第123話 迫る危機
翔子は、無言でスマートフォンの画面を見つめていた。
七瀬からメッセージが送られてきているが、返信はしていない。テニス部の後輩にあたる彼女が、自分の身を案じてくれている――心が動かなかったわけではないが、返す言葉が見つからなかっただけだ。
――体調が悪い。
教員にそう嘘をついて、今日はテニス部を休むことにした。七瀬も渚も、他のテニス部の同級生や後輩達も、きっとこれから部活動に精を出すのだろう。本当ならば翔子も、そこに加わるはずだった。
しかし今の彼女は洒落た私服に身を包み、ハンドバッグを提げてショッピングモールに繰り出していた。数日前に思いがけず七瀬と遭遇したが、その時と同じ格好だった。
「はあ……」
知り合いと出くわしたりしようものならば、仮病を使ったことがバレる。それが広まれば顰蹙を買うのは必至だったし、きっと顧問にはこっぴどく怒鳴りつけられ、もしかしたら部活動を辞めさせられるかもしれない。
それは承知していた。けれどテニス部には行きづらかったし、かといって家にいたいとも思わなかった。
だから、翔子の行く先は決していた。気取らず、気兼ねなく付き合える仲間達に会いに行くこと。他に選択肢はなかったのだ。
メッセージアプリで『今日、遊ばない?』と誘ったら、彼らは快く承諾してくれた。これから合流し、いつものように食事をしたりゲームセンターで遊ぶことになるだろう。時折そうしてもらっていたように、服や化粧品などをプレゼントしてもらえるのかもしれない。
心の底から理解し合える友人なのかと問われれば、たしかに疑問は残る。しかし諍いの芽が消えていない友人達や、理不尽に暴力を振るう父親――一緒にいるのがもっとも楽しくて、気が楽なのは誰なのか。そう問われれば、翔子の答えはすでに決まっていた。
あの、ドラゴンの男達だ。
「あっ……」
遠目にその姿を見つけ、翔子はスマートフォンをしまった。
彼女が待っていた友人達、そのうちのひとり、ドルーガが道を横切っていくのが見えたのだ。待ち合わせ時刻までには、まだ十数分ほどの猶予があった。しかし彼がいるということは、すでに他の者も来ているのかもしれない。
早く合流できるなら、そのほうがいい。不利益はとくに思い浮かばなかった。
ドルーガが歩いていったほうに向かって、翔子は駆け出した。彼はどうやら一旦店を出て、裏手へと向かったようだ。
(どこに行くのかな?)
翔子は怪訝に思った。
待ち合わせ場所からわざわざ遠ざかり、裏手に向かう理由が分からなかったからだ。
一旦はドルーガを見失ってしまった。しかし、翔子はすぐに彼を再び見つけた。
店の裏手、監視カメラもなくほとんど人も寄りつかず、人目にも留まりづらいその場所に、ドルーガはいた。彼の前にもうひとり、翔子の知らない男が立っていた。
あんな場所で、何を?
翔子はそう思ったが、答えはすぐに分かった。分からされた。
ドルーガがポケットから小さな袋状の物体を取り出し、男に手渡す。それと引き換えに、数枚の紙幣(遠くて見えづらいが、一万円札だと思われた)を受け取っていた。
――袋状の物体には、青い粉末状の何かが入っていた。
「えっ、あれって……!」
たった今目にした出来事に、思わずまばたきも忘れた。
次の瞬間、後方から気配を感じ、翔子は振り返った。
マーヴィンにガドック、他にも数名の男達が立っていた。彼らは一様に笑みを浮かべていた。皆友人として接していた者だったのだが、今は彼らの笑みが不気味で、とても恐ろしく思えた。その理由は、ドルーガが手にしていたあの粉末状の物体だ。
翔子は、何も言えなかった。恐怖に全身が凍り付いてしまったかのように、視線を逸らすことすらできない。
「よお、待ち合わせ時間にはまだ早いが……もう来ていたのか?」
マーヴィンが歩み出てくる。翔子は思わず、一歩後退した。
幾度も間近で聞いてきたはずの男の声が、威圧的で有無を言わせない色を含んでいるのが感じられた。
「見られちまったから話すけどよ、俺らの稼ぎ元、アレなんだよ。いずれお前にも手伝ってもらおうと思ってたんだが、より話が早くなったな」
口の中がカラカラに渇いているのが分かる。それでも翔子はどうにか、口を開いた。
「あ、あれってまさか……エニジアじゃないの……? 最近テレビでもやってる禁止薬物……!」
兵庫の高校生が、転売目的で大量のエニジアを持ち込もうとして仲間のドラゴンもろとも逮捕された。そのニュースを翔子も知っていた。
薄青い、砕かれた結晶状の見た目をしているとテレビで放送していたが、ドルーガが手渡していたあれは完全に一致していた。破滅の欠片と称され、近頃急速に認知が進みつつある禁止薬物だ。
現物を自分が目にすることになるだなんて、翔子はまったく予期していなかった。
「ああ、知ってるだろうが、そりゃもうとんでもねえ金額に化けるんだぜ? お前にあれだけいい思いをさせてやれるくらいにな……」
マーヴィンの言葉で、翔子は気づいた。
言葉からして、この男は自分にもエニジア密売を手伝わせるつもりなのだ。犯罪の片棒を担がせるつもりなのだ。これまで食事を奢ってくれたり、色々な物を買い与えてくれていたのは、いわば自分を手懐けるための工作だったのだ。
豚は太らせてから食う――そういうことだ。
「お前まさか、俺達から離れるなんて言わないよな? これからも仲間だろ?」
マーヴィンのうしろにいた男達が歩み出てくる。
その言葉は、もはや『質問』ではなかった。『YES』以外の答えを一切受け付けない、脅迫と捉えて間違いないものだった。
「そ、そんなことをするだなんて、私聞いてない……!」
少し前には煙草を吸おうとした翔子も、エニジアの密売という明確な犯罪行為に手を染められそうにはなかった。バレればどうなるか――考えるまでもない。
「こ、このことは私、誰にも言わないから……だから……!」
恐怖で身動きもできなくなりそうだったが、断ることはできた。
しかし、それが受け入れられるはずはなかった。
「今さら何言ってんだお前、あれだけ俺達に甘い汁吸わせてもらっておいて、対価のひとつも出さねえままバックレられると思ってやがんのか?」
翔子は何も言えなかった。ただかすかに、引きつるような声を発しただけだ。
分かっていたが、目の前にいる男達は話し合いが通じる相手ではなかった。気のいい仲間のように感じていたが、その関係はもはや跡形もなく消え去っていた。
目の前にいるのは、凶悪な犯罪者集団だった。
もはや、話を続ける余地などなかった。恐怖に目を見開きつつ、翔子は踵を返して駆け出した。
「てめえ、待ちやがれ!」
もちろん、従うはずがない。
走りながら、翔子はスマートフォンを取り出した。とにかく、助けを呼ばなくてはと思ったのだ。
画面ロックを解除して最初に現れたのは、七瀬とのやり取りで使っているメッセージアプリの画面だった。さっき、七瀬からのメッセージを見ていた途中で画面をロックしたからだ。
身の危険を感じている今、警察に通報するのが適切だっただろう。
しかし翔子には、相手を選んでいる余裕も時間もなかった。今この瞬間にも、男達は追ってきている。
相手が誰だろうと、とにかく一刻も早く連絡を――その気持ちに突き動かされるまま、翔子は七瀬への通話ボタンをタップした。焦りと恐怖で手元が狂いそうだったが、どうにかそれだけはできた。
――その直後に、彼女は誰かに髪を鷲掴みにされた。
◇ ◇ ◇
「翔子先輩……?」
机に向かって宿題をしていた七瀬は、翔子からの不意の連絡に驚いた。
今日は授業が午後まもなくして終了し、夕方の部活まで数時間の猶予が存在した。そこで七瀬は一旦家に帰り、空き時間を宿題の処理に使っていたのだ。ベルナールは、まだ戻っていないようだ。
どうしたのだろう? 方程式を解いていた手を止め、七瀬は応答する。
部活動のため、再度学校に向かう時刻が迫りつつあった。彼女のスマートフォンが着信音を発したのは、そろそろ宿題を切り上げようと思い始めた時だった。
「翔子先輩、どうし……」
『いっ、痛い、痛い! やめて、離してっ!』
応答してまもなく、翔子の悲鳴が七瀬の鼓膜に飛び込んできた。
七瀬は困惑する。尋常ならざる様子に、思わず椅子から立ち上がった。
『おとなしくしろっ、ぶん殴られてえのかっ!』
聞き覚えのない男の声の直後に、『ガタンッ!』という音が鳴り響いた。おそらく、スマートフォンが地面へと取り落とされた音だった。
『い、嫌っ! やめてっ!』
「翔子先輩……? 翔子先輩!?」
七瀬は呼びかけた。しかし、翔子からの返事はなかった。
『おい、どうするんだこいつ?』
『とりあえずあそこだ、加賀実製鉄の廃工場にでも連れていけ!』
明瞭に聞き取れた言葉は、それが最後だった。
そのあとにも翔子が叫ぶ声や、複数の男の声が聞き取れたが、それらは次第に遠ざかっていき……やがて、何も聞こえなくなった。どこなのかは分からないが、翔子のスマートフォンをその場に残したまま、立ち去ったのだろう。
唐突だった。あまりにも唐突で、状況の理解が追いつかなかったが……それでも七瀬には、翔子が危機的状況に陥っているということは分かった。
「加賀実製鉄の、廃工場……!」
電話越しに聞こえたその場所を復唱し、七瀬は駆け出した。
今から行けば、学校の宿題や部活動を放り出すことになるだろう。しかし、翔子の身の安全のほうが圧倒的に大事だった。もはや、天秤にかける必要すらない。
家を飛び出した七瀬は、すぐに自転車に跨り――通報するという選択肢も忘れ、全速力で駆け出した。
元来の決断力と行動力に突き動かされている今の彼女には、もはや一片の迷いも存在しなかった。




