第100話 アーク
その後、七瀬はすぐに教室へと向かった。
智も不在の今、模擬店を離れるのは仲間達に申し訳なかった。しかし、彼女にはそれ以上に重要なことがあったのだ。
ベルナール、つまり七瀬の家庭にドラゴンステイしている彼が、客を気絶させてしまった。
花凛からのその知らせは、七瀬にとってまさしく一大事だったのだ。
「ベル!」
長い茶髪や、それをポニーテールに留めているリボンを激しく揺らしながら走り、七瀬は急行する。ほどなくして、現場に到着した。
焦りに突き動かされるまま、全力疾走で来てしまった。しかしテニス部で鍛えたスタミナのお陰で、七瀬はまったく息を切らしていない。それもそのはず、テニスの練習や試合の時は、彼女はこれ以上の距離を駆けているのだから。
七瀬の声を受け、執事服の少年が振り返った。
「ああ、お嬢様」
思いのほか落ち着いた様子で、ベルナールは応じる。いつもながら、見つめられた人すべてが物怖じしてしまいそうなほどに目つきが悪かった。しかし七瀬は幼い頃から彼と一緒に過ごしているので、見慣れていた。
ベルナールの周囲には花凛、それにベレー帽を被った少女が立っていた。彼女はピアスやチョーカーなど多くの装飾品を身に着けていて、青い髪をルーズサイドテールに結んでいた。ドラゴンガードの腕章を着けている点から見て、この学校にドラゴンガードとして勤めているドラゴンなのだろう。
そして、彼らに囲まれるようにして倒れているそのドラゴン――状況から考えて、花凛が電話越しで言っていた『ベルナールに気絶させられたお客さん』なのだろう。
「ちょ、ちょっとベル! お客さんを気絶させたって……」
「ええ、彼ですよ」
落ち着いた様子で、ベルナールは倒れたドラゴンを指した。
お化け屋敷に本物のドラゴンゾンビ――つまりベルナールを配置して出演させるというのは、クラス展示の生徒達のアイデアだった。不慮の事故で破損したドラゴンゾンビのオブジェの修復が間に合わなかったので、『本物』で代用しようと考えたらしい。
当然ながら、ドラゴンゾンビは見た目にも恐ろしいドラゴンだ。
人間の姿をしている今、ベルナールは美少年と称して差し支えない少年だ。しかし、ひとたびドラゴンの姿に変身すれば、子供が大泣きしながら裸足で逃げ出すような外見になる。
教室内が、お化け屋敷として恐ろしい雰囲気に改装されていることを七瀬は知っていた。彼女はクラス展示の係ではないので詳細までは知らないが、血染めの手形(当然、赤い絵の具を用いた作り物だが)や『殺してやる』という文字、さらには花凛がお化け役として出演していたはずだ。さらにはそれら以外にも、クラス展示の生徒達が客に恐怖を与えるために持ち寄ったアイデアが多数盛り込まれているはずだった。
ドラゴンを気絶させるほどなのだ、きっと完成度は非常に高く、さぞや恐ろしいお化け屋敷に仕上がっていたのだろう。
「や、やりすぎちゃダメって言ったのに……!」
クラス展示の生徒達が、ベルナールの出演を望んでいる。
その旨を七瀬が伝えた時、ベルナールは少しばかり難色も示したが、承諾してくれた。ホストファミリーであり、『お嬢様』と呼び慕う七瀬の頼みでもあったので、断り切れなかった面もあるのだろう。
客を驚かせる時は、加減を払うよう頼んでいたのだが。
「いえ、大丈夫みたいですよ」
ベルナールは答えた。
客を気絶させたとなれば、問題に発展するのは間違いないはずだった。しかし思えば、彼はやけに落ち着いており、その様子からは焦りも危機感も、それに一片の罪悪感も感じられなかった。
どういうことなのかと七瀬が問いかけようとした時、そばにいた少女が七瀬のほうへ歩み出た。
彼女が身に着けているいくつものアクセサリーが打ち鳴り、独特の音が響くのが分かった。
「ご協力、感謝します」
少女は、七瀬に一礼した。
間近で顔を見ると、彼女は独特な瞳をしていた。
「え、えっと……どういうこと? あなたは?」
状況が把握できずに、七瀬は訊き返した。
すると少女は腕章を見せるようにしつつ、
「わたし、この学校でドラゴンガードをしています、シェアトと申します。こちらのドラゴンはある事件の現行犯でして……追っていたところ、そちらの方が捕まえるのに協力してくれたんです」
彼女、シェアトは手の平でベルナールを指した。
「いえ、協力したといいますか……僕はてっきりお化け屋敷のお客さんだと思って、驚かせただけなんですけどね。加減はしたつもりだったけれど、まさか気絶するだなんて……」
ベルナールは、苦笑いしながら応じた。
まさか、驚かせた相手がドラゴンガードにマークされるような犯罪ドラゴンだとは思いもしなかっただろう。花凛が電話越しに話していた内容から考えて、ベルナールはこのドラゴンを気絶させたあとでシェアトから事情を聞かされたようだった。思いがけず、彼はドラゴンガードに協力することになったばかりか、犯罪ドラゴンの拘束に一役も二役も買ったわけだ。
すると、花凛も歩み出た。
「わたくしも同じく、です。まさか犯罪ドラゴンだとは夢にも思わずに……」
和服姿の彼女の片手には、のっぺらぼうの面が携えられていた。
暗がりでこれを顔に被ろうものなら、多少見た程度ではすぐに面だとは気づけないだろう。もしかしたらこのドラゴンは、花凛を本物ののっぺらぼうと認識したのかもしれなかった。
「ところで、このドラゴン……どうします? どんな悪事を働いたのかは知りませんが、ここに放っておくわけにもいかないんですよね?」
ベルナールの言うとおりだった。
今は気を失っているようだが、それがいつまでも続くわけでもないだろう。
「すでに増援は呼んであります。それが到着するまでは……わたしが見張っておくしかなさそうですね」
「そうですか、では僕もお手伝いしますよ。構いませんよね、お嬢様?」
「うん、お願いベル」
シェアトに協力を申し出たベルナールに、七瀬は頷いた。
彼はドラゴンガードではないものの、この場に居合わせた身として何かしら手を貸してもいいだろう。ベルナールの能力を考えれば、もしこのドラゴンが復活して暴れ出した時には大いに力となるはずだった。
シェアトがどんなドラゴンで、どのような能力の持ち主なのかは七瀬もベルナールも知らない。
それでも、犯罪ドラゴンを見張るならひとりよりもふたり、戦力は多いに越したことはなかった。
「私も、協力します」
そこにふと、さらに誰かが協力を申し出る。
聞き覚えのない声に七瀬が振り向くと、ひとりの少女が立っていた。
薄紫色の和服に身を包み、腰よりも長く伸ばされた黒髪は艶やかでさらさらとしており、誰もが目を奪われそうなほどに美しい彼女は、七瀬達に向かって軽く頭を下げた。
この人は……? 七瀬が思った時だった。
「姉さま……!」
花凛がそう呟いたのを、七瀬は聞き逃さなかった。
七瀬は以前、花凛が話していた内容を思い出した。そう、花凛は自分の家に寄宿しているドラゴンのことを『姉さま』と呼んでいた。
長い黒髪に和服姿の彼女と、花凛を交互に見つめたあとで、七瀬は口を開いた。
「『姉さま』ってことは……じゃあ、あの人が『クレハ』さん……!?」
花凛は頷いた。
「そうです、本日はわたくしの着付けのために来てくださっていたんです」
お化け屋敷の役作りのために、花凛もまた和服姿だった。
クレハはゆっくりと、七瀬達のほうに歩み寄ってきた。
「突然すみません、花凛がいつもお世話になっています」
淑やかで落ち着きのある声色だった。仕草や立ち振る舞いがどことなく花凛と似ており、ともに育ってきたことが伺い知れるようだった。
「私もドラゴンです。戦力が必要なのであれば、喜んで力をお貸しいたします。いかがでしょう?」
クレハの申し出に対する答えを出すべきは、この中で唯一ドラゴンガードであり、この場を仕切る立場にあるであろう、シェアトだった。
七瀬は何も言わず、シェアトを見つめた。
シェアトはその独特な瞳でクレハを数秒見つめたあとで、
「分かりました、ご協力をお願いします」
◇ ◇ ◇
ヴィーヴルの瞳でステルス能力を破れる以上、また逃げられたとしても見失う危険はない。しかし直接戦闘となった場合、自分のみでパティスを倒せるかどうかはシェアトには自信がなかった。彼女の能力は後方支援でこそ威力を発揮するものであり、そもそも戦闘向きではないからだ。
それでもシェアトは、この場は安心だと思えていた。
協力者が現れてくれたからだ。
(このふたりのアークは大きい……心強い味方になってくれるはず)
ベルナールとクレハを前に、シェアトは思った。
ドラゴンが無意識に発するエネルギー、アークを視認する力を持つ彼女は、その大きさでドラゴンの力量を計ることも可能だった。
彼らはほんの前に初めて顔を合わせただけの間柄だったが、アークを見ればベルナールとクレハが強力なドラゴンであるのが分かる。彼らが加わってくれるのであれば、ドラゴンガードの増援はもう必要ないのではと感じられるほどだった。
(ルキアさんのほうはどうかな……いや、彼女は心配いらないか)
シェアトは眉間に皺を寄せ、どこか神妙な面持ちを浮かべた。
(彼女のアークはこのふたりとは比べ物にならない……それどころか、わたしが知っているドラゴンの中でも突き抜けた大きさだった。膨大で、それに異質で……あんなアークは初めて見た……)
「シェアトさん、どうかしたの?」
思案していたシェアトに、七瀬が声を掛けてきた。
「いいえ、何でもないの」
考え事を中断して、シェアトは笑みを浮かべつつ応じた。
しかし七瀬から視線を逸らすと、すぐに表情をまた難しい色に染めた。
(きっと、ただのドラゴンじゃない……ルキアさん、あなたは何者なの……?)




