第104話 七瀬の朝
「うわあああああん!」
幼い女の子が、父の足にしがみついて泣き叫んでいた。
彼女の泣き声の音量はかなりのもの、十二分に目覚まし時計の代わりにできそうなくらいだ。
「やだあ! やだあ! どうしてドラゴンゾンビなのお!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、少女はなおも泣き叫ぶ。
その原因は、彼女が指差している先に立っている少年だ。
紺色の執事服を着こなし、端正で整った顔立ちをした少年。いかにも紳士的で利発な雰囲気を発しているものの、決して良いとはいえない目つきをした彼は、困った様子で頭を掻いていた。
「やれやれ。覚悟はしていましたけれど、ここまで嫌われてしまうとは……」
少女の頭を、父が優しく撫でた。
「ほら、ちゃんと挨拶しなさい。彼はこれから、一緒に過ごす家族なんだよ」
しかし、彼女は離れない。
挨拶どころか彼のほうを向くことすらなく、父の足により一層強くしがみついた。
「やだあ、怖い! ドラゴンゾンビいやあああああ! やだあああああ!」
◇ ◇ ◇
「っ……!」
窓から差し込む光が、ベッドに仰向けになっている七瀬の顔に道を作っていた。
鳥のさえずる声が鼓膜を揺らし、それが朝の到来を伝え、起床を促しているように感じられる。毎朝そうしているように、ゆっくりと身を起こした。
眠たげな様子で目を擦り、壁に掛かった時計で時刻を確認する。
時刻は午前七時。それは睡眠の終了と、登校の準備を始める時間だった。
普段ならすぐに居間へ向かうのだが、七瀬はベッドに座り込んだまま、窓の向こうの景色を眺めた。
そこには大きな木が立っており、名前も分からない数羽の鳥が枝に止まっていた。きょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、鳥達はすぐにどこかへと飛び去っていく。小さな翼で一気に青空に舞い上がり、あっという間に姿が見えなくなった。どこかに餌を探しに行ったのかもしれない。
(ずいぶん、昔の夢だったな……)
揺れ動く木の枝を見つめながら、七瀬は今の夢のことについて考えてみた。
大抵の場合、夢を見たということ自体は記憶しているが、具体的にどんな夢だったのかは覚えていないものだった。他の人がどうなのかは分からないし、知る術もなければ確かめることもできないが、少なくとも七瀬はそうだ。
けれど七瀬は、今朝自分が見た夢をはっきりと覚えていた。まるで、たった今テレビの映像を目にしたばかりのように、鮮明に頭に残っていたのだ。
夢というよりは……まるで、過去の記憶をそのまま辿ったかのようにも思えた。
(さて、準備しなきゃ……)
珍しい出来事だった。しかし今は、学校に行く準備が先決だろう。
いつまでも座り込んでいるわけにもいかず、七瀬はベッドから降りた。
彼女は足首くらいの丈の白のネグリジェ姿で、胸元にはリボンがあしらわれ、裾はフリル状になっていた。それが七瀬の寝間着で、いつもはポニーテールに結んでいる茶色い髪も下ろしており、背中の真ん中あたりまで伸びたロングヘアだった。
スリッパを履いて部屋を出て、廊下を歩く。
居間に続く扉を開けると、すぐに見知った少年と視線が重なった。
「おはようございます、お嬢様」
ベルナールだった。
紺色の執事服に、懐中時計に繋がる銀色の鎖、さらには良いとはいえない目つき。そのすべてが、今朝七瀬が見た夢に出てきた彼と寸分違わず、まったく同じだった。
いや、それらはすべて、彼が七瀬のホストファミリーとしてドラゴンステイすることになった頃から、何も変わっていない。
当然だった。ベルナールは人間ではなく、ドラゴンゾンビなのだから。
「どうかしましたか、お嬢様?」
今朝見た夢を思い出して、七瀬は思わずベルナールの顔を見つめていた。
彼に問いかけられて、我に返る。
「ううんごめん、何でもないの。おはよう、ベル」
七瀬は椅子に腰かけた。
テーブルにはすでに、ベルナールが彼女のために用意した朝食が並べられていた。
カリカリに焼かれたトーストに、レタスやプチトマトが添えられたベーコンエッグ、それに櫛型切りにされたリンゴ。いかにも洋食という感じがする献立だが、綺麗に盛り付けられていて食欲をそそられる。
起床時には実感していなかったが、料理を目にした途端、七瀬はみるみる空腹を感じ始めた。
「いつもありがとうベル、いただきます」
「ええ、召し上がれ」
食べる前に、まず七瀬はベルナールに感謝を伝える。
社長令嬢である七瀬の家は、『屋敷』と称されるほどに大きかった。昔友達を呼んだ時、『まるで、どこかの博物館みたいだ』と言われたくらいだった。
それだけ広ければ掃除の手間もかかるものだが、そういった家事の大部分はベルナールが引き受けていた。ドラゴンは基本的に睡眠を取らないので、彼は七瀬やその両親が寝静まった頃に隅々まで清掃を行っているそうだ。そのお陰で、居間のどこを見渡しても埃ひとつ落ちてはいない。七瀬の父がコレクションしている彫像や絵画などの美術品や、天井のシャンデリアまで、丁寧に磨き清められていた。
さらにベルナールは料理の腕もかなりのもので、彼が用意してくれる朝食は本当に美味しかった。
人間ではないけれど、まさにベルナールは見た目どおりの優秀な『執事』であり、七瀬にとっては大切な家族といえる存在だった。
「お味はいかがですか? お嬢様」
「今日もすごく美味しいよ」
トーストやベーコンエッグを口に運びつつ、七瀬は応じた。
ベルナールは彼女に微笑むと、キッチンに戻って洗い物を始めた。
食べる手を止めて、七瀬はそんな彼の姿をじっと見つめる。今朝の夢を、また思い出したのだ。
「お飲み物は、いかがいたしますか?」
ベルナールが問うてきた。
どうやら、十数秒で洗い物を片づけてしまったらしい。いつもながら、仕事が早かった。
「じゃあ……紅茶をもらってもいい?」
「かしこまりました」
紅茶の銘柄や砂糖の量、温度やミルクの有無などは伝えなかった。
というのも、そもそも伝える必要がない。わざわざ教えなくとも、ベルナールは七瀬の好みを熟知しているからだ。
洗い物のみならず、紅茶を淹れる作業も手早かった。七瀬が所望してからものの数秒後に、ベルナールは淹れたての紅茶が入ったカップを運んできた。
「そういえばお嬢様、今日部活動を早退されることはもう先生に伝えたんですか?」
「私の口からはまだ言ってないよ。翔子先輩に相談したら、先生に伝えておいてくれるって」
紅茶をすすりつつ、七瀬は答えた。
味も温度も完璧に彼女の好みに合うように調整されていて、さすがだと感じた。
七瀬は今日、放課後に外せない用事があった。部活動を休むわけにはいかなかったので、途中で抜けさせてもらうことになっていた。
「さすが、その『翔子先輩』という方は、本当に頼りになる先輩なんですね」
「そりゃもうね。部長だしテニスすごく上手いし……成績は良くて、しかもすっごい美人さんだし。みんな憧れてるんじゃないかな」
直接の面識こそないものの、『翔子先輩』のことはベルナールも知り得ていた。
七瀬がしばしば、彼女を話題に上げているからだ。
朝食を済ませたあと、七瀬は洗顔などの身支度を始めた。
ネグリジェを制服に着替える。茶色くて長い髪を赤いリボンでいつものポニーテールに結んだところで、ベルナールが通学用鞄を持ってきてくれた。
「今日は自転車を使われますか? それとも、僕が送りましょうか?」
七瀬は少し考えたあとで、
「乗せてもらってもいい? 今日は疲れると思うから……エネルギーを温存しておきたいかな」




