第114話 首狩り
「なるほど……好ましくない状況ということですね」
街中に林立する高層ビル、その屋上に立つベルナールの姿を、満月が照らし出していた。
右肩にはキュラス――ベルナールの相棒である龍界コウモリが止まっていた。直接言葉を交わすことはできずとも、ドラゴンゾンビは龍界コウモリと意思の疎通ができる。それは毒を操る以外の、彼らが持ち合わせる特性といえるだろう。
ベルナールの言いつけで翔子を監視していたキュラスは、早くも好ましくない情報を掴んだようだった。
それは、翔子と一緒にいたあの男達が、良からぬことを企てているという事実。そして、翔子がそれに巻き込まれようとしていることだ。
あの男達を目にした時、嫌な予感がしたのをベルナールは覚えている。
できれば取り越し苦労であってほしいと感じたものだが、そうもいかなそうだ。
(お嬢様に悟られないうちに、事を収めたいものですが……難しそうですね)
翔子が柄の悪い男達とつるみ、さらには彼らの悪事に巻き込まれる可能性がある。
もちろん、そんな事実を七瀬に知らせられるはずがない。七瀬にとって翔子は憧れの先輩であり、羨望の対象だった。下手に知られようものなら、深く傷つくことになるだろう。
今のうちに、その男達を倒すべきか?
そうも考えた。考えたが、現時点ではできない。
キュラスが掴んだ情報はあくまで彼らが言っていただけのこと、それだけでは証拠に乏しい。さらには彼らがドラゴンである可能性もあり、ベルナールが単独で制圧できるかどうか定かではない。
決してベルナールが弱いわけではない。しかし相手の手の内が読めない現状では、強攻策に打って出るのは得策とはいえなかった。
「分かりました。キュラス、引き続き彼女を見ていてください。もし何かあれば、また僕に知らせるように」
キュラスが飛び立ち、夜空へと姿を消していった。
その姿を見送ったベルナールは、ポケットから煙草を取り出した。それは彼が、翔子からライターと一緒に没収したものだった。
(それにしてもこの煙草、何というか、妙なにおいが……こういうにおいがする銘柄なのでしょうか?)
煙草に詳しくないベルナールは、その違和感の原因が何なのか分からなかった。
根本的に、妙なにおいを発する煙草なのかもしれない。煙草には数千もの化学物質が含まれており、それが燃焼する際に発せられる臭気は、非喫煙者には例外なく『妙なにおい』だろう。しかし、念のために調べておくことにした。
幸い、煙草といえば思い浮かぶ者に心当たりがある。
◇ ◇ ◇
「へえ、珍しい銘柄ね」
ベルナールから例の煙草を投げ渡されたザンティは、その箱をくるくると手の平で回しつつ訝しそうに呟いた。
それもそのはず、彼がいつも姉に差し入れている銘柄ではなかった。
妙なにおいを感じていた、ベルナールが翔子から没収したあの煙草だった。
「姉さん、その煙草……妙なにおいがすると思うんだけど、どう?」
「妙なにおい?」
ザンティは、煙草の箱を開けた。
仮面に隠れていない右目を細め、注意深く中身を覗き込んで観察する。
暗澹の洞窟で会う時はいつもそうしているように、ザンティは巨大水晶に腰掛けていた。すらりと長い脚を組んで座るその姿は、どことなくセクシーだった。
ザンティは箱の中を見つめたあとで、今度はそれに鼻を寄せ、嗅ぐような仕草を見せた。
「まさか……」
彼女は小さく、呟いた。
その反応から察するに、ザンティもベルナールと同様、煙草から何かしらの違和感を感じ取ったようだった。
これ以上の分析は不要だと判断したのか、ザンティは煙草の箱を閉じた。
「ベルナール、この煙草はどこで?」
「お嬢様の先輩の『翔子』って人から取り上げた物なんだけど……やっぱり、姉さんも感じた?」
取り上げた、という言い方は何となくはばかられた。とはいえ、それ以外に適切な説明を、ベルナールは思い浮かばなかった。
とはいえ、取り上げたとしても別に構わないだろう。
あの時も思ったが、煙草は決して高校生が所持していい品ではない。
ベルナールが煙草を取り上げなければ、翔子はきっと吸っていた。そうなれば、破滅するのは彼女自身だ。
「その翔子って子が、近頃急に怒りっぽくなったとか、攻撃的になったとか……そういう話に心当たりは?」
「えっ?」
姉からの思わぬ質問に、ベルナールは思わず呆けた声を出してしまった。
ザンティは何も言わなかった。無言という形で、答えるように促しているのだとベルナールには感じられた。
重要なことに気づきつつあるのかもしれない。弟と同様、元より目つきが悪いのもあるだろうが、ザンティの眼差しは鋭く、誤魔化しを拒むような真剣さを帯びていた。
このままでは、翔子が危ない目に遭うかもしれない。
姉に知り得ている情報を渡すことで、彼女を救う手掛かりが得られるかもしれない。ベルナールはそう感じた。
「実は……」
ベルナールは打ち明けた。
見崎翔子が、七瀬が慕っている高校三年生の少女であること。翔子が煙草を吸おうとしたことや、自分がそれを止めたこと、彼女が凶変して自分にまくし立ててきたこと。彼女と一緒にいた柄の悪そうな男達が、何らかの悪事に翔子を巻き込む可能性があること。今はキュラスに見張らせていることも。
彼が話を終えると、ザンティは煙草を取り出した。
もちろんベルナールが翔子から没収した煙草ではなく、彼女の自前品だ。
「なるほど、事情は理解したわ」
ザンティは煙草を咥え、火を付けようとした。
しかし彼女が握るライターはカチカチと音を鳴らすだけで、火がつかない。
「姉さん、これも」
ガスが切れていることを察したベルナールは、自分が持っていたライターを姉に投げ渡した。
煙草と一緒に、翔子から没収した物だった。
「ありがとう。さすがは執事さん、気配り上手ね」
投げ渡されたライターを片手でキャッチすると、ザンティは改めて煙草に火をつけた。
煙を吹き出すと、火のついた煙草を片手に口を開く。
「実はこっちもちょっと今、気になっていることがあるのよ。だから全面的にとはいかないけれど……急を要する事態になったりした時は教えてちょうだい。できる範囲で協力するわ」
「分かった、ありがとう」
翔子から没収した煙草から、ザンティが何に気づいたのか。彼女が気になっていることとは、何なのか? ベルナールは気になった。
できれば、教えてほしかった。しかし、語らないということは口外をはばかられる情報なのだろう。彼女は力になってくれると言っているし、無理に尋ねようとは思わなかった。
今はもう少し、様子を見る必要がある。
「それじゃ姉さん、もう行くよ。何かあったらまた来る」
ザンティは、無言で手を振ってきた。
◇ ◇ ◇
シドがザンティのところに戻ってきたのは、彼女がベルナールを見送ってから数分後のことだった。
もう少し早ければシドもベルナールと会えただろうが、ちょうど入れ違いになった。とはいえ、伝える必要もないと感じたザンティは、それをシドに教えようとも思わなかった。
何よりも重要なのは、シドが片手にぶら下げているレジ袋の中身だった。
「ただ今戻りやした姉御。こちら、ご所望の品でやんす」
シドが歩み寄り、ザンティにレジ袋を差し出してくる。
レジ袋には、エイトイレブンのロゴマークがプリントされていた。不意に骨だけのドラゴンが来店して、店員がどんな顔で接客したのかが気になる。
「ありがとう。少ないけど、お釣りは取っておいていいわよ」
「えっ、ラッキー! お言葉に甘えて、ありがたくちょうだいしやす!」
数枚の小銭を手に舞い喜ぶシド。そんな彼には目もくれず、ザンティは袋の中身を取り出した。
――ボールペンと、少しばかり上質な便箋だった。
ザンティは、面倒な手続きを済ませなければ人間界に降り立つことができない。なので、どうしても必要な買い物などがあればシドやベルナールに頼んでいた。
便箋を広げたザンティは、煙草を手放してボールペンを手に取った。
「で、姉御……いったいどうするんで? こんな便箋とペン……誰かに手紙でも出すんで?」
「手紙というか、『礼状』ね。この前の素敵な注文主に宛てて」
シドに応じつつ、ザンティはさらさらと便箋にボールペンを走らせていく。
「さすがは姉御、いつもながら達筆でやんすな……」
ザンティの字を覗き込んで、シドが少しばかり大げさに褒めそやした。
骨だけのドラゴンであるが、顎に手を当てつつ唸る仕草はまるで人間だった。
「お褒めの言葉をありがとう、シド。それじゃ、もう少し協力してもらおうかしら」
ペンを置いたザンティが、シドと視線を合わせた。
顔の左半分を覆う仮面、それに鋭い右目が合わさって、言いようのない威圧感を帯びている。
嫌な予感がして、シドは思わず顔を下げた。
「え? そりゃつまりどういう……」
次の瞬間だった。
目にも留まらぬ速さで伸ばされたザンティの右手が、シドの頭をがっちりと掴んだ。握り潰されそうなほどの握力で、振りほどくことなどできなかった。
「いっ!? ちょ、姉御! いきなり何を……も、もげる……んがあっ!?」
有無を言わさず、ザンティによってシドの頭部がその胴体から引き剥がされた。




