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第110話 凶変する才媛


「ベルナール……」


 翔子の声が、夜闇に溶け入っていく。

 七瀬から話は聞いていると言っていた以上、名乗らずとも彼女はすでに、ベルナールの名を知っていたかもしれない。とはいえ、それはさほど重要ではなかった。

 本題と言うべきは、ついさっき翔子がやろうとしたことだった。

 

「もし喫煙なんて学校に知れれば……下手をすれば退学。とにかく重い処分は免れないでしょうね」


 ベルナールはゆっくりと、翔子のほうへと歩み出た。

 ドラゴンである彼は、生徒の喫煙を高校側がどのように罰するのかは分からない。分からないが、少なくとも軽い処分では済まないのは知り得ている。厳重注意や停学で済む場合もあるのかもしれないが、厳しい高校では彼が言ったように退学だろう。そうなれば高校生活どころか、将来を棒に振る事態にも発展しかねない。

 健康や成長に大きな影響を及ぼすことから、未成年者の喫煙は法律で禁じられている。酒や煙草は二十歳になってから――それが人間界における常識であるのは、ベルナールも知っていた。

 

「どうして……分かったんですか?」


 視線を外したまま、翔子は問うた。

 もはや、隠そうとも誤魔化そうともしなかった。煙草を吸おうとしているところを見られた以上、もはや言い逃れはできないと思っているのかもしれない。

 薄暗い中でも互いの顔がはっきりと視認できるくらいの距離まで歩み寄り、ベルナールは立ち止まった。 


「火を付けていなくても、煙草は特有のにおいを発していますからね。僕の身近にも煙草が好きな人がいるもので……さっきフードコートで会った瞬間に、あなた様のバッグに煙草が入っていることにはすぐに気づきました」


 ベルナールが言及しているのは、姉であるザンティのことだった。今この瞬間にも、彼女は煙草を咥えながら彫刻の作業に没頭しているのかもしれない。

 人間よりも嗅覚が鋭いことに加え、ドラゴンステイしている彼はより煙草のにおいに敏感になっていた。七瀬や彼女の両親に配慮して、ザンティと会ったあとには、消臭剤で徹底的に煙草のにおいを落とすようにしているほどだ。

 

「学校や親に……言うつもりですか?」


 視線を外したまま、翔子は問いを重ねた。

 フードコートで七瀬に向けていた優しげな笑みは、もう跡形すら残っていない。


「いいえ、そんなことをするつもりはありません」


「じゃあ以後、吸わないように気をつけます。まだ私は、吸ったこともありませんから」


 本当かどうかも分からない弁解をぶっきらぼうな様子で残し、翔子は逃げるように歩を進め、ベルナールの横を通り過ぎた。ベルナールは彼女を振り向かなかったが、亜麻色の髪が揺れるのが見え、かすかに香水のにおいがした。

 足音を聞けば、翔子が足早にこの場を去ろうとしているのが分かった。


「お嬢様は、あなた様のことを誇りにしていらっしゃいました」


 足音が止んだ。

 つまり、翔子が足を止めたのだ。

 ベルナールはゆっくりと振り向く。しかし、翔子は振り向かなかった。立ち止まりはしたものの、彼女はベルナールに背を向けたままだった。

 緩やかな風が吹き、翔子の亜麻色の髪が空を泳ぐのが見えた。


「可愛くて優しくて、勉強も運動もできて、誰にでも好かれる素敵な人……お嬢様はあなた様のことを、そうおっしゃっていましたよ。それはもう、楽しそうに……」


 翔子は何も言わなかった。どんな表情をしているのかさえ、ベルナールには分からなかった。


「事情があるのだと察しますが、どうして煙草なんて……」


 彼女の背中に、ベルナールは問いを重ね続けた。

 翔子の話を聞くたびに、ベルナールは『会ってみたい』と常々感じていた。七瀬がいつも嬉々として話題に上げる憧れの先輩、それがどのような人物なのか、とても興味があったのだ。

 だから、フードコートで会った際に翔子のバッグから煙草のにおいを感じ取った時は非常に気にかかったし、何より残念に感じられた。


「はっ……何よ、それ」


 これまでとは打って変わって、翔子は吐き捨てるように言い放った。敬語でもなければ礼儀も穏やかさもなく、同じ人物が発しているとは信じられない声色だ。

 ベルナールは言葉を続けようとしていたが、否応なく中断させられる。

 翔子がようやく、ベルナールを振り返った。

 

「可愛い? 優しい? 誰にでも好かれる素敵な人? バカじゃないの!? あの子が私をどう思ってたかなんて興味ないけど、私はそんな人間じゃない! 煙草だけじゃなくて酒もやろうとしたし、こんな格好でこんな夜に外に出てるクズなのよ!」


 堰が崩壊したように、翔子は自らの気持ちをベルナールにぶつけてきた。

 大声でまくし立てるその様子からは、長きに渡って鬱屈した思いを押し留めてきたことが察せられた。何が彼女を喫煙という非行に走らせたのか、それは分からない。だが呼吸が荒ぐほどに興奮している翔子を見て、ベルナールはそう感じた。


「もういいでしょう……私がどうしようが、どうなろうが……七瀬にもあんたにも関係ないんだから!」


「お待ちください」


 怒気を隠そうともしない翔子とは対照的に、ベルナールは冷静だった。彼は表情をわずかも崩しておらず、その口調もこれまでと変わらず、穏やかなものだった。

 立ち去ろうとした翔子に、ベルナールは黙ってその右手を差し出した。

 何なのよ、とでも言いたげに、翔子が鋭い眼差しで睨んでくる。しかし、ベルナールはまったく動揺を見せない。


「バッグに入っている煙草とライター、僕がお預かりしましょう」


 翔子は息をのみ、ベルナールから庇うようにバッグを抱え込んだ。

 彼が言うように、あの中にはライターと、ベルナールに止められたために火が付けられなかった煙草が入っているはずだった。


「は? 何でそんなことを……!」


「あなた様には、もう必要ないはずですよね?」


 しかし、翔子は従うどころかバッグを開けようともしない。

 そんな彼女をベルナールは見据え、無言でその右手を差し出し続けていた。

 その時だった。


「おーい、翔子!」


 遠方から男の声が響き、翔子がそれに応じて振り向いた。

 そこにいたのはひとりだけではなく、全部で三人の男達が立っていた。筋骨隆々で体格が良いが、いくつものアクセサリーをその身に光らせた、いかにも柄の悪そうな男達だ。火の付いた煙草を咥えている者や、腕に派手なタトゥーをしている者までいた。

 

「そんなところで何してんだ、早くこっち来いよ!」


「あっ……ちょっと待ってて、すぐ行くから!」


 嬉々とした声色で、翔子は男達に手を振り返した。

 彼女は忌々しそうな声を出しつつバッグを探ると、煙草とライターをベルナール目掛けて放り投げてきた。


「これで文句ないでしょ、もう私に関わらないで!」


 男達に向かって、翔子が走り去っていく。

 ベルナールはもう、彼女を引き留めようとはしなかった。差し出していた右手を下ろし、前に歩み出る。しゃがみ込んで、地面に落ちた煙草の箱とライターを拾い上げる。


「やれやれだ」


 小さく呟くと、その黄色い瞳で翔子を迎えた男達を見つめた。

 すぐに、楽しげな翔子の笑い声が聞こえてきた。どうやら、あの男達は彼女にとって友人と言うべき存在のようだ。

 ベルナールは思わず、目を細めた。


(僕の取り越し苦労であれば、良いのですが)


 回収した煙草とライターをポケットにしまって、ベルナールは立ち上がった。

 七瀬を待たせているので、そろそろ彼女のところに向かわなければならなかった。しかし、ショッピングモールに戻る前に、


「キュラス」


 男達とともに去っていく翔子を見つめながら、ベルナールは呼んだ。

 キュラス――彼の相棒である龍界コウモリが、夜空を背にどこからともなく飛んできた。そして、近くに植えられた大きな木の枝に逆さまにぶら下がる。


「少しのあいだ、彼女を見ていてください。もし何かあれば、すぐに知らせるようにお願いします」


 キュラスは答えなかった。答えなかったが、高度な知能を有する龍界生物である彼は、ベルナールの言葉を理解していた。

 木の枝にぶら下がったまま、マントのような翼でその身を覆い、キュラスはベルナールと同じように翔子や、彼女と一緒にいる男達を見つめた。






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― 新着の感想 ―
七瀬をはじめ、周囲からは羨まれるような存在のはずの翔子ですが、素行や友人関係は心配ですね。それが本来の彼女なのか、何かあってそうなっているのか、とても気になります。 ベルナールの観察力や嗅覚はさすが…
ホントやれやれでしょう、ベルちゃん? 周りからのプレッシャーとか、自分はそんな人間じゃないんだ的な感情のせいで人間は時に空回りな人生を歩む事があるのさ。 そしてそれは、しいて言えば大半は周りのせいで…
 普通に考えれば、よろしくない方向にツッパってるだけなんでしょうけど……しかし人間のフリしたドラゴンが普通にいるこの世界ですから、ロクでもない状況がさらにめんどくさいことになりそうな予感しかしませんな…
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