第115話 エヴリン
洒落た住宅が立ち並ぶ一角、そこは景観も日当たりもよく、付近には大型スーパーやホームセンターがあり、駅やガソリンスタンドからもさほど離れていない。
不動産屋から文句なしの一等地認定を受けているこのエリアに、周囲の住宅とは一線を画す大きさ、さらに広大な敷地面積を有する邸宅が存在した。この付近に住んでいるのなら、もはや知らない者を探すことが困難だとすら思える邸宅――表札には、『見崎』とあった。
そして邸宅と同様に、ここに住むひとりの少女もまた、近所では有名人だった。
誰もが憧れるような美貌、そして優秀な頭脳を備える見崎翔子のことはたちまち噂となり、広く知れ渡っていたのだ。
だが、人々は彼女がこの邸宅でどのように過ごしているのかを知らない。有名な医師のひとり娘である翔子が、心の奥底に積もらせている鬱憤のことなど、知る由もない。
「こんな時間まで、いったいどこをうろついていたんだっ!」
怒声に続いて、乾いた音が響き渡る。
父親に張り飛ばされた頬を押さえながら、翔子は床に崩れ落ちた。
「っ……!」
バッグが彼女の肩から滑り落ちる。けれど翔子には、それを拾う猶予など与えられなかった。
近づいてくる足音が聞こえたと思った次の瞬間、胸倉が掴まれて翔子は強引に立ち上がせられる。張り飛ばされた影響なのだろう、片耳にはキーンという異音が鳴り続けていた。
翔子が目を見開いた時、真っ赤になった父親の顔が目の前にあった。
「まったくお前ときたら……このところの振る舞いは目にあまるものがあるぞ! 成績は落ちているし、反抗はするし、しかも最近は夜遊びまで……!」
翔子は何も言わなかった。
口を結んだまま、彼女は父親に挑みかかるような眼差しを向けていた。
「いったい何がお前をそうさせたんだ? まるで誰かに毒でも吹き込まれたかのような……少し前までのお前とは、別人のような有様だぞ!」
翔子はやはり、何も言わなかった。
沈黙という形で、父親への抗議を表明しているかのようだった。
「このままではお前、大学への進学も危ういぞ……何か言ってみろ、返事をしろ翔子っ!」
怒りに顔を震わせ、唾液を吐き飛ばしながら叫ぶ。
父親などと思いたくもない男に向かって、翔子はおもむろに口を開いた。
「うるさいのよ、このクソ親父……!」
才色兼備で品行方正な彼女からは想像もつかない、下品な言葉だった。
押し留めていた堰が壊れたかのように、父親がその右手を振り上げた。何をする気なのかなど、考えずとも分かる。再び娘の頬を張り飛ばすつもりなのだ。
「この野郎っ!」
しかし、彼の手の平が翔子の頬を打つことはなかった。
いつの間にかその場にいた少女が、翔子の父親の手首を押さえていたのだ。
「旦那様、乱暴はやめて……」
「っ、エヴリン……!?」
男は思わず、視線をその少女のほうに向けた。
この場に割って入った彼女、男から『エヴリン』と呼ばれた少女は、翔子と比べると幾分か幼かった。しかし、ドラゴンである彼女が本当に翔子より年下であるのかどうかは、定かではない。ドラゴンと人間とでは、そもそも時間の経ち方が違う。
エヴリンは暗い青色のゴスロリ調のドレスをまとっており、ところどころにあしらわれたリボンは真っ赤で、まるでアクセントカラーのようだ。頭部には、フリルの多い服に合致するデザインのカチューシャも身に着けていた。
衣服と同じ色に揃えられた髪はゆるやかに波打っており、その前髪によって彼女の右目は覆い隠され、左目だけが覗いていた。
「お姉ちゃんがかわいそう、お願い……!」
翔子の父を見上げ、彼の腕を押さえながら、エヴリンは懇願する。
しかし、エヴリンは手で翔子の父を制しているのではない。ふたりの背丈には大きな差があるので、そもそも手を伸ばしても届かない。
エヴリンの服の袖は、彼女の手を完全に覆い隠すほどの長さだった。その中から伸びている、触手のような何本もの物体が、翔子の父の手首に絡みついて押し留めていたのだ。
それら一本一本はたいした太さではなく、さほど強い強度を有しているようには思えない。
しかし翔子の父はそれを振りほどくことができず、娘への制裁は中断せざるを得なくなった。
「分かった。分かったから、早く放せ……!」
夜遊びをした挙句、暴言を吐いて反抗的な態度を示す娘には、折檻が必要だと感じていた。しかし今日のところは、ここで切り上げることにした。
蛇のように絡みついていた触手が、一斉にほどかれる。
エヴリンに言ったとおり、もう娘に手を出そうとはしなかった。
しかし男は、鋭い眼差しで翔子を睨みつけた。実の娘に向けられるものとは思えない、憎々しい気持ちが噴き出るかのような目つきだ。
「エヴリンに免じて、今日はここまでにする……しかし覚えておけ、今後お前の態度が変わらないようであれば、もうこの程度では済まさんぞ!」
翔子は黙り続けていた。お前に返す言葉などない、とでも言いたげだ。
ただ、その拳をギリッと握りしめるのみだった。
「さっさと部屋に行けっ! お前の顔も見たくない!」
こっちの台詞だ、と言わんばかりに翔子は踵を返し、階段を上って自室へと駆け込んだ。
机の支柱に、力の限りに蹴りを入れる。そんな八つ当たりじみた行為など、自分の足が痛むだけで無意味だった。しかし、そうせずにはいられなかった。
苛立ちと怒りが込み上がり、翔子の胸を、精神をかき乱していく。それに突き動かされるように、今度は壁に拳を突き入れる。
乱暴に顔を掻きむしる。亜麻色の髪が乱れ、美しく整った彼女の顔は、まるで鬼のような形相に歪んでいた。
「お姉ちゃん……」
呼吸を荒げながら振り返ると、エヴリンが立っていた。
心配そうな面持ちで翔子を見つめる彼女は盆を両手に持ち、そこには洒落たティーカップが載っていた。
エヴリンはいつも、両手を長い袖の中に隠していた。しかし今は袖を捲り上げ、両手が使えるようにしている。
「エヴリン、どうしたの……?」
翔子は、エヴリンに問いかけた。平静を取り繕うように努めたが、正常な精神状態にないことを隠せてはいなかった。
気が狂いそうだったが、翔子がそれをエヴリンに悟られたくなかったのには理由がある。ゴスロリ風の衣服をまとった彼女は、この家にドラゴンステイしているドラゴンであり、そして翔子が妹のように親しく過ごしてきたホストファミリーだった。エヴリンが寄宿を始めたのは翔子が小学校低学年だった頃なので、少なくとも十年以上は一緒にいることになる。
翔子の母は、彼女が幼かった頃に病に伏してこの世を去った。
だから父親との軋轢が深まっている今では、翔子にとってエヴリンは、唯一心から家族と呼べる存在だったのだ。
「お姉ちゃんのことが心配で……エヴリン、何か力になれないかと思って。これを……」
両手で持った盆と、そこに載ったティーカップをエヴリンはかざした。
昔からエヴリンは、一人称として自分の名前を用いていた。つまり彼女が『エヴリン』と言うのは、他の者であれば『私』に相当するのだ。
「ハーブティー……?」
香りと色だけで、翔子はエヴリンが差し入れてくれた飲み物が何なのかを察した。
ハーブティーにはリフレッシュや、リラックス効果があるということを知り得ている。今の翔子の状況を、エヴリンは考えてくれたに違いなかった。
「お姉ちゃん、少しでも落ち着くかと思って……」
翔子が幼かった頃は、エヴリンは翔子を『翔子ちゃん』と呼んでいた。しかし翔子が成長して外見年齢が上になった頃から、『お姉ちゃん』と呼ぶようになった。
ドラゴンと人間では、時間の経ち方が違うのだ。
「ありがとう。そこに置いておいてもらっていい? あとでゆっくり飲ませてもらうわ」
翔子は率直に、彼女の気遣いに感謝した。
盆を机に置くと、エヴリンは今一度向き直る。
「何かあったら言ってね、エヴリン、お姉ちゃんのためだったら、何でも力になるから」
翔子が頷くと、エヴリンは翔子の自室から去っていった。
もちろん翔子には、出ていく時のエヴリンがどんな表情をしていたのか、それを見ることはできなかった。見るのはおろか、想像すらつかなかった。
扉が閉まる振動が伝わり、エヴリンが置いていったハーブティーに波紋が広がった。