第118話 打ち明けるベルナール
七瀬は、再度ドラゴンの姿に変身したベルナールの背に寝そべるようにして、帰路についていた。
眼下には、夜の帳に包まれた街の景色が広がっている。ビルの窓から漏れる明かりに、街灯、道路を行き交う車のライト。さまざまな光が夜闇に浮かんでおり、美しく幻想的な夜景を描き出していた。
しかし七瀬は、それに目を向けることはない。夜景を見るほどの心の余裕は、今の彼女には残されてはいなかったのだ。
(翔子先輩……)
凶変した翔子の怒声や、彼女の表情が頭から離れなかった。
フードコートで会った時は、いつもどおりの優しくて美人な翔子だった。学校で聞いた翔子の怒声や、彼女が部活仲間の同級生を詰ったという話も、何かの間違いだと思った。間違いでなくとも、それは翔子の一時の気の乱れが引き起こした事件で、二度と彼女はそんなことをしないと信じていた。信じたかったのだ。
しかし七瀬は、否応なくそれらが真実であり、断じて一時の出来事ではないと思い知らされた。ほんの少し前に、他でもない彼女が、翔子の怒りの矛先を向けられてしまったのだから。
美人で優しい、素敵な先輩――他の皆がそうであるように、七瀬にとっても翔子は憧れの対象で、尊敬に値する人物だった。
だからこそ、七瀬の悲しみは非常に深かった。
「お嬢様」
前方を注視したまま、ベルナールが語りかけてきた。
彼が翼を動かすたびに、ブオン、ブオンという重い風切り音が鳴り渡っていた。
「大丈夫ですか?」
いつもなら、ドラゴンの姿に変身したベルナールに騎乗している時は、七瀬は彼ととりとめない会話をしたものだ。しかし今日の七瀬は、一言も語らなかった。
ベルナールはきっと、無言でいる自分を心配してくれた――それに気づいた七瀬は、慌てて平静を取り繕いつつ口を開いた。
「うん、大丈夫だよ。あれくらい、どうってことないから……」
本当は、そうではなかった。
翔子にあんなことを言われたのはショックだったし、七瀬は傷ついていた。けれどベルナールにはあえて、そう答えておいた。
「そうですか……」
ベルナールは短く応じると、引き続き翼を羽ばたかせて七瀬を送り届けた。
家に到着するまでは、数分ほどを要した。そのあいだ、彼はもう話しかけてくることはなかった。
◇ ◇ ◇
その後、屋敷に到着した七瀬は制服を着替えて夕食を済ませ、シャワーを浴びて寝間着に着替えた。
足首くらいの丈の、リボンの付いた胸元と裾のフリルが可愛らしいネグリジェ姿で、いつもポニーテールに結んでいる茶髪は下ろす。それが、彼女が眠る時の装いだった。
しかし今日の彼女は、ベッドに腰を下ろしたまま俯くように視線を落とし、横になろうとはしなかった。
帰ってくるあいだも、帰ってきても、入浴中も、食事の際も、そして今も。翔子のことで、頭がいっぱいになっていたのだ。
スリッパを履いた足元を見つめながら、七瀬は考えごとに没頭していた。
幸いなことに、今日は学校から課題は出されていなかった。ショックの大きい出来事に遭遇してしまった今、宿題など到底手につかなかったに違いない。
どれくらいのあいだ、ベッドに座り続けていたのだろうか。
不意に部屋のドアがノックされて、七瀬ははっとして顔を上げた。
「お嬢様……?」
ベルナールだった。
声を抑えているのは、もう七瀬が休んでいるかもしれないと思ってだろう。
「ベル?」
ベルナールとは長らく一緒にいるが、この時間に彼が部屋に尋ねてくるのは、七瀬が記憶している限りでは珍しい出来事だった。
「夜分にすみません、お嬢様のことが気にかかったのと、よろしければ少々話をと思いまして……」
「大丈夫だよ、入って」
ベルナールがすぐにドアを開けなかったのは、七瀬のプライベートに配慮してのことだった。昔から、彼はそういう気配りに長けていた。
七瀬が入室を促すと、ベルナールはできるだけ音を立てないようにドアを開け、その顔を覗かせた。ベッドに座った七瀬と目が合うと、彼は小さく頭を下げた。失礼します、と言いたげな仕草だ。
「まだ、お休みになられていなかったのですね」
「うん、まあね……」
七瀬は頷いた。
ベルナールはどうやら、七瀬が眠っていないことを察して尋ねてきたようだった。
「こっち、座っていいよ」
自分の隣に座るように、七瀬は促した。
ベルナールは歩み寄ってくると、「失礼します」と一言添えて七瀬の隣に腰を下ろした。
就寝時間は近かったが、今日は眠れそうになかった。誰かと話したいと思っていたし、翔子とのやり取りを見守っていたベルナールは事情も知っている。彼が話をしたいと言うのであれば、断る理由はなかった。
神妙な面持ちで、ベルナールは七瀬と視線を合わせた。
――翔子先輩についての話だ。ベルナールはまだ何も語っておらず、口すら開いていない。しかし彼の様子から、七瀬はそう察した。
「正直なところ、お嬢様にこの話をするにあたって、今が適切なタイミングかどうかは分からないのですが……」
本題に入る前に、ベルナールはそう忠告した。
今日の翔子とのことで、七瀬は痛みを抱えている。その状況を鑑みて、配慮してくれているのだろう。
七瀬は、首を横に振った。
「ううん、話して。ベルがそこまで考えてくれてるなら、私は文句を言わないから」
ためらわずに、七瀬はベルナールに打ち明けてくれるよう求めた。
ベルナールと同じように、七瀬もまた真剣な眼差しで彼を見つめた。話をするにあたって、ベルナールはある種の覚悟を決めているように思えた。ならば、聞き手となる自分も覚悟を決めなければならない。七瀬はそう思ったのだ。
ベルナールは小刻みに数度頷き、ゆっくりと口を開いた。
「僕としては申し上げにくいのですが、きっと遠くないうちにお嬢様の耳にも入ると思いますので……」
彼が語ったのは、七瀬にはあまりにも信じられず、受け入れ難い話だった。
なんと翔子が、煙草を吸おうとしたというのだ。ベルナールが止めたために未遂で終わったが、そうでなければ確実に吸っていたとのことだ。さらに彼女は、いかにも柄の悪そうな複数の男達とつるんでいたという。
それらを目撃したのは、エックスブレインの研修に出た日だったらしい。
七瀬はふと、ショッピングモールの本屋に立ち寄ろうと提案した時のことを思い出した。あの時ベルナールは七瀬と一緒に本屋には行かず、『所用がある』と言って別行動を取った。
タイミングから察するに、あの時だと思った。
ドラゴンは、人間と比べて感覚器官が優れている。たとえ火が付いていなくとも、翔子が煙草を所持しているのに気づくことは可能だと思えた。
「翔子先輩が、そんな……!」
嘘であってほしかった。
しかし七瀬自身も凶変した翔子を目の当たりにしているし、ベルナールがこんな嘘をつくとも思えなかった。この話が真実であることは、彼の真剣な表情が物語っていたのだ。
「さっきも言ったように、非常に申し上げにくいのですが……事実なんです」
驚きとショックで七瀬は言葉を失い、汗ばんだ両手をぐっと握ることしかできなかった。
どうしてそんなことを? 七瀬は思った。
しかしすぐに、思い当たる原因に直面する。
美人で品行方正で成績が良く、多くの生徒達から羨望の眼差しを集めている翔子。その期待に応え続けなければならないとなれば、重圧も相当なものだと思えた。
三年生に進級し、進路のことも真剣に考えなくてはならない時期だろう。エックスブレインを訪問し、自分の無力さに直面したばかりの七瀬には、将来の分岐路に立っている翔子の気持ちが理解できる気がした。いや、自分より比べ物にならないストレスや悩みを抱えていても不思議ではないし、むしろそれが当然だとすら思えた。
身に背負わされた、重く大きな見えざる十字架――それを強引に捨て去るために、翔子はビルから身を投げるという行動に出てしまった。
推測の域を出ないことだが、ありえない話でもないと思えた。
「ひとまず、引き続きキュラスに監視させています。また彼女の身に危険が及ぶようであれば、僕が止めに行きますので、どうかお嬢様はご心配なく」
七瀬は息をのんだ。
一度自殺を図った翔子が、再度同じ行動に出る可能性は否定できない。
「あのエヴリンという子も、彼女を見てくれると言っていましたからね」
ベルナールが翔子を救ったあとに現れた、あのゴスロリ調のドレス姿の少女――彼女は、自らを『エヴリン』と名乗った。
彼女は翔子の家に寄宿しているドラゴンで、翔子が心配で探しに来たと言っていた。
七瀬の目には幼くて無垢な少女といった印象で、翔子とも仲が良さそうに見えた。ベルナールが言うように、彼女も翔子を見張ってくれると言っていた。
ドラゴンであるならば、よからぬ行動に出る人間を止めることは容易だろう。
「そうだね。あの子、可愛くて礼儀正しかったし……」
たった一度、顔を合わせただけだった。
しかし七瀬には、エヴリンの存在がこの状況における安心材料であるように思えた。




