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第117話 闇の男爵


 どうしてそんなことをしたのかは、自分自身でも分からなかった。

 きっかけが何だったのかは、思い出せない。思い出す余裕すらも、翔子には与えられなかった。

 ただ、彼女の頭には忌まわしい記憶だけが渦巻き続けた。父親に暴力を振るわれたことや、部活仲間との確執。そういった嫌な思い出が鮮明に浮かび上がり、まるで意図的に彼女を苦しめようとしているかのようだった。

 まるで、ハリガネムシが寄生したカマキリを操って入水自殺させるように――心に生まれたドス黒い染みは、翔子を意図しない行動へと走らせた。

 家を飛び出した彼女は、誘われるがままに年季が入った雑居ビルへと向かった。そこは廃ビルではなかったものの、階段扉の施錠が壊れたまま放置され、その気になれば誰でも屋上に侵入できてしまうビルだった。その危険性が問題視されて噂になっており、翔子もそれを耳にしていたのだ。

 錆びが目立つ階段を上り、屋上に出て、翔子は柵を乗り越えた。

 そこまではためらわなかった。しかし、その先で彼女は思わず足を止めた。だが、足を止めるとすぐに忌まわしい記憶の数々が蘇り、それが再び彼女を突き動かした。

 夜風に亜麻色の髪を揺らしながら、翔子は引き寄せられるかのようにビルの端へと進んでいった。


「翔子先輩っ!」


 聞き覚えのある声に、思わず身を震わせた。けれど、振り向くことはできなかった。

 その声が聞こえたのとほぼ同時に、翔子はすでに足場が存在しない虚空へと踏み出していたのだ――。



 ◇ ◇ ◇



「ひっ!」


 翔子が、ビルの屋上から身を投げた――その瞬間を目の当たりにした七瀬は、両手で口を押さえて悲鳴を押し殺した。それ以外にできることなど、何もなかったのだ。

 目を背けようとしたその瞬間、彼女の前に立っていたベルナールが駆け出した。

 七瀬は、飛び降りた者を救う手段など持ち合わせてはいなかった。たとえ七瀬でなくとも、同じ状況に置かれればなす術がなくて当然だろう。

 しかし、ベルナールは違った。ドラゴンである彼ならば、翔子を救う術を持ち合わせていたのだ。

 駆け出したベルナールの身が淡い光に包まれる、その中から真の姿に変じた彼が姿を現した。

 鈍銀色の外殻と、いくつも突き出た棘のような突起。それに先端部分がボロボロになった紺色の翼膜が目を引く、ドラゴンゾンビだった。恐ろしくもどことなく知性的で、さながら『闇の男爵』といった雰囲気を醸すその外見は、人間の姿でいる時のベルナールの面影が感じられた。

 当然ながら、ベルナールは無意味に変身したわけではない。

 真の姿になったことで、彼はより素早く飛翔できるようになる。闇に浮かぶような黄色い目は、まっすぐに翔子を捉えていた。

 翼を激しく動かして勢いを得ると、ベルナールは一気に翔子に接近し、彼女の身を空中で抱き留めた。間一髪の出来事で、あと数秒遅れていれば、翔子は地面に叩きつけられていた。そうなっていれば、まず命は助からなかっただろう。

 

「はっ!」


 ドラゴンの姿に変じたベルナールにその身を抱えられつつ、翔子は声を発した。

 彼女の瞳には涙が浮かんだままで、呼吸は喘ぐように荒いでいた。自分が無事でいることに驚いたのかもしれない。

 状況を確認しようとしたのだろうか、翔子は左右を見渡した。彼女の亜麻色の髪が舞い乱れる。

 そして最後に彼女は、ベルナールと視線を重ねた。


「怪我はありませんか?」


 翔子を救えたものの、決してそれが容易だったわけではない。

 キュラスの報告や、ビルの上に立つ彼女の発見がもう少し遅かったら、間に合っていなかった可能性が高かった。

 当然ながら、ベルナールの真の姿を翔子は知らない。彼女は、彼がドラゴンゾンビであることさえ知らないだろう。


「あなた、この前の……!」


 しかし彼女は、声だけで察したようだ。自分を救ったこのドラゴンゾンビが、前に自分の喫煙を咎めて煙草を没収した、あの執事服姿の少年であることを。

 ビルから身を投げた時、どこかに身体を打ったりはしていなかった。見たところ、翔子に怪我をしている様子はない。

 無傷で助けられたことに、ベルナールは一旦の安堵を覚えた。

 しかし、問題は終わらなかった。

 彼を見つめる翔子の表情が、みるみる怒りと憎しみに歪んでいく。


「何するのよっ、余計なことをしないでよ!」


 ヒステリックに叫んだと思うと、翔子はその手足を無茶苦茶に振り回した。

 ベルナールの腹部を、彼女の足が打つ。

 ドラゴンであるベルナールには、人間の蹴りなど痛手にはならない。しかし、助けた少女に蹴られたという事実が精神的な重荷となる。


「っ、いったい何が、あなたをこんな行動に駆り立てたんです……!?」


 まるで暴漢にでも襲われたかのように、翔子は凄絶に暴れた。

 しかしベルナールは、そんな彼女を放すわけにはいかなかった。放してしまえば、今度こそ転落することになるからだ。

 とにかく、翔子を安全な場所に向かわせなければならなかった。

 ベルナールは彼女を抱えたまま、翼を羽ばたかせて地上へと降り立つ。見た目に恐ろしいドラゴンが、喚く少女を抱いている。傍から見れば誘拐現場と間違われて通報でもされそうに思えたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


「放してよっ!」


 そう叫んだ翔子を、ベルナールは言われたとおりに解放した。ただし、地面に降り立ってその足を着けさせてからだ。

 安全を確認し、ベルナールは人間の姿に戻った。すぐに、翔子が彼を睨んでくる。


「頼んでもいないのに……こんなことしても、何も変わらないわよ……!」


 彼女はなおも、荒ぐ呼吸に両肩を上下させていた。

 以前ベルナールは、翔子が煙草を吸おうとしたのを止めた。そして今回は、彼女の飛び降り自殺を食い止めた。実質二度も救われているのだが、翔子はベルナールに対して恩など微塵も感じてはいないだろう。

 対するベルナールの表情は冷静で、逸らすことなく翔子と視線を重ね続けていた。


「こちらこそ、頼まれてはいません」


 丁寧な口調は崩さなかったが、ベルナールの声には挑戦的な色が滲んでいた。

 翔子は歯を噛み締めた。彼女にとって目の前にいるのは、命の恩人ではなかった。煙草の時といい今回のことといい、自分の行動を妨げる邪魔な存在のようだった。


「余計なことばかり……もういい加減に……!」


 翔子は、ベルナールに向かって駆け出そうとする。


「翔子先輩!」


 翔子は息をのんだ。彼女の足は、その呼び声に引き留められた。

 振り向いた翔子と、七瀬の視線が重なる。飛び降りる直前に翔子を呼んだのは、七瀬だった。


「な、七瀬……!」


 翔子の表情が、焦りと戸惑いに染め上げられていく。

 飛び降りる現場を見られたことを、翔子は察したのだろう。

 仲の良い後輩が予期せず現れたことで、ベルナールを詰るのは中断せざるを得なくなったようだ。落ち着いた様子になった翔子は雑居ビルに背中を預け、七瀬とベルナールは彼女に向かい合う位置に立っていた。

 夜空に浮かぶ月や街灯の明かりが、三人の姿を淡く照らしていた。


「翔子先輩……どうしたんですか? どうしてあんなことを……!」


 沈黙に終止符を打つ形で話を切り出したのは、七瀬だった。

 あんなこと、というのが何なのかは明白だった。ベルナールの介入によって未遂に終わった、翔子の飛び降り自殺だ。

 

「ベルが助けなかったら、先輩は今頃……!」


 七瀬はそこで言葉を止めた。その先は、言うことができなかったのだろう。

 尊敬していて憧れている先輩が、飛び降り自殺を図った。七瀬はそのことに驚いていたし、ショックを受けてもいたのだ。

 なぜ、あんなことをしたのか。

 翔子に理由を問いただそうとするのは、至極当然だった。


「うるさいのよ……」


「え……?」


 翔子から答えは得られなかった。

 忌々しそうに発せられたその言葉に、七瀬は目を見開いた。

 逸らされていた視線が、七瀬と重ねられる。


「あんたに何が分かるって言うのよ、私がどうなろうと、あんたには関係ないことでしょう! 余計なことに首を突っ込んでんじゃないわよ!」


 凶変した翔子の剣幕に、七瀬は一歩後ずさった。


「差し出がましいかもしれませんが……」


 七瀬に代わるように、ベルナールが歩み出る。


「首を突っ込ませているのは、あなたのほうでは? 自分の命も大切にできないようでは、そんなことをおっしゃるにはまだ早いと思うのですが」


 翔子は、押し黙った。言い返すことが見つからなかったのかもしれない。

 それ以降、三人は口を開くことはなかった。重々しい沈黙を終わらせたのは、その中の誰でもなかった。


「お姉ちゃん!」


 翔子も七瀬もベルナールも、幼さが垣間見える声に振り向いた。

 駆け寄ってきたのは、暗い青色のゴスロリ調のドレス姿の少女だった。いったい誰なのか? 七瀬は思った。ドラゴンである気がしたのだが、面識のない少女だ。

 しかし、翔子はそうではなかったらしい。


「エヴリン……!」






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― 新着の感想 ―
ビルから飛び降りる翔子、そこからの描写がとても印象的で、一瞬一瞬を濃密に感じました。 「まるで、ハリガネムシが寄生したカマキリを操って…」この描写も壮絶ですね。そしてベルナール、さすがです。エヴリン…
「忌まわしい記憶ばかりが、意図的に彼女を苦しめようとしているかのよう」の下りが怪しさMAX!!! そういえば、翔子センパイの持ってたタバコも何かあるっぽかったし、もしかするとエニジアとは、人間の負の感…
 大丈夫!人間二、三回死にそうな目に遭えば、運命決定ぐらいじゃ死ななくなりますから!(転生者特有の脳筋思考)  現状、翔子パイセンにとっての味方はエヴリンしかいないと錯覚させられているわけで。  怪…
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