第111話 目つきが悪くとも
「ふんふふーん……」
先だって歩いている七瀬の鼻歌が、はっきりと聞こえてきた。
フードコートからの帰り道、ベルナールは彼女とともに夜道を歩いていた。
ドラゴンの姿に変身して、空を飛んで彼女を送ることもできた。しかし七瀬はそれを拒否し、徒歩で帰るよう提案してきたのだ。タコ焼き二十四個入りを平らげた直後(ベルナールと分け合ったので、彼女が全部食べたわけではないのだが)だったし、少しでも身体を動かしたかったらしい。
翔子とのやり取りのあとで、ベルナールは七瀬と合流した。
その時から、彼女はやけに機嫌がいいように見えた。エックスブレインの研修のことで悩んでいたのが、今となっては信じられない。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「えっ、どうかって?」
ポニーテールに結われた茶髪を揺らしながら、スーツ姿の七瀬が振り返る。彼女の頭に、いつも髪留めに使っている赤いリボンが無いのが、ベルナールにはどこか新鮮に感じられた。
その表情は溌溂としていて、気持ちを弾ませているのが手に取るように分かった。
「いや、ちょっとね。翔子先輩と会えたのが嬉しかっただけだよ」
「ああ、そういうことですか」
七瀬にとって、翔子は憧れの先輩だ。
少し会って話せただけでも嬉しくなる、それほどまでに羨望に値する少女で、率直に『好き』と言えるような存在なのだろう。
「ベルが会うのは初めてだと思うけど……どうだった? 翔子先輩、すごく美人で優しそうな人だったでしょう?」
「ええ、そうですね……お嬢様がおっしゃっていたとおりの方でした」
ベルナールは七瀬に同意するが、内心では複雑な気持ちだった。
翔子は酒や煙草に手を出そうとしたし、日頃の鬱憤をベルナールに叩きつけるように怒鳴ってきた。しかも、いかにも柄の悪そうな男達とつるんでいた――その事実は、伏せておくことにした。
彼女の憧れの存在に泥を塗るようなことを、七瀬に伝えられるはずがなかった。
(何事もなければ、いいのですが)
ベルナールは、ショッピングモールのほうを振り返った。
酒や煙草もそうだが、翔子については他にも気掛かりな点があった。キュラスに見張りを頼んでいるが、悪い知らせが来ないことを祈るばかりだ。
「なあなあ、いいだろ姉ちゃん」
どこからともなく聞こえてきた声に、ベルナールは今度はそちらを振り向いた。
薄暗い道路の脇で、何やら男が女性に詰め寄っている。
「こ、困ります……!」
絡まれているのは、二十代前半くらいの若い女性だった。
「えっ、何あれ……もしかしてナンパ?」
表情をしかめつつ、七瀬が言う。どうやら、そのとおりのようだった。
見てみれば、女性は美人でありつつも黒髪で質素な服装に身を包み、自己主張が弱そうな気質の持ち主に見えた。『強引に押せば落とせそう』と当たりをつけ、彼女に狙いを定めたのかもしれない。
彼女の表情を見れば、嫌がっているのは一目瞭然だった。しかし男は、さらにしつこく絡み続けた。
「つれないこと言わないで、ちょっとくらい、ねえねえ?」
「や、やめてください!」
女性が声を張り上げた。
「ちょっと、あんなのいくら何でも……!」
七瀬が歩み出る。歳の差はあれど、同じ女性である以上は黙って見ていられなかったのかもしれない。しかし、七瀬が男と女性のところへ駆けつけることはできなかった。
ベルナールが手を伸ばし、彼女を制したからだ。
とはいえもちろん、ベルナールは『見捨てよう』と言いたかったわけではなかった。
「お任せください」
駆け寄ろうとした七瀬に代わって、ベルナールがナンパの現場に歩み寄った。
「おやめください、嫌がっているのがお分かりになりませんか?」
丁寧でありながらも、有無を言わせないような口調でベルナールは告げた。
男が彼を振り返る。
「ああ? 誰だお前……」
そこまでは、男は強気にベルナールを睨んでいた。
しかし、すぐにその顔が引きつる。
「ひっ……!?」
ベルナールが一歩、前に歩み出た。すると、男は一歩後退する。ベルナールがもう一歩前に歩み出ると、男はもう一歩後退した。
さらにもう一歩ベルナールが前進したところで、
「す、すみません……すみません!」
男は踵を返し、背中を向けて一目散に逃げ出した。ほんの数十秒前までの威勢は、影も形もなくなっていた。
無様に退散した男の姿が見えなくなったのを確認して、ベルナールは絡まれていた女性に歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
「あっ、はい……ひっ!?」
当初、女性は安堵した様子だった。
しかしベルナールの顔を見た瞬間、男と同じように彼女も表情を引きつらせた。
「あ、あ、あ……ありがとうございました!」
矢継ぎ早な様子で礼を言い残し、女性は逃げるように行ってしまった。
男を有無を言わさずに追い払ったのはよかったものの、助けた女性までもがベルナールの顔を見るや否や逃げてしまった。その理由は、考えずとも分かる。
肩を落として、深くため息をつき、
「やれやれだ」
思えば、翔子が煙草とライターを投げ渡した際にも、同じことを言ったものだった。
ぽつりと呟いたベルナールに、七瀬が歩み寄ってきた。
「やっぱり、知らない人からしたら怖いみたいだね。ベルの目つき」
「ええ、そのようですね」
ベルナールの目つきの悪さは折り紙つきで、そこまで深く考えているわけでもないものの、本人にとってもコンプレックスになるほどだった。街を歩いただけで職質されたり、たまたま目が合ったどこぞの小さな女の子に大泣きされたことまである。
今でこそ仲の良い間柄だが、彼がドラゴンステイした直後には、当時幼かった七瀬も大泣きしていたものだった。
「思い返せば、当初はお嬢様にも泣かれたものでしたね」
「あ、あはは……あの頃はごめんごめん。でも、今思い出すと懐かしいね」
もう十年ほども前のことになるが、今となっては良い思い出だ。
目つきの悪さは努力でどうこうできるものではなく、ドラゴンゾンビであるベルナールの宿命だろう。事実、彼の姉のザンティも目つきの悪さには定評があり、仮面や煙草も相まって、龍界の仲間から『悪の組織の女幹部のようだ』と言われたことがあるらしい。
「人もドラゴンも、見かけで判断するのはよくないと思うのですが」
「それはそうだね、今はベルナールがうちに来てくれてよかったって、心から思ってるよ。目つきが悪くたって、ベルは優しくてかっこいい最高のドラゴンだもの。私が保証する」
「ありがとうございます、お嬢様のお墨付きは心強いですね」
ほのかな温かみを含んだ夜風が吹きつけ、七瀬の茶髪を泳がせた。
ドラゴンには数多くの種類が存在する。その能力も外見も多種多様で、ルキアのように美しいドラゴンもいれば、ゴツゴツと厳つい風貌のドラゴンもいる。中でもドラゴンゾンビは、その恐ろしい見た目からドラゴンステイには不人気なドラゴンだった。
とはいえベルナールがそうであるように、決して内面までもが恐ろしいわけではない。
外見に比例するような極悪なドラゴンであるのなら、ドラゴンステイどころか地上に降り立つことすらできなくなる。
「それにほら……『あの時』のことも。本当にありがとね、私が今生きているのも、ベルのお陰だから」
「『あの時』? ああ……あの出来事ですか。いえいえ、どうかお気になさらずに」
多くを語らずとも、七瀬が何に関して言及しているのか、ベルナールには理解できた。
それは、当初は泣くほどベルナールを怖がっていた七瀬が彼と打ち解け、こうして家族といえる間柄にまで絆を深めるきっかけとなった事件だった。




