第112話 ボーンドラゴン
「んむむむむむ……」
チェス盤を見つめながら、彼は唸っていた。
試合開始からはそれなりの時間が経過しており、盤の上には六種類の駒が入り乱れて置かれている。戦況はどう見ても劣勢、キングが取られるのも時間の問題だった。
対戦相手のザンティは、まったく余裕の表情だった。彼女は火が付いたタバコを片手に、大きなあくびをする。口には出さなかったが、『退屈な勝負ね』という言葉が聞こえてきそうなくらいだ。
長考の末に、彼はようやく次の手を決めた。
「よ、よし、ならこれで……!」
ルークを動かす。
ザンティの番となるが、彼女は迷わず、考えもしなかった。細い指先でナイトの駒を掴み、動かした。駒が盤に置かれると同時に、カンという耳障りのよい音が鳴る。
「チェックメイト」
彼女が告げたとおり、それが勝負を決する一手となった。
それで彼のキングは完全に逃げ場を失い、別の駒で攻撃を防ぐこともできなくなってしまった。
「あ、あれっ!? 嘘おっ……!?」
彼は頭を抱え、その場にうずくまってしまう。
ザンティは煙草を咥えて吸い直すと、大きなため息とともに煙を吐き出した。
「いやあ、さすがは姉御、相変わらずお強い……!」
「私が強いんじゃなくて、あなたが弱すぎるのよ。少しは頭を使ってみたら?」
仮面で隠れていない右目を細め、対戦相手を見やる。
「あ、あはは……ご存知のとおり、こういう頭を使うゲームは大の苦手なんでさ。そもそもあっしには脳みそがないもんで……」
聞く分には、嘘としか思えないような話だった。しかしその身体を見れば、彼が言っているのが本当だということは誰にでも分かる。
脳はもちろん、彼には筋肉もない。さらには眼球も皮膚もなく、その身を形作っているのは骨だけだ。
――ボーンドラゴン。
その名のごとく、骨しかないドラゴンだった。角や尻尾に相当する部分があるものの、それを除けばまるで、理科室に置かれている人体の骨格標本が意思を持って動き回っているかのようなドラゴンだ。他のドラゴンを引き合いに出して例えれば、さながら白骨化したリザードマンである。
このボーンドラゴンの名は、『シド』。
ザンティやベルナールと同じ、暗澹の洞窟の出身である彼は、ふたりとは旧知の中だった。洞窟の中ではあったものの、互いに暗い場所には慣れていたので、チェスの試合を行うにあたって不自由はなかった。
「ま、使い心地を試すことはできたし、相手になってくれてありがとね」
煙草を咥えたまま、ザンティはそれぞれの駒を所定の位置へと戻していく。
ポーン、ルーク、ビショップ、ナイト、クイーン、キング。それらの駒はすべて、ザンティが水晶を削って手作りしたものだった。チェス盤も同様で、水晶の削り具合を調節することによって市松模様が施されていた。
暗澹の洞窟に育まれる水晶を用いた彫刻やアクセサリーの製作、それに販売。それがザンティの仕事だった。そして今回はチェスの駒という新しい作品に挑戦しようと思い立ち、サンプルを作って実際にそれを用いて対戦してみた。シドには、その相手役を務めてもらったのだ。
駒の掴み心地や強度、白と黒に相当する色分けの濃淡は申し分なく思えた。
しかしひとつだけ思うところがあり、ザンティはふとクイーンの駒を手に取った。
濃い青と薄い青で色分けしている駒だが、彼女が目に留めたのはふたつのうち、濃い青のクイーン。つまり、黒に相当するほうだ。
仮面に隠れていない右目で、ザンティはじっと駒を見つめる。くるくると手の中で回し、細部まで確認していた。
「姉御、そのクイーンの駒がどうかしたんで?」
シドが問いかけると、ザンティは駒を元の場所に戻した。
「ちょっと、細部の削り方を失敗したわね。まあこれは試作品だからいいけど……本作の時は、気をつけないとね」
「えっ、これで失敗だとおっしゃるんで?」
シドは、ザンティが置いたばかりのクイーンの駒を手に取り、まじまじと見つめた。
ボーンドラゴンである彼も、表情を浮かべることはできる。
「むむむ……あっしには、どこがダメなんだかさっぱり……そりゃもう、お見事なクイーンの駒に見えまさ、そりゃもう、まるで姉御みたいな」
「どういう意味?」
腕組みをしたザンティが問いかけた。咥えている煙草からは、灰色の煙がもくもくと昇り続けている。
シドは、手にしているクイーンの駒……彼の目にはお見事な駒だが、ザンティいわく失敗作のそれを指差しながら、
「クイーンはチェスだと最強の駒でやんしょ? 縦横斜めに広く動いて攻めに行ける……それが何となく、姉御の能力と重なって見えるんでさ」
縦横に広く動かせるルークと、斜めに広く動かせるビショップ。クイーンは、その双方の動きが可能な駒だ。将棋でいう『飛車』と『角』、それら両方の動きを併せ持ち、一番価値が高い駒とされている。クイーンを上手に扱えるかどうかで、ゲームの行方が左右されることもあるらしい。
シドはどうやら、ザンティの能力をクイーンの駒に重ねて例えたようだ。
「なるほど、そういうことね。でも、クイーンばかりを動かして強引に攻め込むのは、チェスにおける悪手だそうだけど」
当然ながら、強力な駒は相手からも標的にされやすい。無暗に使いすぎるとデメリットを生むことにもなりかねないので、他の駒との連携が重要だ。
「あ、あはは……ならあっしは、初っ端から間違いまくってたことになりやすな……」
シドは、試合開始直後からクイーンを動かす手を連発していた。結果序盤にザンティによってクイーンを取られてしまっており、彼女の言うところの『悪手』を犯し続けていたことになるだろう。
手に取っていたクイーンの駒を、シドは盤へと戻した。
そこでふと、ザンティは思い出した。
「そういえばシド、仕事の時間じゃないの?」
「あ、こないだ始めた倉庫の仕事なら、もうクビになりやして……」
骨だけのドラゴンは、笑いながら答えた。表情と言っていることが、まるで噛み合っていない。
「また? これでクビになった仕事はいくつめ?」
「えーと……コンビニ店員に、ピザ屋の配達員に、ビルの清掃員、タクシー運転手、ゴミ収集員、新聞配達員、ガソリンスタンド従業員、水産加工工場、で、今回の倉庫業……九つめでやんすね」
ギリギリ、両手の指で数えられた。
正直なところ……というか正直に言わなくても、かなり多い。
「あっしはちゃんと働いてたのに、こんな見た目をしてるせいでいつもクビを切られてしまうんでやんすよ。ひどいでしょ? うおおおおおーん!」
地面に崩れ落ちて顔を伏せると、シドは嘆きの声を上げた。
実際のところ、彼はどの職場でも真面目に働いていた。他の従業員より早く出勤し、教えてもらったことは一回で覚えるのを心掛け、与えられた以上の仕事を常に求めた。
しかし、見た目が見た目なので客や同僚から『怖すぎる』というクレームが入り、解雇されてしまうのが常だった。最初の頃は理不尽にも感じたが、回数を重ねるごとに『仕方ない』という気持ちが勝るようになった。
ボーンドラゴンには、人間の姿になる能力がない。
だから常に歩く骨格標本さながらの姿でいるしかなく、見た目の怖さは由々しき問題だった。
「はあ……」
ため息をつくと、ザンティはシドの頭部に煙草の火を押し付けた。
ジュッ、と音が鳴る。
「あちいっ!? な、何するんでやすか姉御!」
伏せていたシドが、両手で頭部を押さえながら跳ね起きた。
ザンティはまったく動じない。
「その嘘泣きはもう見飽きた。それに熱いわけがないでしょ? あなたには痛覚もないんだから」
「あっ、バレやした? でも、灰皿代わりは勘弁でさ……」
ケロッとした様子で、シドは答えた。
ザンティの言うとおりだった、ボーンドラゴンは痛覚がないし、泣くこともできない。根本的に、嘘泣きなど不可能だ。
「っと……そうだ。姉御、これを」
思い出したように、シドはどこからともなく一枚の紙を取り出して、ザンティに手渡した。
それは、注文書だった。
「姉御の彫刻、こないだの展覧会でそれなりに売れて……たくさん購入したいって人が申し出てくれたんでさ。おめでとうございやす、姉御の才能が買われてるんでやんすよ!」
弟であるベルナールとは違い、ザンティは面倒な手続きを踏まなければ、地上に降り立つことも許されない。
なので、シドは彼女の彫刻の出展や注文の仲介役も担っていた。
大口の注文が入ったとなれば、喜ばしいことのはずだった。しかしザンティは無言のまま目を細めて、睨むように注文書に視線を釘付けにしていた。
「あ、姉御? あの……どうかしたんで?」
反応がないことを訝しく思ったシドが、問いかけた。
しかしザンティはやはり無言だった。彼女は火が付いた煙草を、片手でぐしゃりと握り潰した。




