの口を塞がなければ、簡単には近づけませんね)
当初の考えに反し、ドラゴンの姿に変身することも考えたが、それはやはり適切ではないと判断した。
変身すれば的が大きくなり、毒液を喰らうリスクが上がる。さらに工場内には支柱が何本も立っており、室内ということもあって空を飛ぶにあたっての障害が多かった。
ひとまずはこのまま応戦し、機会を待つこと。
それが最善策だとベルナールは判断していた。
しかし、機会など訪れるのかは疑問でもあった。反撃も防毒マスクの使用も封じ、耐性を貫通させるほどの毒を継続して与える。どう考えようとも、マーヴィンがそんな猶予をベルナールに与えてくれるはずがない。そんなことが、本当に可能なのか――。
「いつまでも逃げられるつもりか!」
再び毒液が放たれる。
ベルナールはこれまでと同じように、紙一重でかわそうとした。しかし、できなかった。
突如、身体に違和感を覚えた。まるで全身が岩のように重くなり、思うように逃げることができなかったのだ。
(何だ……!?)
困惑したが、理由を探っている猶予はなかった。
このままでは、毒液をまともに浴びることになる――回避ができないのであれば、残る手段は『防御』だった。
ベルナールはとっさの判断で背に翼を出現させ、それを目の前で交差させる形で盾にした。翼を盾にする防御手段は、翼を有するドラゴンであれば珍しくはない防御方法だった。
鈍銀色の外殻と、紺色の翼膜を有するベルナールの翼に、マーヴィンが放った毒液が降りかかる。
無傷ではいられなかった。金属のように腐食することはなかったが、焼け焦げるような音とともに黒い跡が刻み込まれた。やはりこの毒液は、何度も喰らっていいものではないようだ。
ベルナールでなければ、すでにこの一度だけで戦闘不能になっていても不思議はなかっただろう。
「まさか、僕が毒で傷つけられるとは」
表情をしかめるベルナールに対して、マーヴィンはいかにも横柄に笑みを浮かべた。
「逃げなかったってことは、いよいよ身体の自由が利かなくなってきたか?」
ベルナールが身体を重く感じているのは、マーヴィンの能力によるものだ。他ならぬマーヴィンの言葉が、それを裏付ける何よりの証拠だった。
毒液以外にも、特殊能力を持っている?
そう感じたベルナールはマーヴィンを注意深く観察し、そしてすぐに、ほのかに赤い光を放つその両目に着目した。
「なるほど……『バジリスクの凶眼』ですか」
バジリスクと目を合わせているだけで、対象の身体の自由を奪う能力だった。
身体の自由が利かなくなりつつあるものの、ベルナールはまだ動くことができる。しかしこのままでは、まさしく銅像のように全身を硬直させられ、指一本動かせず、まばたきすらできなくなるだろう。
「これまでの奴は数秒も俺と目を合わせればゲームオーバーだったが、ここまで時間がかかったのはお前だけだな……」
目を合わせるのは危険だが、かといって目をつぶって戦うわけにもいかなかった。
「さあ、そろそろ終わらせるぞ!」
動けなくなれば、丸呑みにされかねない。
戦況は依然として劣勢だったが、ベルナールはそれでも退く姿勢は見せなかった。
◇ ◇ ◇
男達に見つかってしまった七瀬は、翔子とともに彼らの追跡から逃げていた。
相手がドラゴンである以上、身体能力で勝てるはずはない。しかし七瀬には、この工場やその敷地内の地形を知っているというアドバンテージがある。その知識を駆使することで、どうにか追いつかれずに済んでいた。
階段を駆け上がる最中、七瀬は振り返って超音波ボールを投げつけた。
「それしかできないのか、小娘!」
完全に耳を塞ぐことで、男達は超音波を防いでしまう。
効果はもはや、ほんの数秒ほど足を止めさせられる程度で、無意味といって間違いはなかった。こんなことをしても、燃え盛る炎に水を一滴垂らすようなものだ。
「もう、ない……!」
さっきはそう嘘をついて油断を誘い、彼らに超音波を喰らわせることができた。
しかし今度は嘘でもハッタリでもなく、七瀬はすでに持ち込んだ超音波ボールを使い切ってしまっていた。
抵抗する手段がなくなった今は、もう逃げるしかない。
あてもなく逃げ回っているわけではなかった。
身を隠せる場所に覚えがあった七瀬は、屋外の階段を駆け上がって扉を開けた。工場の閉鎖が決定していたせいで、その扉は壊れたまま修理がされておらず、外から鍵が掛けられない状態だった。
しかし、中から施錠することはできる。
七瀬は翔子とともに建物内部へと飛び込み、即座に鍵を掛けた。
「くそっ、開かねえ!」
すぐに男達が追いついて扉を叩いたが、軋むだけで壊れない。
防犯上の観点からだろう、ドラゴンでも簡単に壊せない頑丈さを備えた扉だった。たしか、設計はエックスブレインだったと記憶している。
以前ここを訪れた時に聞いた情報だったが、こんな形で役に立つとは思いもしなかった。
「向こうに回れ、別の入り口を探すんだ。絶対あるはずだ!」
「ああ!」
扉越しに男達の会話が聞こえたと思うと、彼らは走り去っていった。
ひとまず、また追跡を逃れることができた。
しかし、いつまでもここにいるわけにもいかない。さっきも隠れ場所を発見された以上、安全な場所などどこにも存在しないと考えるべきだった。
「これから、どうするの……!?」
翔子が問うてくる。
七瀬と違って、彼女はこの場所の地形に関する知識がない。どう逃げるかは、七瀬に委ねるしかないのだ。
「この工場の地下にも、別の建物に繋がっている連絡通路があります。そこから逃げましょう……!」
男達がこの建物に踏み入ってくるには、まだ少しの猶予があると判断した。
再び駆け出した七瀬は、ポケットからスマートフォンを取り出した。逃げる以外にも、重要なことがあった。
それは、助けを呼ぶことだった。
二度も追跡を振り切っている七瀬だが、気持ちに余裕があるわけではない。スマートフォンを操作する指先が、焦りで狂わないようにするのが大変だった。
連絡先リストを呼び出し、彼女は『智』と書かれたアイコンをタップする。スマートフォンを耳に当てる最中にも、彼女は走り続けていた。
数度の呼び出し音を経て、
『七瀬、どうした?』
何も知らない智の声は、いかにものんびりとしたものだった。
彼の応答を確認した七瀬は、声を張り上げた。
「智、お願いがあるの!」
◇ ◇ ◇
「わあああああ……!」
ドラゴンサイズのマスカットタルトを目の前に、ルキアは目を輝かせていた。
クリームの上にぎっしりと並べられた、カットされたマスカット。それは彼女からすればまさしく宝の山だったのだ。
評判どおり、まるでピザのようなタルトで、大人でもそのサイズに尻込みしても不思議はない。しかしルキアは尻込みするどころか、喜んでいるのが一目瞭然だった。
「遠慮なく食べてねルッキィ。約束どおり、今日はあたしたちの奢りだから」
「歓迎会ですから、どうぞ……」
サイズに『ドラゴン』を冠し、数千円ほどするマスカットタルトだが、ルキアに費用負担は発生しない。サンドラとシェアトが言ったように、この場はルキアの歓迎会として設けられていた。
約束どおり、会場はル・ソレイユだった。
ドラゴンサイズのマスカットタルトは、ルキアが進んで注文したわけではなく、他のふたりが注文するように推した。値段も張るので遠慮しようとしたのだが、その必要はないとサンドラもシェアトも促したのだ。
「まあ、これからもよろしくね。あたしもシェイシェイも、他の皆も……それに、シル姉もルッキィには期待してる。すごく強くて頼もしい子がドラゴンガードになってくれたって、話題になってるからさ」
サンドラは、ポニーテールに結ばれたマゼンタの髪をさらりと上げた。
その隣に座っているシェアトは何も言わなかったが、同意を示すように頷いた。
「あ、あはは……別にそんな、期待なんてされるほどじゃ……」
照れ隠しをするように、ルキアは指先で頬をぽりぽりと掻いた。
「ま、それはいいとして……食べようよ」
サンドラが促した。
彼女とシェアトの前にも、注文したケーキがすでに運ばれてきていた。
「うん。サンドラもシェアトさんも、今日は本当にありがとうね!」
ふたりの仲間に改めて感謝を送り、ルキアは右手にナイフを、左手にフォークを取った。
「いただきま……」
満面の笑みを浮かべつつ『いただきます』と発声しようとするが、ルキアの言葉はそこで止められる。
突如、『バン!』と店内に響き渡るほどの音とともに、店の入り口のドアが開いたのだ。
「ルキア!」
客や店員の視線を浴びていたのは、智だった。
肩を大きく上下させ、呼吸を荒げている彼の様子を見れば、急いでここに駆けつけたことが見て取れる。
騒々しくドアを開けて、いきなり現れたホストファミリーに、ルキアはナイフとフォークを持ったまま目を丸くした。
「ど、どうしたのよ……!?」




