第109話 仮面の笑顔
「偶然ですね……!」
思いがけず翔子と顔を合わせた七瀬は、嬉々とした面持ちだった。
それもそのはず、七瀬にとって翔子はテニス部入部当初から世話になっていた先輩であり、まるで友人のような間柄だった。
美人で聡明で優しく、才媛や才色兼備という言葉を体現したかのような女子高生。七瀬のみならず、きっと翔子を知る誰もが憧れる存在だが、七瀬は思わず表情に曇りを浮かべてしまった。
今日、七瀬はエックスブレイン研修のために部活動を早退させてもらった。その直前に起きたという翔子が起こした諍いや、異様な高まりを帯びた彼女のあの声を、思い出してしまったのだ。
「あ……」
何も言えなくなってしまう。
七瀬は諍いの現場に居合わせていなく、翔子がペアを組んだ同級生を詰る様子を見たわけではない。しかし三年生達の話から、それが事実であることは間違いなさそうだった。
この人が、そんな――そう思っていた時だった。
「偶然だね、今日はエックスブレインの研修だったんでしょう? その帰り?」
七瀬を今の格好を見て、翔子は言った。
着替えていなかった七瀬はスーツ姿のままだったし、翔子にはテニス部を早退する理由も伝えてある。だから説明などせずとも、七瀬が研修帰りだということは察したようだ。
翔子の声色はいつもどおり穏やかで優しげで、大人の女性のように落ち着いた雰囲気が内包されていた。とてもじゃないが、学校で聞いたあの怒鳴り声の主だとは思えないほどだった。
「あっ……そうです、緊張しすぎてお腹すいちゃって、ちょっとタコ焼きを食べに……」
「そうだったんだ、お疲れ様」
不意の遭遇で、七瀬はどこかぎこちない受け答えになってしまっていた。
それに対し、翔子はまったく動じている様子もない。今の彼女は、これまで七瀬が見てきた憧れの先輩そのものであるように思えた。
きっと、ただ理由もなく他の先輩達を詰ったわけじゃない。今日はたまたま、よほど機嫌が悪かったとか……そういうことなんだ。やっぱり翔子先輩は、翔子先輩なんだ。
この場で少し言葉を交わして、七瀬はそう思った。そう思っておくことにした。
「また金ダコ大将のタコ焼き? 本当に好きだね。もしかして二十四個入りなの? 太るよ」
「あ、あはは……でも、私だけで食べてるわけじゃないですから」
七瀬は、ベルナールのほうに視線を向けた。
彼はすでに椅子から立ち上がり、翔子のほうを向いていた。
「お初にお目にかかります」
うやうやしく頭を下げて、ベルナールが翔子に挨拶をした。
「あっ……もしかしてあなたが? 七瀬からお話は聞いてるわ、はじめまして」
七瀬はしばしば、翔子との会話でベルナールのことを話題に上げていた。
名前こそ聞き及んでいたが、ふたりが直接顔を合わせるのはこれが初めてだった。翔子は、ベルナールがドラゴンゾンビだということも知っているはずだった。目つきこそ悪いものの、端正な顔立ちをした執事服姿の少年を見て、意外に感じているのかもしれない。
そこでふと、七瀬は翔子の出で立ちに目を留めた。
亜麻色の長い髪を下ろしているのはいつもどおりだった。
しかし今の翔子は私服姿で、七瀬が見たことのない格好をしていた。白いデザインブラウスに膝上までの丈の茶色いスカート……ハンドバッグも合わさって、いかにも大人っぽくて洒落た出で立ちだ。
「あの、翔子先輩はどうしたんですか? 可愛い服ですね」
「あ、そう? ありがとう」
翔子は照れたように視線を逸らし、さらりと髪をかき上げた。
思い返せば、七瀬が見てきた翔子はいつも制服か、テニスウェア姿のみだった。お洒落服を褒められたことが、率直に嬉しかったようだった。
「ちょっとこのあと、近くで友達と会う約束をしてるんだ」
「えっ、今から……ですか?」
時刻はすでに六時を回っていた。
これから遊びに行くには遅い時間であるような気がして、七瀬は思わず問い返した。
「まあ、少し会うだけだから。用事はすぐ済む予定だしね」
翔子の様子はどことなくはぐらかすような、誤魔化しているように七瀬には感じられた。
しかし、深入りしようとは思わなかった。用件をしつこく訊かれては迷惑だろうし、先輩に対して失礼だと思ったのだ。
「それじゃ、そろそろ時間だから……七瀬、また明日ね」
「あっ……はい、翔子先輩」
七瀬に別れを告げると、翔子は踵を返して歩き去って行った。
亜麻色の髪を揺らしつつ遠ざかっていく彼女の背中を見て、七瀬は安堵した。
(安心した……いつもの翔子先輩だ)
短いやり取りだったが、不機嫌な様子や違和感はまったく感じなかった。
安堵した七瀬は、憧れの先輩と思いがけず会えたことも嬉しくなって笑みを浮かべた。そろそろ自分達も帰ろうと、ベルナールを振り返る。
「ベル、私達も行こうか。帰る前に、ちょっと本屋さんに寄ってもいいかな?」
好きな漫画の新刊が発売していたので、買って帰りたかったのだ。
しかし、七瀬の問いに返答はなかった。
ベルナールは食い入るように、どこかを見つめていた。彼の視線が、翔子が歩き去っていったほうに向けられているように七瀬には思えた。
彼の横顔が、どことなく険しさを帯びていた。元より目つきが悪い(ベルナール自身にもコンプレックスになっており、気にしているほどだ)こともあるのだが、それだけが理由ではないように七瀬には思えた。
「ベル、どうかしたの?」
「すみませんお嬢様、少し所用ができました。ご用は、おひとりで済ませてきていただけますか?」
再度問いかけると、ベルナールはやっと応じた。
しかしやはり、彼は視線を翔子が去ったほうに向けたまま、七瀬を向くことはなかった。
◇ ◇ ◇
後輩と出くわしたことは予想外だった。しかし、そこまで大きな問題でもない。
フードコートから去ったあとで、翔子はそのままショッピングモール裏口から外に出た。そこはメインの出入り口ではなく、店の裏手に通じており、出るとすぐに小さな駐輪場があった。大きな駐車場に面している正門とは違い、この時間は人気が少なく、経費削減のために電灯も半分ほどが落とされていたので、薄暗かった。
路肩の植え込みから聞こえてくる虫の声や、自動販売機の駆動音が低く鳴るこの場所で、翔子は黙々と歩を進めていった。そして彼女は、店と立体駐車場のあいだに位置する小さな休憩場所にやってきた。
申し分程度にベンチが置いてあるが、とても人目に付きにくい場所だった。
「あーあ……」
ベンチには座らず、壁に背中を預けて夜空を仰ぎながら、翔子は気怠く声を発した。
不満や鬱憤を、そのまま噴出するような声だった。彼女の表情からは、七瀬と話した時の笑みや穏やかさは完全に消え失せていた。
まるで、世の中の何もかもを蔑んでいるかのような、翔子の面持ち。
さっきは七瀬と会ったことで、慌てて笑顔の仮面を被り直さなくてはならなくなった。だが、今はもうその必要もない。
生温さを帯びた夏の風が、彼女の亜麻色の髪を泳がせた。
「っ……!」
自然現象すら、今は腹立たしく感じられた。
髪を押さえながら、風が吹いてきた方向を睨む。そこには、誰の姿もなかった。
「本当、嫌になる……」
今一度周囲を見渡して、再度人気がないことを確認する。
バッグを探り、翔子は中に入っていた『それ』を取り出した。
絵に描いたような『品行方正』で知れ渡っている彼女には不似合いな――いや、たとえそうでなかろうとも、高校生が決して持っていてはいけない物だ。
翔子の白い手に握られていたのは、煙草の箱だった。
封は開いていたが、まだ吸っておらず、ニ十本すべてが残っていた。その中から一本を取り出し、翔子は落ち着きのない様子で口に咥えた。
そこまでは、翔子は一切ためらわなかった。
しかしライターを着火して、その炎を煙草の先に近づけていく最中、彼女は高鳴る心臓の鼓動に襲われた。
「ふっ、ふう……!」
この炎が煙草の先に触れた瞬間、後戻りはできなくなる――。
その時だった。
「煙草は、まずいのではありませんか?」
突如、うしろから声を掛けられた。
ライターを消し、翔子は慌てて煙草を口から外した。まだ、煙草は燃えていない。
「あなたは、さっきの……」
いまだに高鳴っている鼓動をどうにか押さえながら、翔子は絞り出すように発した。
いつの間にそこに立っていたのだろう。煙草を吸おうとする彼女を制したのは、さっき七瀬と一緒にいた、あの執事服姿のドラゴンゾンビの少年だった。
汗ばんだ手の中に、翔子は慌てて煙草とライターを隠した。そんな行動は無意味だと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
明かりが少ないこの場で、彼の黄色い瞳がほのかに光を放ち、闇に浮かび上がっているように見えた。
自分が唾を飲み下す音が、両耳に響き渡るのを翔子は感じた。
「改めまして……雪村七瀬お嬢様にお仕えしております、ベルナールと申します」




