嗜虐心
秘密裏に動くフェイズの要請に応えて、治安警護隊が今回の件に深く介入してきたのは、丁度リュナウィッシュとガルティックがグランデと戦っている最中の事だった。彼らがまず行ったのは、その時外で戦っていたガルティックの周りから、人々を離れさせることだった。
ガルティックがグランデを圧倒していたこともあり、その光景に熱狂していた住民達により、この行為はかなりの非難の的になった。しかし、何匹化のグランデがそんな市民らに目を向けたこと、グランデの攻撃が市民の方に向かうことがあったため、治警隊とフェイズの行動は成功に終わった。
更に、グランデらの襲撃が終わった後も、状況確認や安全確保の名目で、宿主以外の宿泊客含めた住民の出入り、接近を禁じた。その際、治警隊の一人が、正に決死の戦いを繰り広げたガルティックを抱えて宿の中へ入った。
この時、フェイズと治警隊それぞれの代表格の人間が、リュナウィッシュの前に立った。宿主に関しては、やはり彼の宿で、どうしてこのようなことが起きたかを説明する義務があると判断したため、リュナウィッシュが呼んだのである。
リュナウィッシュは彼らと話し合い、彼らの意見も汲み取りつつ、行ってほしいことを伝え、すぐに行動に移させた。その後、事前に状況を様々聞かされていた宿主を呼び、今回の件で、多くの迷惑を与えたことを謝罪し、戦闘中に起きた損害は全てこちらで対応することを伝えた。
宿主自身、あまりにいろいろなことが起こり過ぎ、更に客の一人と思っていた女性が皇王であることを知って混乱の極みのような状態に陥り、彼女の言葉も、半ば唖然とした状態で聞いていた。
一通り事を終えた後、ラウル・バグス・バ・バとの戦闘を終えた光利からの連絡を受け、部屋の前に護衛として立っていたフェイズの人間に一言伝えて、リュナウィッシュはガルティックと共に、光利達の元へと瞬間移動をした。
フェイズと治警隊はその後も、リコイでの激闘によって起こり得る騒動や混乱を想定して、即座に対応した。特に、今回の件が外に漏れ出ぬよう、住人の出入りの禁止にしたり、情報機関へ、今回の激闘が如何なる物であるかを伝え、しばらくはこの事件についての報道を差し控えるよう要請したりした。
……………
一人の男が、ポケットに両手を突っ込み、首を少し引っ込めてまっすぐ歩いていた。その速度は少し速く、少し大きめに呼吸をしており、目は忙しなく動かし、特に誰かとすれ違う際にそちらに向けられる。明らかに緊張しているのが見て取れた。
男は、真っ直ぐ行った道の途中にある曲がり角から、治警隊が姿を現すのを目にして立ち止まった。ほおっておけばそのまま歩き去ろうとしているようにも見えた彼らだが、男の目には、今にもこちらの方を向くのではないかという懸念で一杯になっていた。男はすぐ横の、建物の狭間に入り込んだ。
──男は、先ほど以上の早歩きで突き進み、時折後ろを振り返って追う者がないかを確認しながら歩いていく。道も半分ほど過ぎ、少しばかり気持ちに落ち着き、戻って来て……
「──そんなに急いでどうしたの?」
「!!」
女の声がして、男は振り返った。細身の女は両手を後ろに組んで、小さく足を開き、少しだけ左側に身体を傾けて立っていた。服装だけ見るなら、治警隊ではない。無論、私服で警備をしているという可能性もある。
……しかし、もし仮に、その女が実際に治警隊でなかったとしても、警戒しないではいられなかった。そもそも、この女はいつの間に男の後ろにいたのか。いつ現れたのか。
影に覆われているため辛うじてではあったが、女は明らかに笑っていた。人を安心させる笑顔ではない。獲物を見る獣の物ですらない。その笑顔には、嗜虐心がにじみ出ていた。男は思わず、右足を一歩後ろに引いた。
そんな男の警戒心に気付いたのか、女は体勢を少し崩し、
「そんなに警戒しなくてもいいじゃん」頭を人差し指で掻きながら女は言った。「そんなに急いでどこに行くのかって聞いてるだけで」
「……関係ないだろ」
女は肩を竦めた。
「気になったんだ。街中を挙動不審で歩いて、治安隊を見たらこんな所に入り込んだりしてて。何でだろうって」
そんな疑問を呈す言葉にも拘らず、女の物言いは、明らかに何もかもわかっていると言わんばかりのものだった。男は自分の警戒心の正しさを悟った。先ほどからの自分の行動を見知っているこの女は、治警隊ではない。もしかしたら、それ以上に危険な存在である。
男は、女を見据えたまま、更に後ろに引いた。あと一歩で、そのまま振り返って逃げるつもりだった。
「……!!」
背後に気配を感じた男は振り返る。いつの間にか、筋肉質の巨体の男と白髪の生えた細い老人、若く精悍な顔つきの、おかっぱ頭の男が立っていた。
「な……!!」
男は思わずたじろいで四人から離れようとした。その時、後ろから肩と後頭部を掴まれたかと思うと、そのまま勢いよく背中にのしかかられて、押しつぶされそうな鈍い声を上げつつ前に倒れた。女に後頭部を抑えられたままだったので、男は顔を思い切り地面にぶつけた。
男は痛みと焦りに、鼻息を荒くする。一瞬、頭を持ち上げられたかと思うと、顔を横に向けた状態で再度地面に叩きつけられた。鼻から血を流し、脂汗の滲んだ顔は埃と小石で汚れている。
「……あまり強く叩きつけるな」老人が言った。「気絶したらどうする」
男は、自分の上に乗る女と巨漢を見比べる。何かもの言いたげに見ていた女だったが、そのまま何も言わず、彼の横顔に顔を近付けてきた。この時、初めて気づいたが、女は彼の後頭部を左手で押さえており、右手は彼の右手に、まるで猫にでも触れているような手つきで触れられていた。
「……おおよそあんたが予測している通りだ」女が言った。「いくつか質問がある。正直に答えてほしい。勘が良いあんたなら、答えなかった時にどうなるのか分かるはずだ」
男は相変わらず鼻息荒く、顔を小刻みに痙攣させたまま、見開いた目で女を見ていた。そんな男の口に、巨漢が布地を無理やり奥まで咥えさせた。
更にその目の前に、一枚の手札が差し出された。差し出したのは、精悍な顔つきの若者だった。その手札には、彼自身の顔と名前、そして、一部の物以外には伝えていないはずの、彼の所属機関の名前が載っていた。男は、驚愕の為に更に目を見開いた。
「まず……あんたの素性は、これに記載されてる通りで良いんだな?」
男は、見ている物から目を逸らす。鼻息荒く、質問には決して答えようとしなかった。
「……」
次の瞬間、女は男の右手の人差し指を、手の甲に引っ付けるほどに勢いよく折り曲げた。男がその痛みに上げた大声は、口に押し込まれた布地に吸い込まれた。
「遊びでこんなことをやってんじゃないんだ」女は冷たく言い放った。「時間もあまりない。質問にはさっさと答えろ。今はまだ指で済んでるんだ。大概にしないと容赦はしないぞ? 正直……これでも結構、楽しみたい気持ちを抑えてんだから」
女の最後の言葉は、先ほどは鍋蓋から徐々に垂れ零れて行く程度に抑えられていた嗜虐心が、露骨なまでに溢れ出ていた。