第106話 翔子
「やあっ!」
勇ましい声とともに、七瀬はラケットでボールを打つ。
ネットを挟んで向こうにいる対戦相手がどこに打ち返してくるか、瞬時に読み取って先回りし、また打ち返す。最初から最後まで走りっぱなしと言って間違いはなく、息は上がって心臓は破裂しそうなほどに鼓動を速めていたが、足を止める暇はない。一瞬でも気を抜こうものなら、それは敗北に直結するからだ。
七瀬は学校指定のテニスウェアにサンバイザー、左手首にはリストバンドを着用していた。彼女がボールを追うたびにポニーテールに結ばれた茶髪が舞い、夏の日差しがそれを輝かせていた。
勝負を譲る気など一片もなかったが、それは相手も同じだった。
七瀬とボールを打ち合っているのは高森渚、七瀬より二つ上の三年生であり、テニス部の先輩にあたる少女だった。彼女は毎日一時間かけて自転車通学しているうえに、テニス部のみならず水泳部を掛け持ちしていた。
渚の運動神経やスタミナはかなりのレベルだったが、七瀬は決して引けを取ってはいない。
歳、体力、経験。そのすべてが上回る渚と、七瀬は互角以上に渡り合い――そして、決定的なチャンスを見出した。
渚が打ち返したボールがワンバウンドし、七瀬の背よりも高く浮き上がった。それは、スマッシュを繰り出すには絶好のボールだったのだ。
(ここだ!)
もちろん、七瀬はチャンスを逃さなかった。
彼女が放った渾身のスマッシュはネットを越え、一瞬と呼べる時のうちに渚の陣地へと放たれた。
渚は反応できなかったわけではない。彼女はそれを打ち返そうと駆け寄ったが、間に合わなかった。ボールは渚が振り出したラケットのわずか数センチ先を通過し、ベースラインすぐ近くをバウンドした。そして直後にガシャンと音を立てて、フェンスに叩き付けられた。
渚は転がったボールを見つめたあとで、七瀬を振り返った。
「お見事だ七瀬、僕の負けだよ」
渚は女子生徒だったが、一人称には『僕』を用いるのが常だった。
ゲームセットだった。ラケットを下ろして歩み寄ってくる渚に、七瀬もまた歩み寄った。
全力を尽くして勝負を繰り広げたふたりの少女は、ネット越しに互いの右手を取り合った。
「ありがとうございました、渚先輩……」
リストバンドで額の汗を拭いつつ、七瀬は礼をする。
その後ふたりはコートから立ち去り、グラウンドの石階段に腰掛けた。互いにサンバイザーを外し、首にタオルを掛けて一緒にスポーツドリンクを飲み合う。夏の時季の部活動では、水分だけでなく塩分補給も大事だった。
七瀬と渚が試合を行ったコートには他の生徒達が入り、彼女達と同じようにボールを打ち合っていた。
それだけではなく、グラウンドにはサッカー部や野球部の生徒達が集まり、各々部活動に精を出していた。威勢のいい掛け声が響き渡る中、七瀬と渚は今の勝負の反省をしていた。
「決定的なチャンスを与えちゃったのが、僕の敗因だったね」
スポーツドリンクの入ったステンレスボトルを手に、渚は振り返る。
彼女にとって不覚だったのは、ボールを打ちそびれて狙いを外し、七瀬の目の前で大きくバウンドする返球をしてしまったことだった。渚の言うとおり、それは七瀬にとってスマッシュを打つ大きなチャンスとなり、結果を見れば利敵行為になったと言えるだろう。
とはいえ、炎天下の中で数分に渡って試合を行い、体力も集中力も大きく消費した状態でのことだ。断じて責められるようなミスではない、と七瀬には思えた。
「そんな、もう少し試合が続いていれば、きっと私が負けていたと思いますから……!」
渚と同様にスポーツドリンクを飲みつつ、七瀬は答える。
三年生に勝ったからといって、決して慢心してはいなかった。自分の実力を鼻に掛けるような真似をするのはみっともない、七瀬はいつでも、そう謙虚に構えていた。
飲み過ぎては、今後の練習に差し支える。
そう思った七瀬が、スポーツドリングの入ったボトルをその場に置こうとした時だった。
「だったらもう知らないわ、あんた達で勝手にやればいいじゃない!」
異様な高まりを帯びた女生徒の声に、思わず振り返った。
(えっ、今の声って……!?)
七瀬は疑問を抱いた。
今の声の主が誰なのかは分かったけれど、決して聞き慣れた声ではなかったからだ。
「何だかちょっと、尋常じゃない様子だね……」
渚はボトルを置いて立ち上がり、グラウンドの一角に集まった女子生徒達のほうへと駆け寄った。七瀬も思わず、その背中を追って走った。
彼女達は全員がテニス部の部員で、その視線の先にはグラウンドから去っていくひとりの少女の背中が見えた。顔は見えないけれど、誰なのかはすぐに分かった。分からないはずがなかった。
(翔子先輩……!?)
亜麻色の長い髪、後ろ姿を見ても分かるスタイルの良さ――七瀬のみならず、恐らくは皆が憧れる存在だった。
見崎翔子。テニス部の部長でもある彼女は、いかにも苛立った様子で、足早にグラウンドを去っていった。
事情など何も分からないが、七瀬はとにかく彼女を追おうとする。しかし周囲の女子生徒達のやり取りに、思わず引き留められた。
「ったく、感じ悪いわよね……最近変じゃない? あの子……」
「うん、怒りっぽくなったていうか……まるで別人になったみたい……」
そこにいた女子生徒達は、皆テニス部の部員だった。
全員が不機嫌な表情を浮かべ、ある者は腕組みまでして、翔子が歩き去った方向を見つめていた。
「あの、どうしたんですか? 翔子先輩……」
恐る恐る、七瀬は彼女達に尋ねた。
そこにいたのは全員が三年生で、渚や翔子と同学年の女子生徒達。つまり七瀬にとっては先輩だった。
七瀬からもっとも近い位置にいた女子生徒が、口を開いた。
「ダブルスの練習をしてたんだけどさ、翔子がペアになった瞳のミスを口汚く責めたんだよ。試合が終わったあとにも、しつこくさ……」
「えっ、翔子先輩が……?」
七瀬は思わず耳を疑った。
しかし、翔子に責められたという女子生徒――瞳の様子を見て、それが嘘ではないことを知る。
「たしかに私はミスをしたけど、だからってあんな言い方しなくても……大体あれくらいのミス、翔子自身だってやったことがあるはずなのに……!」
瞳の目には、涙すら浮かんでいた。
七瀬は驚いたし、困惑した。
彼女が知る見崎翔子という少女は、テニス部の部長であり、そして誰もが憧れる人気者の女子高生だった。些細なミスを詰って、諍いの原因を作り出す。そんなトラブルを起こしたという話は、これまで一度も聞いたことがない。彼女を取り巻く話題といえば、テストで最高点を取ったり、難関資格を取って表彰を受けたといった、そんな輝かしいものばかりだ。七瀬含め皆から慕われており、常に穏やかで誰にでも優しい……才媛や才色兼備という言葉を体現したような少女だった。
先輩達の言っていることが真実であるのなら、翔子への認識を根底から崩す事件であると七瀬には思えた。
「まさか、翔子先輩がそんな、人を傷つけるような言い方をするはずが……!」
「言ったのよ、私達皆聞いていたの!」
先輩から強く否定され、七瀬はもう何も言うことができなくなってしまった。
何かの間違いだと信じたかった。しかし、去り際に翔子が放ったあの怒声が今も、七瀬の頭に残り続けていたのだ。
別人の声だと思いたかった。しかし、やはりそうではなかったらしい。
「実は、僕も見たことがあったんだよ」
「えっ……?」
七瀬が振り向くと、渚が神妙な面持ちで目を合わせてきた。
「ついこの前なんだけどさ、翔子がうちのクラスの男子生徒と口論になってるとこ。理由は分からないけど……よほどイラついてたのか、すごい剣幕だったな。一年生だった頃から知ってるけど、翔子のあんな顔は初めて見たよ」
渚と翔子は同じクラスだ。翔子のことを近くで見る機会の多い渚の話であれば、信憑性は高いように思えた。
「ところで七瀬、今日は早退するんだろ? まだ行かなくていいのかい?」
「っ、そうでした……」
渚の言葉で、七瀬は思い出した。彼女は今日、部活動を早退させてもらうことになっていたのだ。
翔子のことで不安や心配が胸に渦巻いていた。しかし、行かないわけにはいかなかった。




