使いもんにならんだろうな
数人の男達は風を切って、背筋を伸ばし両手両足もしっかり上げつつ、綺麗なフォームで走ってくる。先頭の一人を始め、そこそこの距離を置いて、他の者達も迫ってきていた。光利は客席、出入り口に近い一番上の柵に寄り掛かりながらそれを見ていた。
順位は変わること無く、男達はそれぞれゴールしていく。比較的広い競技場であるにも関わらず、客席には他に、五匹程度のラヌラーヴァが、真ん中に集まっているだけだった。皆、光利のいる側の客席にいる。勝利者を称える声や敗者を罵倒する言葉が飛び交う。その騒がしさが、競技場の沈殿する静けさを際立たせる。
「どんな調子だ?」
光利は振り返る。ラヌラーヴァが一匹、彼に近付いてくる。
「問題ない」光利は答える。「ここはいつもこんなに少ないのか?」
「いや、そうでもない」光利の隣に立ったラヌラーヴァが言った。「競い合ってるのが人間だからさ。俺達に比べれば幾分も劣った連中の駆けっこを見てもな……一部の連中で、賭け事の種になる程度だ」
ラヌラーヴァは嘲るような調子で言った。光利は視線を徒競走の方へ戻す。既に新たなレースが始まっており、五人の男達が全力で駆けている。
ラヌラーヴァ五匹の怒声が飛んでいくなか、一位の男が二位からどんどん距離を離していく。そんな男に向けて、称賛と罵倒が一層高く入り交じって投げ付けられる。
あと少し、真っ直ぐ走ればゴールというところまで男が来た時、罵倒の方が止んだ。光利は視線を五匹に向ける。すると、その一匹が何かを投げ付けた。投げ付けられた物は先頭走者の頭に丁度当たり、男を勢いよく打ち倒した。
ほとんど同時に騒ぎが起こる。審判役のラヌラーヴァが男に近付き、その場にうずくまって様子を確認している。呼ばれる形で、医師と思しきラヌラーヴァがノロノロと走って近付いて行く。
後ろから走っていた男達は、そちらに目を向けつつも、次々と追い抜いていく。
客席では、二匹のラヌラーヴァ間で喧嘩が起こっていた。恐らく、先頭の男に賭けていたのと物を投げ付けたのとだろう、互いに罵声を浴びせながら殴りあっている。光利は静かな視線で、それらを見ていた。
……ふと、しばらくして男の方に目を向けた。足しか見えていないが、その痙攣の仕方は、男の状態が只事では無いことを雄弁に物語っていた。平時、人間はあんなに震えたりはしない。
「ありゃあもうダメだ」
光利はラヌラーヴァの方を振り返る。その口調は、なかなか惜しいことをしたと、まるでそれなりに便利だった道具か何かが壊れるのを惜しむ様な軽いものだった。
「生きていたって、使いもんにならんだろうな。まともに動けるかすら……」
「その時はどうする?」
ラヌラーヴァが言葉を切ってしばらくすると、光利はそう尋ねる。
「あぁ?」ラヌラーヴァは光利の方を向く。「殺しゃしねぇよ。奴の家族の所に戻すさ。いたところで無駄だからな……人間はなんであんな脆いんだ」
うんざりしたようにそう言うと、ラヌラーヴァは背を向けて、出入り口に向かう。客席や競技場の方に振り向き、男がタンカーに運ばれるのを見送ると、光利もそれに続いた。
長い廊下を点々と距離を取って数人が、清掃に取り組んでいた。床は大理石でも敷いているかのように滑らかであるが、歩く上で問題はない。
ラヌラーヴァは光利に対し、街に繰り出した時の話をしていた。話している当人は面白いと思っているが、光利は途中から離し半分に聞き始め、適当なタイミングで相槌を返していた。時折、しっかりとした愛想笑いも忘れなかった。
「──おっと……」
その途中、水を張ったバケツの近くで、雑巾をもって拭き掃除に取り組んでいる男の近くを通りかかった時、ラヌラーヴァは足を滑らせて立ち止まった。一瞬、そのままこけそうになったのだ。
共に歩いていた光利は、多少滑らかではあるものの、特に歩き心地に違和感もなく歩を進めていたため、なぜこんなところでこけかけるのかが分からなかった。冗談かわざとかとも思ったが、声音からして本当に足を滑らしたことは明白だった。
ラヌラーヴァに視線を向けた時、怪物は明らかな怒りを示すかのように、僅かに開いた唇から、歯を食い縛っている様を見せた。僅かに、頭も震えている。男はその様子に明らかに戸惑い、恐れていた。
ラヌラーヴァは近くのバケツを持ち上げ、男の頭から水を叩き付ける様にぶちまけた。飛び散る水は、光利のズボンや靴をも濡らす。男は尻餅をついて手を挙げた。怪物は更に一歩近づき、バケツを男の頭に被せると、そのまま足でその頭を横から蹴りつけた。男は水の上に激しく音を立てながら倒れた。
ラヌラーヴァはそれに、さも軽蔑するかのような一瞥を投げると、最早光利のことすらも忘れたと言わんばかりに前を向いて歩き始めた。光利は顔を前に向けた時、少し先でモップ掛けをしていた女が、すかさず目を逸らして掃除に専念する姿が映った。
ラヌラーヴァは憮然とした足取りで歩いて行く。清掃人の動きに、明らかな緊張によるぎこちなさが見られた。光利は少しして、その背に従うように歩き出した。水に濡れていても、歩きやすさに変わりはない。
しばらく行って光利は立ち止まり、後ろを振り返る。床に広々と水が広がる中を、男は足を組んで、項垂れて座っていた。バケツを被せたままの頭を俯け、背筋も弓形に丸く曲がっている。その姿の滑稽さは、男の哀れさと惨めさを増長するばかりだった。男は今、どのような顔をしているのか……
光利は前を向いて、再び歩き出した。
──光利がラヌラーヴァについていった部屋には、武装した十五から二十人程度のラヌラーヴァのいる部屋だった。かなり広く、明かりのさしてない薄暗いその部屋には、どことなく殺気立った雰囲気が漂っていた。
光利を連れてきたラヌラーヴァは、横目で彼を見る。辺りの様子を見まわしているという以外に、特にこれといった反応は見られない。両手をコートのポケットに突っ込み、力の抜けた、穏やかな表情をしている。これまで何人もの人間を見てきたが、こうした男は初めてだと、怪物は思った。彼の見てきたほとんどの者は、大なり小なり、緊張と恐怖を現わしていたからだ。
見回しているうち、光利は、グヴィスの護衛たるラヌラーヴァと目が合った。冷たい目でこちらを見ていたのを、軽く頭を横に傾げて軽い挨拶の合図を送る。
「あれは、グヴィス様の護衛兼この突撃部隊のリーダー『セトグアール』だ」ラヌラーヴァが言った。「貴様の準備は大丈夫か?」
「いつでも行けるよ」光利は答えた。「心遣いに感謝するよ」
光利の穏やかな笑みに、敵意はなかった。
作品の設定上、登場する人物の視点に合わせて、同じものでも表現の仕方を変えている場合があります。(例:コート→外套 ベッド→寝具)お付き合いいただければと思います。