第107話 研修
都心部のビル群の中に、周囲と比較しても段違いに高く、大きく、そして目立つビルがあった。
頂上部には『X』を模した手の込んだオブジェが据え付けられ、抜きん出た存在感を増幅させるのに一役も二役も買っている。その全体を視界に収めるだけでも一苦労なほどの、超高層建築物だ。
――エックスブレイン本社ビル。
人とドラゴンを結ぶ企業として、昨今では様々な分野において同社の製品を普及させ、その名を知らない者を探すことが困難なほどの超巨大企業。このビルは、まさにその本拠地だ。
ドラゴンが身に着ける初心者標識ゼッケンや、騎乗に適さないドラゴンに人が乗る際に使用する補助器具。他にはドラゴンの炎でも燃やせない不燃塗料や、ドラゴンの力でも破壊が困難な建材。さらにはドラゴンの能力を活かした医療の提唱など、エックスブレインの事業範囲は非常に手広く、そして多岐に渡っている。
ドラゴンステイという制度が広まる今の世の中においては、まさに破格といえる売り上げ規模と、市場のみならず、経済界や政界においても計り知れない影響力を誇る企業。当然ながら世の中の人々と同じように、七瀬だってエックスブレインのことは知っている。いつ知ったのかなど思い出せないほどに、ずっと前から知り得ている。
そして今日――七瀬は初めて、そのビルの敷地内へと足を踏み入れていた。
(緊張するなあ……)
エックスブレイン本社ビルを見上げる七瀬は、思わず気圧されていた。
茶髪をポニーテールに結んでいる髪型は普段と同じだったが、今はいつもの赤いリボンではなく、黒いヘアゴムを使用していた。顔には目立たない程度に、薄く化粧を施していた。
さらに七瀬は生まれて初めてリクルートスーツに身を包み、タイトスカートに黒のパンプスという出で立ちだった。彼女が歩を進めるたびにパンプスの踵が地面を打ち、硬い音を鳴らした。
この格好は思った以上に窮屈で、どことなく暑苦しかった。しかし七瀬には、そんなことを忘れてしまうほど、これから立ち入ろうとしている目の前のビルの存在感が大きく思えた。
七瀬はハンカチを取り出して、額にじわりと浮かんだ汗を拭き取った。
「七瀬、顔色が優れないように見えるが……大丈夫か?」
目の前を歩いていた七瀬の父――『雪村橙吾』が足を止めて振り返り、娘を気遣う。
「大丈夫だよお父さん、ちょっと暑いだけだから……」
ハンカチをポケットにしまいつつ、七瀬は答えた。暑さというより、緊張感で汗が滲んでしまっていたのだが、それを表には出さない。
実際のところ、彼女のスーツの着こなしは非常に格好が付いていて、様になっていた。彼女はまだ十五歳の高校一年生だが、今の様相は利発で有能なキャリアウーマンというかんじだった。
ビルに向かっていく者、ビルから出ていく者。ベンチや庭園がある敷地内には、エックスブレインに勤めているであろう多くのOLが行き交っている。七瀬もその中のひとりと言われれば、まったく違和感がないくらいだった。
(そう、結局は気持ち次第だよね……)
七瀬は今日、エックスブレインに出向いて役員達と顔合わせをし、視察を兼ねた軽い研修を行うことになっていた。部活動を早退したのも、普段とは違ってリボンではなくヘアゴムで髪を結び、リクルートスーツに身を包んでいるのもそのためだ。
髪をかき上げた七瀬に、橙吾が歩み寄ってくる。
「心配するな、別にお前が『雪村金属』を継ぐことは確定事項じゃない。何か別の道を望むなら、そちらに進んでもいい。今日はあくまで、お前の選択肢のひとつを見に行くだけだ」
橙吾は七瀬の実父であり、エックスブレインとも取引がある金属工業の大手、『雪村金属株式会社』の社長、最高経営責任者だった。彼の娘である七瀬は、つまり社長令嬢なのだ。
とはいえ橙吾が言ったように、七瀬が将来彼の後を継ぐことが決まっているわけではない。それは七瀬にとって、将来の道のひとつであるだけだ。
誘ってきたのは橙吾だが、視察に出る決断をしたのは七瀬だ。偉大な経営者たる父の血を引いているとはいえ、大きな会社を継ぐだけの技量が自分にあるのかは不安だった。主力事業たる金属加工について、そこまで知識があるわけでもなかった。
それでも、将来のことを考えておくのは損にはならない気がしたし、父がどのような仕事で多大な利益を上げ、自分をここまで育ててくれていたのかには、七瀬は以前から興味があったのだ。
「うん、ありがとう」
十五歳の今なら、将来について考える時間には少し余裕がある。せっかくの機会だし、お父さんについて行って勉強させてもらおう。根が真面目な七瀬は、そう結論を出したのだ。
「それじゃ、行くか」
娘にそう促す橙吾は、歳にして四十前半だった。
しかし七瀬にはそれ以上に父が若く見えたし、周りから見てもそれは同じらしかった。一週間ほど前、七瀬は橙吾と一緒に買い物に行ったのだが、そこで偶然同級生の女子と遭遇した。
その同級生は橙吾を見て、『こちらの方はお友達? お兄さん?』と言ったのだ。友達でもなく兄でもなく、彼が自分の父であることを教えた時には、彼女はとても驚いていた。
有能な経営者で、さらに若々しい父は、七瀬にとって誇れる存在だった。
「うん」
七瀬が頷くと、橙吾は再びエックスブレイン本社ビルに向かって歩き出す。
そんな父の背中を、七瀬は追うのであった。
◇ ◇ ◇
「雪村七瀬と申します、いつもお世話になっております……!」
受付に行ったあとで、七瀬と橙吾はエックスブレイン本社の応接室に通された。
ふたりを出迎えたのは、エックスブレインの役員達だった。三人とも男性で、橙吾以上に歳を重ねているのが見て取れる。
名刺を差し出された七瀬は、おずおずとしながら受け取った。そして彼女は引き換えに、事前に橙吾が用意してくれた自分の名刺を革製の名刺入れから取り出し、差し出した。
そこには、『雪村金属・研修生 雪村七瀬』と記されていた。
「美しいお嬢様ですね社長、それにとても賢そうで」
名刺を受け取った役員が、名刺と七瀬の顔を交互に見たあとで言った。
一応は褒め言葉ではあったものの、緊張から素直に嬉しいとは思えず、七瀬はただ苦笑いしながらぺこりと頭を下げた。
「恐れ入ります」
何も言えなくなっていた七瀬の隣で、橙吾が応じた。
最初に挨拶した時も、七瀬はどことなくぎこちない様子になってしまっていた。応接室の中にいる者達の中でも、彼女は跳び抜けて若い。まだたったの十五歳であることに加え、サラリーマンの世界に足を踏み入れるのさえ、七瀬は今日が初めてなのだ。
緊張するなと言うほうが、無理な話だろう。
「ではおふたりとも、こちらへどうぞ」
続いて橙吾と七瀬は、応接室からすぐ近くにある会議室に通された。
役員達に促されて、席に着いた。七瀬が座ったのはもちろん、橙吾の隣だった。
「お嬢さん、お父様と少し仕事の話をさせていただきますので……気を楽にして、座っていてくださいね」
七瀬を気遣い、役員のひとりがそう促してくれた。
「あっ、お気遣いありがとうございます……!」
とは言われたものの、ただ座っているわけにもいかない。
もしかしたら、あとで何か質問でも促されるかもしれないと思った。七瀬はポケットから、メモ帳と筆記用具を取り出した。学校ではいつもシャープペンシルを使っているが、今日彼女が握っているのはボールペンだ。
役員達と橙吾の話は、専門用語や業界用語が飛び交う難解なものだった。社長令嬢とはいえ、普段は普通の女子高生として生活している七瀬には、その内容をほとんど理解できなかった。
それでも彼女は背筋を伸ばし、会話に懸命に耳を傾けてメモ帳にボールペンを走らせ続けた。
◇ ◇ ◇
「はあ、神経使うな……」
会議の合間に、役員達は休憩時間を設けてくれた。
化粧室の手洗い場で、七瀬は鏡に映った自分の顔を見ながら呟いた。
会議では今のところ、質問を促されることもない。とはいえ、エックスブレインの役員が三人もいる場に座っているのは緊張するし、やはり疲れるものだった。
それでも、会議はもう少しで終了時刻を迎える予定だった。
あともう少し、頑張ろう。そう気を改めた七瀬が、化粧室から出た直後だった。
――左側から足早に歩いてきた男と、衝突してしまった。
「きゃっ!」
「っ!」
七瀬は声を出してしまったが、男のほうは息をのむだけに留まった。
スーツ姿で背の高い、中肉な体格の男。暗い青色の髪が、不規則に波打っていた。
もちろん、七瀬には彼が何者なのかは分からなかった。しかし胸のバッジから見て、エックスブレインの社員であるということは間違いない。彼は紙束を手にしており、そのうちの数枚が、七瀬との衝突の際に取り落され、バサリと音を立てて床に散乱した。
慌てた七瀬はしゃがみ込み、その資料を拾い集めた。
「す、すみません!」
男は何も言わなかった。言わなかったが、忌々しそうな目つきを七瀬に向けてきた。
感じが悪いとは思ったものの、ぶつかってしまった自分が悪いと結論付け、とにかく七瀬は手早く資料を拾い集めた。
――その時、資料の一枚に記された『PROJECT ZERO』という文字が目に留まった。
(プロジェクト……ゼロ?)
それ以上、書かれた内容を読み取ることはできなかった。
男が七瀬の手からひったくるように資料を奪い、床に散乱した他の資料も矢継ぎ早な様子でかき集めて立ち上がった。そしてまた七瀬を睨むと、無言のまま足早に立ち去っていった。
「あっ……!」
七瀬は何も言えず、立ち去っていく男の背中を見ていることしかできなかった。




