第128話 七瀬の想い
「誘拐……!?」
翔子は、驚きに目を見開いた。
七瀬はまだ、この話を誰かにしたことはなかった。その過去の出来事を打ち明けるのは、これが初めてだったのだ。
小さく頷くと、七瀬は物憂げな眼差しを翔子へと向けた。
「まだ私が幼稚園児で……ベルがうちにドラゴンステイし始めてからすぐのことだったんです」
思い返せば、もう十年ほども前の話だった。
「恥ずかしい話なんですけど、あの頃の私……ドラゴンゾンビのベルのことが怖くて嫌で、家にいたくなかったんです。だからある日、ひとりでこっそり家を抜け出して……行き先もなくブラブラしたんですよ」
高校生にまで成長した今、七瀬自身が思い返してみても恥ずかしい話だった。
今でこそ良い関係を築いているものの、ベルナールが寄宿し始めた当時、幼かった七瀬にとってベルナールは恐怖の対象に他ならなかった。紳士的で物腰穏やかな彼だが、真の姿――つまりドラゴンゾンビに変身した際の外見は、大人でさえ震えるほどに恐ろしいものだ。幼児にとっては、なおさらだろう。
真の姿をひとたび見てしまい、当時の七瀬には恐怖が刻み込まれてしまった。そのトラウマの根深さは相当なもので、以後人間の姿でいるベルナールを見るだけで大泣きしてしまうほどだったのだ。
やだあ! ドラゴンゾンビやだあ!
ほぼ毎日のように、そう泣き叫んでは父の脚にしがみついていたのが記憶に新しい。思い出すだけでも恥ずかしさが込み上がり、赤面しそうになる。
「そうしたら、道端でいきなり怖い男の人達に囲まれて、口を塞がれて……荷物を積み込むかのように車に乗せられて、そのまま知らない場所まで連れていかれたんです」
その男達は人相が悪くて、不気味にニヤニヤと笑みを浮かべていて、悪意のある人物達であることはすぐに分かった。即座に踵を返して逃げようと試みたのだが、幼稚園児が大人達から追いかけられて逃げられるはずもなく、七瀬はなす術もなく捕まってしまったのだ。
それからは、彼女の言ったとおりだった。
乱暴に車に乗せられ、そして声を出せないよう猿轡を噛まされ、後ろ手に両手首を縛られた。
あとで分かったことなのだが、男達は七瀬を誘拐して、彼女の身柄をネタに身代金を要求しようとしていたらしい。社長令嬢であり、幼かった七瀬は、格好の標的だったのだ。
しかし当時の七瀬には、何もかもが唐突すぎて理解が追いつかなかった。逃げ出せず、助けも求められない彼女に許されたのは、ただ涙を流しながら恐怖に身を震わせることだけだったのだ。
勝手にひとりで外出したことを後悔したが、もうどうにもならなかった。
「すごく怖くて、声も出せないから、もうずっと心の中で『助けて』って言い続けたんです。そしたら、ベルが助けに来てくれたんですよ」
思いがけず、助けは七瀬が思っていたよりもずっと早く来た。
男達が電話をしようとしていたまさにその時、突如彼らのアジトの扉が破られ、ひとりの少年が姿を現した。そして彼はものの数分で男達を制圧し、七瀬に駆け寄って猿轡と縄を解いた。
助けに来てくれたのは他の誰でもない、七瀬がそれまで拒絶してきたベルナールだった。
――大丈夫ですかお嬢様。もう大丈夫です、助けに来ましたよ。
そう語りかけてくる彼の穏やかな笑顔が、今でも七瀬の記憶には鮮明に残されていた。
恐怖に支配されていた七瀬の心が、みるみる安堵と嬉しさ、そして、ベルナールを拒絶し続けていたことへの罪悪感に上塗りされていった。幼かった七瀬は、彼の胸の中へと飛び込み、泣きわめきながら謝罪した。
ベルナールはどうやら、キュラスの力を借りて七瀬の居場所を特定し、いち早く助けに来てくれたようだった。彼が駆けつけなければ、七瀬の身は危うかっただろう。
「私、バカだったなって思ったんです。あんなに優しい彼のこと、ドラゴンゾンビだっていう理由だけで嫌って、突き放したりして……」
見た目で判断してはいけない。
それは人もドラゴンも同じだと、あの時の七瀬は学んだ。
「あんな怖い思いを誰かがしてるって思うと、もうじっとしてられなくなっちゃったんです。はは、変わってますよね」
皮肉めいた笑顔を、七瀬は浮かべた。
今回のこともそうだが、以前智やルキアが落合とその取り巻きのドラゴン達と一戦交えた時も、七瀬は迷わず彼らの救援へと向かった。自転車で現場へと急行しただけでなく、彼らが閉じ込められていると知ると、即座にホームセンターまで向かってスパナを二本購入し、南京錠を破壊して脱出口を確保した。
その行動力も決断力も、幼き頃、子供心にベルナールを拒絶し続けた罪悪感、そして贖罪の念が源なのかもしれなかった。
「ううん、七瀬はすごいよ。人のためにそこまでできるなんて……」
表情に曇りを浮かべつつ、翔子は俯くように視線を落とした。
――翔子先輩のほうがすごいですよ。七瀬は思わず言いそうになったが、その言葉を喉の奥で留めた。今は、それを言うべきではないと思ったのだ。
「もう、逃げな」
「えっ?」
七瀬は目を見開いた。
「あいつらが捕まえたいのは私、きっと七瀬のことをそこまでしつこく追いかけてはこないと思う。助けに来てくれて嬉しかった。もう十分だから……七瀬はもう、ひとりで逃げなよ」
ベルナールが翔子の飛び降り自殺を阻止したあとで、七瀬は彼女に怒鳴られたのを記憶していた。しかし今の彼女は元通り、七瀬の知る穏やかで心優しい、皆が尊敬する見崎翔子であるように思えた。
ドラゴンではない自分には、翔子を守る力などない。あのドラゴン達が再度現れても、きっと何もできはしない――すでに承知していることだったのだが、七瀬は彼女の申し出を受けはしなかった。
「聞いてください、私は翔子先輩を見捨てて逃げたりはしません。翔子先輩の帰りを待っている人がいるでしょう? だから、ふたりで無事に帰りましょう」
翔子が、息をのんで表情を曇らせた。
気になることを言ったつもりはなかった。翔子の家族や、あのエヴリンというドラゴンの少女だってきっと、彼女の帰りを待っていると思っての言葉だった。
「そんなの……いないわよ」
翔子の語気が、少しばかり高まったのが分かる。
「もういいって言ってるでしょう? 殺されるなら私だけで十分なのよ、だいたい七瀬がそこまでする理由なんて……!」
七瀬は、翔子の両肩を掴んだ。
「翔子先輩がよくても、私がよくありません!」
まばたきもせず、まっすぐに翔子と視線を重ね合わせて――七瀬は言った。
凶変した彼女にすごまれた時は何も言い返せなかったが、今は違う。
「先輩はこのまま、自分の命を諦めるつもりですか? そんなこと、私は絶対に許しません!」
真に迫る七瀬の言葉を受け、翔子の目に涙が浮かんでいた。
かつて自分を助けてくれたベルナールのように、七瀬もまた、翔子のことを助けたかったのだ。
身を挺してでも、彼女を救いたい。たとえ拒否されようとも、七瀬の気持ちは少しも揺るがなかった。
「助けて、助けて七瀬……!」
七瀬は頷いた。翔子の本当の気持ちを、たしかに聞き届けた。
しかし、その直後だった。
「いたぞ、あそこだ! ふたりともこっちにいるぞ!」
声が聞こえた方向を、七瀬は振り返った。
ガラス窓越しに、こちらを指差す男の姿が見えた。
彼らが知らないであろう連絡通路を使って、一度は振り切ったと思っていた。しかし予想よりも早く、この場所を見つけ出されてしまったのだ。
「っ……逃げましょう、翔子先輩!」
座っている時間も、話している時間も終わりだった。
立ち上がった七瀬は、翔子の手を引きながら再び駆け出した。




