第124話 死刑宣告
ザンティとの話を終えたベルナールは、屋敷に戻るために空を飛んでいた。変身はせず、人間の姿のままで背に翼を出現させていた。
時刻は夕刻に差し掛かりつつあるようだ。眼下に広がる街に視線を巡らせてみれば、帰路についている学生の姿があちらこちらに見受けられる。
お嬢様は、そろそろ部活に行った頃かな。
上空を吹き抜ける風をその身に受けながら、ベルナールは思った。
七瀬から、今日の授業はいつもより早く、正午まもなくには終わると聞いていた。授業が終わったら一旦帰り、空き時間を家で過ごしてから部活に向かうとのことだった。
しかし今、彼が『お嬢様』と呼び慕う少女は、その予定とはまったく違う場所に向かっていた。
そしてベルナールも、まもなくそれを知る。きっかけは、キュラスが彼に向かって飛んできたことだった。
(キュラス……?)
遠目には鳥かと思ったが、その飛び方や一直線に向かってくる様子を見て、すぐに自分の相棒である龍界コウモリであると気づいた。
間近に迫ったキュラスに対して、『どうしました?』とは尋ねなかった。キュラスには引き続き翔子を監視させ、有事の際にはすぐに知らせるよう命じている。こうして現れた時点で、何かがあったのは明白で、もはや尋ねる必要などなかったのだ。
キュラスの報告を受けたベルナールは、良くない目つきをさらに険しく変じさせた。
「恐れていた事態ですね……!」
ドラゴンゾンビの翼を羽ばたかせ、ベルナールは屋敷とはまったく違う方向へと飛び進んだ。
彼は、行き先の変更を余儀なくされたのだ。
◇ ◇ ◇
「やめて、離してっ!」
翔子がどれだけ叫んだところで、男達がそれを聞き入れるはずなどなかった。
強引に廃工場へと連れていかれた彼女は、突き飛ばす形で地面へと投げ出された。もう使われていないその場所には人気がなく、助けを呼ぼうにもスマートフォンを手放してしまっていた。
それ以前に、助けを呼ぶ猶予など与えられないだろう。
マーヴィンにドルーガにガドック、それに数名の男が翔子に立ちはだかり、逃げ道を塞いでいた。
「まったく、馬鹿な女だな」
そう吐き捨てるドルーガは、翔子をここに連れて来るにあたってドラゴンの姿に変身していた。
彼の正体はさほど珍しくもないドレイクだったが、むしろ好都合だった。ありふれたドラゴンが空を飛んでいたところで、通行人が気に留めることはない。彼は口を塞いで声も出せないようにし、怪しまれずに翔子をここへ連れて来た。
「おい、シャッターを下ろせ!」
マーヴィンが、手下と思しき男達に命じる。
それに従い、入り口の錆びたシャッターが重い音を立てて下ろされた。それは、翔子の逃げ道が断たれたことを意味していた。
それを確認したマーヴィンが、ゆっくりと翔子に歩み寄る。
「来ないで……!」
身がすくんでしまい、翔子は立ち上がることすらできなかった。
少し前まで親しい友人と思っていた男が、今は恐怖の対象でしかなかった。
この男達と知り合う前の時間に戻れれば――否応なく、そう思ってしまう。もしこうなると分かっていたならば、決して彼らと縁を繋いだりはしなかっただろう。
しかしそんなことを考えても、もはや後悔先に立たずだった。
「今からでも遅くはないぜ……どうだ翔子、俺達と一緒に来るって言えよ。お前はいい女だし、そうすれば、この場は勘弁してやらないこともない」
男にはまだ、翔子に譲歩する気が残っているようだった。
しかし翔子は首を縦にではなく、横に振った。
「い、嫌よ……だってあれ、エニジアでしょ? あんなのを扱ってるなんてバレたら、どんな恐ろしい目に遭うか……!」
ニュースで取り上げられていた、エニジアを持ち込もうとして逮捕された兵庫県の高校生。
未成年であったために、テレビでは氏名や年齢や性別は明かされていなかった。どのような処分が下るのかは分からないが、少なくとも退学……さらに今後、これからの人生を棒に振りかねないような、もっと重い罰が課されることになるのは目に見えていた。
自分が同じ目に遭うかもしれないと考えただけで、翔子は恐怖に身が凍り付きそうだった。喫煙にすら尻込みする彼女には、とても禁止薬物になど手を出せそうにはなかったのだ。
マーヴィンが、近くにあった鉄柱を殴りつけた。
鐘を乱暴に打ち鳴らすような音が響き渡り、翔子はビクリと身を震わせた。彼女の言葉が、強制的に終了させられる。
「バレるようなヘマ、俺達はしねえよ。今までも、そしてこれからもな」
マーヴィンの拳が当たった部分から、鉄柱は『く』の字に折れ曲がっていた。
あの力が自分に向けられればどうなるか、翔子には考えるまでもない。マーヴィンは――いや、恐らくここにいる男達はすべてドラゴンであり、一撃で翔子を殺害する力を備えているはずだった。この場に連れ込まれた時点で、いや、この男達と敵対関係になった瞬間から、翔子は生殺与奪の権を握られてしまっていたのだ。
「だ、だけど……!」
恐怖に慄きながらも、翔子はなおも反論しようとした。
しかし、それはもう許されなかった。彼女の亜麻色の髪が、再び鷲掴みにされる。
「痛っ!」
彼女の髪を掴んで引き寄せたのは、マーヴィンだった。
「てめえの意見なんざ、もう聞く気はねえ。結論を聞かせろ、俺達と来るのか、来ないのか?」
望む答えを出さない翔子に、しびれを切らしたようだった。
翔子は黙った。髪を掴まれる痛みに悶えながら、かすかに目を見開いて男と視線を重ねるのみだ。いつの間にか浮かんだ涙で、視界がぼやけていた。
答えは出さなかったが、マーヴィンは翔子の意志を察したようだった。
忌々しそうにため息をつき、舌打ちをする。
「チッ、このクズ女が!」
次の瞬間、マーヴィンの拳が翔子の腹部を突き上げた。
しかし、翔子にはそれを認識することはできなかった。彼女からしてみれば、目にも留まらぬ速度で何かが自身の腹部を直撃し、同時に背中まで達するような痛みが走り抜けた――そんな感覚だった。
「ぐふっ!」
酸っぱい液体が込み上がり、口の端から漏れ出る。
翔子が腹部を殴りつけられたと理解できたのは、地面に倒れ伏してからのことだった。
身をよじって悶え苦しむ、それ以外の行動を封じられるほどの一撃だったが、それでも手加減されていた。仮にマーヴィンが本力で殴っていたならば、内臓を破裂させて骨を打ち砕き、翔子はたちまち死に至らしめられていたはずだ。
手加減されていたのは、殺しては寝覚めが悪いからではないだろう。
悪意に満ちたマーヴィンの表情を見れば、一目瞭然だった。この男はこれから翔子をじっくりと痛めつけ、存分に屈辱と後悔と、苦しみを噛みしめさせて殺害するつもりだ。
「世の中ってのはな、お前が思ってるほど甘いもんじゃねんだよ。ああ?」
翔子の背中が足蹴にされる。マーヴィンはもう、彼女を仲間にするという選択肢を廃したようだった。つまり、もはや容赦する必要もないのだ。
「なあマーヴィン、どうするんだこの女?」
「どうする? 考えて分からねえか、そんなのは決まってんだろ……」
翔子は、男達のほうを向くこともできなかった。
身動きもままならなくなるほどの一撃を喰らわされ、陸に取り残された魚のように、彼女はもはや無力だった。
マーヴィンが何と言うのか、翔子には容易に想像がついていた。どうか、そうであってくれるなと願った。
しかし、次に男が口にしたのは、翔子がもっとも恐れていた言葉だった。
「仲間にならないと言いやがったうえに、秘密も知られちまってる……もはや、こいつを逃がすわけにはいかねえ。この場で始末するしかねえだろ」
意味が明確に語られたわけではない。
しかし、それはつまり『死刑宣告』に他ならなかった。




