第99話 恨み晴らさでおくべきか
「待ちなさい、止まりなさい!」
いくら命令されたところで、パティスは聞き入れる気などなかった。
追手であるその少女は、いくつも身に着けたアクセサリーの音を打ち鳴らしながら迫ってきていた。パティスは彼女の名前も知らないが、あの少女が自分にとって天敵といえる能力を有していることは知っている。
ステルス能力を破り、自分の位置を特定する能力。
彼女の独特な瞳か、あるいは額に付いている菱形の宝石のような物体に秘密があるのかもしれないが、いずれにせよパティスの選択肢は逃げの一手だった。
捕まったところで強引に逃げ出せるとは思うが、きっとすぐに彼女の仲間が駆けつけてくるだろう。対して、パティスの仲間が助けに来る見込みはないと言っていい。セレスは倒され、アドリスは別のほうへ逃げてしまっている。
分離することで波状攻撃や陽動を仕掛けられる反面、三体が一か所に集まらなければ合体も不可能で、本来の力を発揮できない。それがヒュドラの欠点だった。
「誰が止まるかよ! くそっ、くそっ、どこかに逃げ場は……!」
パティスは、もうステルス能力を行使していなかった。無意味だと分かっているからだ。
人混みの合間を縫うようにして逃げ続ける彼に、周囲の幾人かが視線を向けてくる。だが、そんなものは気にも留めない。
「もう、何なんだよあの女! まばたきもしないで追いかけてきやがって……!」
追いつかれるのも時間の問題だった。
このままでは、いずれ捕まる――そうなれば、どうなるかは目に見えていた。秋塚に加担し、人間を傷つけた罪の一端を、パティスも担うことになるはずだ。実行犯はセレスではあったものの、無関係だという理屈は通らないだろう。
逃げ続けながら、パティスは歯を噛み締めた。
(何でこんなことに、そもそも階段から落ちたくらいで怪我を負う人間が悪いんだ。セレスだってあんなことになるとは思ってなかったはずだ、僕らは悪くない、恨まれる筋合いなんかないんだ……!)
滅茶苦茶な理屈で、パティスは自分やセレスの行為を正当化する。
どう考えたところで、ひとりの少年の人生を潰し、彼を命を奪わずに殺したことが許されるはずがないのは明白だった。しかし、パティスは一片も自分達が悪いなどとは考えなかった。
そんな彼だからこそ、追手である彼女を振り切る――この場を切り抜ける最善策を思いついた。
だが当然、それも真っ当な手段ではない。
(ドラゴンガードなら、もちろん怪我人を放ってはおけないよなあ!)
少女が腕に着用している腕章、それがドラゴンガードの証であることをパティスは知っていた。
口元に不敵な笑みを浮かべつつ、彼は周囲を行き交う人々の中から、適当なひとりに狙いをつけた。おそらくは学校祭の客としてここに訪れた女性――年齢は二十代中盤くらいだろうか。
すれ違いざまに、パティスは彼女を片手で突き飛ばした。
「きゃっ!」
女性が廊下に倒れ込む。
狙いどおり、パティスを追ってきていた少女は追跡を中断し、女性へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
女性を助け起こすと、彼女はパティスを睨みつけてきた。
無関係の一般人を傷つけた彼に向けられた、怒りと軽蔑に満ちた眼差し――しかし、パティスの心は微塵も動かなかった。
「はは、逃げる手段なんかいくらでもあるさ!」
「っ!」
少女は息をのんだが、それ以上は何も発しなかった。さらに険しい表情を、パティスに向けただけだった。
長居は無用だった、パティスはすぐに踵を返し、逃走を再開した。
怪我人の救護で時間を消費させ、そのあいだに逃げ去ろうと考えたのだ。卑怯で狡猾な策だったが、彼にとってはこの上なく合理的な手段だった。
「恨むんだったら、近くにいたその女を恨むんだね! 逃がしてくれてありがとう、さようなら!」
しつこく捨て台詞を吐き、前を見ずにパティスは駆け出した。
もちろん彼は、自分がこの数分後にとんでもない制裁を受けることになるとは、わずかも思ってはいなかった。
◇ ◇ ◇
「怪我はありませんか?」
女性の身を支えたまま、シェアトは問いかける。
パティスに突き飛ばされた女性は、頷いた。転倒こそしたものの、大きな怪我をしたわけではないようだ。
逃げ去る最中に、パティスがこちらに向かって舌を出し、中指を立てるジェスチャーをしているのが分かった。彼はとても幼稚で、粘着質な男だった。
しかしシェアトは怒り以上に疑問に思った。
廊下を逃げて走り去るはずのパティスが、なぜか脇の教室に入っていったからだ。
煽ることに夢中になっているあまり前を見ていなく、違う方向に進んでいることに気づいていない? だとするならば、いくら何でもマヌケすぎる話だった。しかし状況からすると、それ以外に考えられない。
意図せずパティスが入って行った教室は、おどろおどろしい飾りつけがされており、脇の看板には、
「『お化け屋敷』……?」
全盲であるシェアトだが、感知能力を活かして色を識別できるし、字も読める。
だから、看板に書かれたその字を読み取ることも可能だった。
◇ ◇ ◇
「あ、あれ……!?」
パティスは困惑していた。
それもそのはず、前を向いた次の瞬間には周囲が突然暗くなり、彼が知っている廊下の景色が消え失せてしまっていた。大勢いたはずの人々も、学校祭で賑わっていた校内の景色も、そこには一切が見当たらなかった。
代わりにぼんやりとした明かりと、何やら血染めの手形が大量に付いた壁があった。
「ひっ、な、何だここは……!?」
よく見ると、血染めの手形だけではなく『許さない』、『殺してやる』といった文字が赤色で書かれており、大量の血痕まで染みついていた。
引き返そうとするが、うしろを振り返っても薄暗い景色が広がっているだけで、出口が見当たらない。
どこからともなく水が滴り落ちる音――それからおどろおどろしい音や、それに混ざって楽器のような音まで聞こえてきた。
どうやら、三味線のようだ。
(だ、誰かいるのか……!?)
進まないことには、ここから出られそうにもなかった。
足止めこそ仕掛けたが、それも結局は一時しのぎだ。モタモタしていれば、追手が再びやってくるだろう。
出口を探さなくては……と思って進んでいく。
そして、パティスは見つけた。見つけてしまった。
――着物姿の少女が、三味線を抱えていたのだ。
「ひっ……!?」
それがただの少女であったのなら、何も驚かなかっただろう。
しかし、彼女には顔が無かった。目も鼻も口も何も無く、まるで溶けてしまったかのようにのっぺらぼうだったのだ。さらにその頭はずぶ濡れで、黒くて短い髪の先からはぼたぼたと雫が滴り落ちていた。あの水音、それに三味線の音色の正体は、どうやら彼女のようだ。
白い手がゆらゆらと暗がりに浮かび、また三味線が奏でられる。
おどろおどろしい音にその音色が重なり、不気味さが際立っていた。
「な、何だ!? お前、何なんだよ!?」
顔がない少女は答えなかった。
「うらめしや……うらめしや……」
口が無いはずなのに、その少女は言葉を発した。
彼女が顔を上げ、のっぺらぼうな顔が明瞭に見えるようになった。手元を見ずに少女は三味線を鳴らし続け、パティスが抱く恐怖が掻き立てられる。
「うらめしや……うらめしや……!」
まるで壊れた機械のように、少女は『うらめしや』という言葉をひたすらに繰り返し続けた。
しかし、その語気が次第に強まっていくのが分かる。まるで、積年の恨み募る相手を眼前に見つけ出したようにも思えた。
秋塚やセレスによって、片足を不自由にさせられた健人のことが頭に浮かぶ。パティスは直接手を下したわけではないが、犯行に関与したのは間違いないだろう。
「や、やめろよ! 僕は悪くないぞ、僕は何もしてないぞ……!」
さっきは滅茶苦茶な理屈で自分を正当化していたものの、罪悪感を完全に覆い隠すには至っていなかったのだ。
パティスの制止を聞き入れるどころか、むしろ少女の言葉はさらに強みを増していく。
「うらめしや……! うらめしや……!」
三味線を奏でるその手の動きも、激しさを増していた。
そして次の瞬間、
「この恨み……晴らさでおくべきか!」
ようやく彼女が『うらめしや』以外の言葉を発したと思った、次の瞬間だった。
横から何かの気配を感じ、パティスは振り返った。
――そこにいたドラゴンゾンビが、生え揃った牙を剥き出しにして咆哮を上げた。
「ぎゃあああああっ!!!!!」
状況を飲み込む猶予など、与えられはしなかった。
のっぺらぼうの少女によって醸造されていた恐怖が、ドラゴンゾンビの咆哮によって爆発した。
パティスは絶叫しながら瞬く間に意識を失い、グラリと身を揺らしてその場に倒れ込んだ。のっぺらぼうの少女の正体も、突然現れたドラゴンゾンビのことも、何も分からないままだった。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございました!」
客に焼きそば入りのパックを手渡し、頭を下げる。
七瀬は当初、客を呼び込む看板娘的な役割を担っていたのだが、繁盛している今ではその必要もなくなっていた。智がいない穴を埋めるために、彼女も店員となって客に応対していた。
次の客に応対しようとしていたその時、七瀬のスマホが着信音を奏でた。
「っと、ちょっとすみません! 塚本君、少しだけ店番お願いしてもいい?」
近くにいた真吾が、「分かったよ」と応じ、代わりに接客する。
ポケットからスマホを取り出しつつ、七瀬は店の裏手のほうへと向かった。もしかしたら、智からの連絡かもしれないと思ったのだ。
しかし、画面に表示されたのは彼の名前ではなかった。
「花凛さん……?」
七瀬に電話してきたのは、辻宮花凛だった。
彼女は今、クラス展示でお化け屋敷をやっているはずだが、何の用だろうか?
怪訝に感じつつも、七瀬は応答した。
意外な人物からの電話ではあったけれど、もしかしたら何か重要な連絡なのかもしれない。出ないわけにはいかないだろう。
「花凛さん、どうしたの?」
応答した時、七瀬はいつもどおり溌溂とした可愛らしい表情を浮かべていた。しかし、電話越しに花凛が話した内容に、彼女は驚愕のあまり目を見開く。
「え!? べ、ベルがお客さんを気絶させちゃった……!?」




