第116話 月下の涙
登校し、授業を受け、放課後には部活動に精を出し、それを終えたら学校を後にする。
七瀬はその日も、毎日繰り返しているルーティンに添うような一日をすごした。彼女がスーツに身を包み、父とともに研修生としてエックスブレインを訪問した日の翌日だった。
今日の部活帰りのみ、七瀬は普段のルーティンから外れることをしていた。
テニス部の先輩のひとりである渚と一緒に、新しくオープンした服屋に行ってきたのだ。部活終了後、話が弾んだ拍子にこの服屋の話題が持ち上がり、七瀬は渚も自分と同様に興味を持っていることを知った。
七瀬は一年生で、渚は三年生。ふたつ学年が離れていたものの、気さくで頼りがいがある渚は七瀬にとって先輩であると同時に、友人のような存在でもあったのだ。
「服のセンスはグッドなんだけど、どうも値段がね……今の僕の所持金だと、ちょっと手が届かないかな」
自転車を押しながら、渚は小さくため息をついた。
以前渚は、排出確率が非常に渋いマスキャットキーホルダーを獲得するために五千円を投じたことがあると言っていた。欲しいもののためには投資を惜しまないようだが、今回は諦めざるをえなかったらしい。とはいえ、今後バイト代を貯めて買うこともできるだろう。
お気に入りの商品を見つけられたのであれば、少なくとも無駄足ではなかったように七瀬には思えた。
「ブランド物ですからね、値が張るのはまあ仕方ないですよ」
「まあ、そうだね」
七瀬は自転車を押しておらず、徒歩だった。
今日、彼女はベルナールに乗せてもらって登校し、帰りも彼に迎えに来てもらうことになっていた。合流する時間と場所は、すでに伝えてある。
「さてと……それじゃ七瀬、僕はそろそろ帰るよ。また明日」
「はい渚先輩、今日もお疲れ様でした」
七瀬の返事を受けると、渚は自転車に跨った。彼女は今一度振り返って、笑みとともに手を振ってきた。
渚の家は海の近くにあり、毎日一時間かけて自転車で通学していると言っていた。部活帰りにそんなに自転車をこいで疲れないのかと、七瀬は彼女に訊いてみたことがある。しかし渚は、体力づくりの一環だと言っていた。テニス部と水泳部を掛け持ちしているあたり、彼女のスタミナは相当なものだろう。考えてみれば、七瀬が昨日テニスで渚に勝つことができたのは、奇跡に等しかったかもしれない。
夜道に消えていく渚の姿を見つめながら、七瀬はそんなことを思った。
そして渚が完全に去っていった時、彼女の顔から笑みは消えていた。
(言えなかったな……)
七瀬は、部活動中のある出来事を思い出していた。
テニスの練習の合間に、顔を洗おうと水飲み場に向かった時のことだ。そこにはすでに誰かが来ており、後ろ姿を見ただけで、七瀬にはそれが翔子であるのが分かった。
水飲み場に来ているだけであれば、何ら珍しくはない。給水のためだったり、何らかの傷を負った場合は、それを洗い流したり冷やすために来ることもある。夏の炎天下であれば、七瀬のように顔を洗おうとする生徒だっている。
しかし、その時の翔子は様子がおかしくて、七瀬は声を掛けることができなかった。
――肩を震わせながら、何か思い詰めた様子で……翔子が泣いていたのだ。水飲み場の蛇口から水が流れていたままだったが、その水音に彼女の涙声がはっきりと混ざっているのが分かった。
もう少しで『翔子先輩、お疲れ様です』と言ってしまうところだった。しかし違和感を感じ取った七瀬は、慌てて物陰に隠れて気配を消した。
記憶している限りでは、翔子が泣いているところなんて、ただの一度も見たことがなかった。
何かあったのだろうか? 昨日、部活動で他の生徒達と揉めていたことが、何か関係あるのだろうか。
気掛かりだったので、機を見て渚に相談してみようと考えていた。しかし、それはできなかった。
翔子には翔子の事情があると思うと、口外するのがどうにもはばかられたのだ。
(っと、そろそろ待ち合わせ場所に行かないと)
スマホで時刻を確認すると、ベルナールとの待ち合わせ時間が迫りつつあった。
翔子のことは気になっていたが、今の七瀬には何もできない。彼女にできるのは、明日になれば翔子が何事もなく、元気になっていることを祈るぐらいだった。
スマホをポケットにしまい、七瀬は歩を進め始めた。
集合場所は駅の前にある銅像の前で、さほど遠くない場所だった。
七瀬がそこに到着するまでの所要時間は、ものの数分だった。ベルナールは先んじて来ており、歩み寄ってくる七瀬に気づいて振り向いた。
「今日もお疲れ様でした、お嬢様」
「来てくれてありがとう、ベル」
労いの言葉をかけてくるベルナールに、七瀬は小さく手を振りつつ応じた。
彼が迎えに来てくれるたびに交わしているような、とりとめない会話だった。しかしベルナールは何か違和感でも感じたかのように、眉間に皺を寄せた。
「どうかされましたか?」
「えっ、どうかって?」
不意の質問に内心驚きつつ、七瀬は問い返した。
「いえ、僕にはお嬢様が、何かお悩みのように見えまして」
内心、七瀬は驚いた。
合流してからほぼ同時に、自分が考え事をしているのをベルナールが見破ったからだ。
何年も一緒にいるだけのことはある、と七瀬は思った。思っている以上に、ベルナールは七瀬を見てくれているのだ。
「ううん、そんなことないよ」
とはいえ、翔子のことを打ち明けようとは思わなかった。気になっていたのは間違いないが、無暗に広めるのはやめておこうと考えたのだ。
「そうですか、失礼しました」
表情から訝しさが消えたわけではない。しかし、ベルナールはそれ以上問い詰めようとはしてこなかった。七瀬の心情に、配慮してくれたのかもしれなかった。
七瀬から視線を逸らさないまま、彼は踵を返した。
「それでは、そろそろ帰りましょうか。もう時間も……」
そこで、ベルナールの言葉が止まった。いや、止められた。
彼のもとに、一匹のコウモリが飛んできたのだ。
ただのコウモリではなかった。ベルナールの相棒である龍界コウモリ、キュラスだ。地上のコウモリ以上に鋭敏な嗅覚や高度な知能を有しており、以前七瀬も道案内をしてもらったことがある。
「どうしました、キュラス」
キュラスは翼を羽ばたかせて滞空しながら、ベルナールに向けて鳴き声を発していた。
その数秒後、ベルナールの表情が変わった。
「何ですって……!?」
次の瞬間、ベルナールはキュラスとともに、いきなり駆け出した。
「えっ、ちょっとベル!?」
七瀬は驚きつつ、慌てて彼の背中を追った。
ベルナールが彼女を置いて去るなど、これまでにないことだった。焦りの感じられる彼の表情を見ても、何かがあったのは明らかだった。
「ベル、どうしたのベル、ねえ!」
七瀬が問いかけても、ベルナールは足を止めない。振り向いてくれることすらない。
何があったのか、どこに行くのか。そう思った時、不意にベルナールは立ち止まった。
「はあ、はあ……ねえベル……!」
ベルナールはやはり、応じなかった。
彼は何も言わずに、街のどこかを見上げていた。
七瀬は反射的に、彼の見つめる先を視線で追う。年季が入った雑居ビル、その屋上にひとりの少女が立っていた。
(えっ、誰……?)
そう思った七瀬だが、その正体にすぐに気づいた。
ビルの屋上に立っている少女は、翔子だった。緩やかに吹く夜風が、彼女の制服や、長く伸ばされた亜麻色の髪を泳がせているのが見えた。
月光をその身に受けながら佇む彼女の姿は、どことなく幻想的で美しく思えた。しかし、見とれている余裕などなかった。
それもそのはず、翔子が立っているのは屋上の安全柵を越えた先だったからだ。
「翔子先輩、あんなところで何を……!?」
七瀬は言った。
しかし、翔子が何をするつもりでいるのかは、否応なく知ることになる。
まるで何かに引き寄せられるように、翔子が一歩前に歩み出た。当然ながら、その先にはもう安全柵は存在しない。
遠目ではあるが、月光に照らされているからだろう。翔子の頬を、一筋の涙が伝っているのが見えた。
驚きと困惑で、七瀬は目を見開いていた。
翔子があんな場所にいるのも、涙を流しているのも、あまりにも唐突な出来事だった。理解が追いつかなかったのだ。
「えっ? えっ? まさか……!」
もう一歩、翔子が前に歩み出る。
もはや彼女には、ためらいも迷いもないようだった。
「そんな、やめっ……!」
また一歩、翔子が前に歩み出る。
その先にはもう、足場は存在しなかった――。




