第108話 金ダコ大将のタコ焼き
「はああ、疲れた……!」
ショッピングモールのフードコートの椅子に座り、七瀬は頬杖をついてため息をついた。
研修生として、七瀬は橙吾とエックスブレインの役員達の会議に最後まで同席した。その後は工場に案内され、作業用安全ヘルメットを被って作業現場の視察もした。
父はまだ用があったらしく、まだエックスブレインに残っている。しかし七瀬は一足先に帰され、そのままフードコートに立ち寄ったというわけだ。
緊張がほぐれると、急に空腹感が込み上げた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
七瀬と向かい合う席に座ったベルナールは、手にしていたワンタッチコールをテーブルに置いた。
彼は七瀬をこのショッピングモールまで送り届け、さらに彼女に代わってタコ焼き屋の注文を取ってきてくれたのだ。
フードコートのそばには、いくつもの飲食店が出店していた。ラーメン屋にステーキ屋に寿司屋、唐揚げや焼き鳥を販売している総菜屋、それにハンバーガー屋に蕎麦屋、甘いものであればドーナツ屋にクレープ屋にシュークリーム屋。その中でも、七瀬は『金ダコ大将』というタコ焼きチェーン店のタコ焼きが好きだった。
規模の大きなテニス大会などのあとには、よくこの場に足を運んで食べたものだった。
「ありがとうベル」
時刻は六時過ぎで、平日ということもあって周囲に人はまばらだった。
七瀬は着替えておらず、リクルートスーツ姿のままだった。傍から見れば、女子高生じゃなくて仕事帰りのOLに見えているのかな。先にベルナールが持ってきてくれた水入りのコップを口に付けつつ、七瀬はぼんやりとそんなことを考えた。
「それにしても、二十四個入りはさすがに多くないですか? 食べすぎると太っちゃいますよ」
「大丈夫だよ。食べたらその分、テニス部で体を使えばいいだけだし……私ひとりで食べるんじゃなくて、ベルにも奢るからさ」
エックスブレイン本社にいるあいだは、ずっと緊張しっぱなしだった。
いつもに増して、空腹が一段と強いように感じられた。二十四個入りはもちろんボリュームも多く、値段も二千円ほどとそれなりに張ったが、今なら平らげられる気がしていた。ちなみに三十六個入り以上もあるが、そこからはテイクアウト専用らしい。
言ったように、いざという時にはベルナールの手も借りればいいだけのことだ。
ベルナールは微笑みながら、頷いた。
目つきこそ悪いものの、笑みを浮かべた時の彼の表情は穏やかで優しく、ドラゴンゾンビだということを忘れそうになってしまう。
「ありがとうございます、それでは今日はご馳走になります。それでお嬢様、研修はどうでしたか?」
「研修? うーん……」
七瀬はポケットからメモ帳を取り出して、パラパラとページを捲った。
父とエックスブレイン役員の会話から、気になった言葉を抜き出してメモしてある。走り書きのような形になったので、いつもの彼女からすれば少し字は汚かった。それでも、何と書いてあるかは十分に読み取れた。
とにかくたくさんメモしようと心掛けたので、埋まったページは何ページにも渡っていた。
しかし正直なところ、専門用語や業界用語が多すぎて、社長令嬢の七瀬でも意味を理解できないことだらけだった。今一度メモを見直してみても、それは変わらない。
「正直……私には難しくて、よく分からなかったかな」
父の経営する会社が金属加工を主力事業としていることは、もちろん七瀬も知っている。その影響から、七瀬も金属に関しては多少の知識があった。以前はそれを活かして、南京錠を破壊して智達を救おうとしたこともあった。
とはいえ、彼女の知識は専門的な部分まではさすがに及ばない。
父と役員達の話の中で飛び交った、いくつもの専門用語や業界用語。そのほとんどの意味を理解できないことに多少の焦りと、劣等感に近いものを感じていた。いつもは普通の女子高生として過ごし、当然事業に関わっているわけでもない七瀬ならば当たり前だろうが、どことなく勉強不足であるように思えたのだ。
自分が父の会社を継ぐことになるのかどうか、それはもちろん今は分からない。
しかし、もしも継ぐことになったとして……自分はやっていけるのだろうか? あの会議室での会話を、戸惑った表情を浮かべて聞いていた自分を見て、父や役員達はどう思ったのだろうか。無知で頼りなくて、とても橙吾の跡継ぎなど務まるような娘ではない、ただの少女と思ったのではないだろうか?
もちろん、七瀬が気に病むことではないのは明白だった。
しかし根が真面目な七瀬は、そう考えずにはいられなかった。
「大丈夫ですよ。お嬢様はまだ高校一年生。将来について真剣に考えることが必要な時期に至るまでには、もう少し時間があります」
自分の心境を察したようなベルナールの言葉に、七瀬は顔を上げた。
「あまり根詰めずに、まずは今のお嬢様ができることからなさってみては?」
ベルナールの言葉に、七瀬は胸に渦巻いていた暗雲が晴れていくような気分になった。
進路や将来について考えることは、たしかに大切だ。しかし彼の言うとおり、深刻に思い悩むほどに考え込むのは、やはり時期尚早な気がした。
今の自分にできること……七瀬はそれが何かを考えて、すぐに答えを見出した。
とにかく今は、これまでと同じように学業と部活を両立させていくことのような気がした。
勉強を疎かにしていてはそもそも進学も就職もできないだろうし、何より高校生活の思い出は今しか作れない。どのようにすごそうが、高校生活は一生に一度しか訪れない。
「そうだね……そうする。ありがとう、ベル」
会話が一区切りついたのを見計らったように、ワンタッチコールが通知音を鳴らし、緑色のLEDランプを点滅させた。ベルナールが注文してくれた二十四個入りタコ焼きが、用意できたということだ。
ベルナールがワンタッチコールを手に取ろうとするが、七瀬はそれを制した。
「いいよベル、私が受け取ってくる」
タコ焼きの注文をベルナールに取ってもらったうえに、受け取りまで彼に任せるのは申し訳ない。
そう感じた七瀬は、ワンタッチコールを手に取って椅子から腰を上げた。消音ボタンを押して通知音を止め、店までそれを持っていく。
七瀬を待っていたのは、見知った少女だった。
「お待ちどうさん。タコ焼き二十四個入りやな、はい!」
七瀬がこのタコ焼き屋を利用するたびに、毎回と言っていいほど顔を合わせる彼女。
店のロゴが入った帽子を被っているが、ピンク色の短い髪をしているのが分かる。その声は溌溂としていて、いかにも活発な性格の持ち主であることが伺い知れた。
差し出されたポリ袋を、七瀬は「ありがとう」と一言添えて受け取った。
「毎度おおきに、今日はお腹空いてたんか? 自分、いつもは十二個入りやったよな」
彼女が喋るたびに、その八重歯が覗き見えた。
威勢のいい関西弁も印象に残りやすかったが、何より目を引きそうなのは彼女の目だ。
それもそのはず、タコ焼き屋の店員であるこの少女の両目は、なんと左右で色が違ったのだ。右目が黄色くて、左目は水色。とりとめのない会話の流れで尋ねてみたことがあるが、カラーコンタクトなどは入れておらず、彼女の目は正真正銘のオッドアイらしい。
彼女は、ドラゴンなのだろう。訊いてみたことはないけれど、七瀬はなんとなくそれを察していた。
「そうそう、覚えててくれたの?」
七瀬が問い返すと、少女は頷いた。
「もちろんや。常連さんのことを覚えておくのは、商売の基本やからな」
ピンクの髪に関西弁、それにオッドアイ。
特徴的な要素を多く合わせ持つ彼女は、七瀬が手に提げているビニール袋を指差した。
「今日もタコ焼きは最高の出来栄えになったさかい、ゆっくり味わってや」
「うん、ありがとう。いただきます!」
その後、七瀬は席に戻って段ボール製の箱を開けた。湯気を上げているタコ焼きにソースとマヨネーズを垂らし、爪楊枝を手に取って食べ始める。
受け取る時に彼女が言っていたとおり、外はカリッとしていて中はトロリとしていて、入っているタコはプリプリで、本当に美味しかった。いつも以上に空腹感が強かったこともあって、さらに食欲をそそられた。
空腹こそ最高のスパイス、どこかでそんなフレーズを聞いたことがあったような気がしたが、まったくもってそのとおりだと思った。
二十四個入りはそれなりのボリュームがあったが、ベルナールも手伝ってくれていたので、残数はどんどん減っていく。
「やっぱり美味しいよね、金ダコ大将のタコ焼き。今度智とか、ルキアさんも誘ってみようと思うんだ」
「いいかもしれませんね。智君達もきっと、気に入ると思いますよ」
そんなとりとめのない会話を挟みつつ、ふたりはゆっくりと、しかし着実に食べ進めていく。
そして、タコ焼きの残りが片手の指で数えられるくらいの個数になった時だった。
「あれ、七瀬?」
その声に、七瀬は食べる手を止めて振り向いた。
声の主に気づいた七瀬は、思わず爪楊枝を置いて立ち上がった。
「しょ、翔子先輩……?」
そこにいたのは、見崎翔子。
七瀬のテニス部の先輩である、三年生だった。




