聖光利──その過去1
聖光利の有する最も古い記憶は、保育園児の頃、どこかの公園で画用紙に囲まれている自分である。他の同年代の少年少女もいたので、おそらく遠足か何かの一環だったのだろう。描いている絵も、その回りに散らばっている画用紙にも、描かれているのは同じものであった。
優男の教師が、二枚ほど拾い上げた画用紙と、光利が描いているものを見比べた。そのどれもが、他の児童のもの──それどころか、小・中学生でもこうは上手く描けないのでは無いかと思えるほど巧みなものであった。
「聖くん、どうしておんなじのを描いてるの?」
声をかけられた光利は、描いている手を止めて、教師の顔を見た。子供らしい顔つきに、子供らしからぬ落ち着き払った、というより、冷たく沈んだ目付きをしている。
「……ずれる」
そう一言残すと、光利は再び絵を描き始めた。
「ずれる……」
その言葉を呟き、そして念頭に置いた上で、先生は再び光利の絵を見た。完璧な構図の中で、確かにその言葉通り、モデルとなる風景と、何かしらのずれがあった。しかしそれは、言われねば気が付かぬ程、微細なものであった──
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光利が物心ついたときには、既に父親はいなかった。覇気の無い、大人しい母親と、一軒家で、二人での生活を送っていた。この母子家庭こうした生活を成り立たせていたのは、母親のなけなしの稼ぎに加え、父方の親戚からの支援であることを、光利は後日知った。父親がどこにいるか、少年はまるで興味も持ち合わせず、名前さえ聞いても忘れる程だった。
光利は元来大人しい、寡黙な少年であった。誰かと関わることを嫌がっているという風ではなかったものの、同級の者達や教諭らに、積極的に話し掛けることはなかった。
その一方、決して誰かに反抗的な態度を取ったり、あるいは問題を引き起こすようなことはなかった。童話の読み聞かせやお遊戯や合唱などにも、関わることを厭わなかった。
そんな彼には、ある特異な傾向が目立った。
一つは前述にも現れた、異様なまでの完璧主義。風景模写も去ることながら、絵本を取り出してはその文章も含め、何度も何度も描き写し続け、自分の納得するまで終わらない。絵の中の、文字の僅かのずれさえを、彼は許さなかった。その凄まじさに、当初こそ感心していた友人らや先生達は、しかし光利が何度も同じ物を描く従い、同級生らはそこはかとなく恐れ、先生達は心配した。
何故そんなに描くのか、と問われれば、やはり前と同じ様に、どこか元の絵と違うと答える。先生の中には、こうしたことをやんわりとやめさせようとする者もいたが、光利はやめることは無かった。また、別の先生が彼のこうした傾向を、一つの才能と見なして評価したため、改善されることは無かった。
後には何冊もの小説一冊分の書き写すなどもこの傾向に加えられることとなった。基本誰かと、あるいは一人で遊ぶことすらもなく、一つの事を徹底的に、集中して取り組んだ。こうした傾向は当然のごとく勉学にも向けられた。そしてそれは、光利の学力向上に大いに役に立った。
もう一つは感情の起伏が極端に乏しいこと。感情を表さぬ子供自体、少なからずいはするものの、例えば喧嘩ともなればそうともいかない。怒りを露に大声で叫び、手を出し、足を出し、最後には顔を崩して大泣きする。
無論光利も、喧嘩をすることはあった。彼から仕掛けることは一切無かったが、彼の態度を気に入らぬという者はいるのである。そんな時、光利は些かの感情も発露させない。例え顔や頭を殴られても、つゆとも痛みを表さず、物怖じすることが無いのである。
喧嘩自体もとにかく強く、殴られても、すぐに淡々とやり返した。その強さ、態度は、充分相手を威圧させるに足り、大抵の者はあまり時間を置かず戦意を喪失する。
当初は単に強がっているだけかとも思われたが、例えば裏に行って涙を流す、悔しさを表す、などということがない。喧嘩が終わってしばらくすれば、まるで何事も無かったようにしていた。
この感情の起伏の乏しさとにかく徹底されており、彼が十歳の時、首を吊ってぶら下がっている母親の姿を見ても、些かの動揺を受けることはなかった。体重のためか微かに揺れており、頭が俯いているために影のかかった顔は陰惨に見え、ぼんやり開いた口は虚しかったのを覚えている。
後に光利から連絡を受けた警察や救急隊員は、その連絡時や対応において、光利があまりに感情を表さぬのに、仄かな恐怖を覚えずにはいられなかった。ある者は、この息子が母親に手をかけたのではないかという、非現実的にして不謹慎な空想まで行った。
少年には理由のつかめなかったが、原因不明の母親の自殺は、彼の人生において一つの契機となった。彼ら親子の生活を支えていた親戚が、彼を引き取ったのだ。
親戚はかなり恰幅の良い中年の男であった。男は母親の葬式の際には誰よりも涙を流しており、光利に対して、自分には責任があるからと少年を引き取った。
住み処は郊外にある人通りの少ない一軒家で、そこそこに大きい。夜になれば人の行き来はほとんど途絶え、静かな時間を過ごせた。引っ越したために変わった中学には少し距離があるからと、運転手が車で送り迎えをしてくれる。
学校の成績は、前述の彼の徹底した書き写しや読み込み、そしてその驚異的な記憶力により、ほとんどトップクラスの成績を修め続けた。そして一度、全教科満点を取った時には、同級生らを感心される以上に、多くの者に笑いと疑惑を抱かせた。全教科、寸分も間違わずに正解し得るなど、彼らの埒外の出来事だった。
生活は、母子家庭の生活を支えられるだけあってかなり裕福だった。叔父の他にはお手伝いの人間もいて、元の母親との生活と比べれば、明るさがあった。この家で過ごすなかで、多少は光利も、感情を分かりやすく示すようになった。しかし飽くまで、以前に比べて、という形容が必要ではあったが。
いつもの癖の一環で、家にある車、机、ソファーなどといった家具がなんという素材で出来ているか、いくらの値段だったかなどを聞いて家の者を困らせることがあったが、基本的に、他の者達との関係も良好だった。
その一方光利は、叔父がどう言った仕事をしているのかは分からなかったし聞こうともしなかったが、それでも表だって声にできないようなものであると、何とはなしに思っていた。これは特に、彼が後ろの座席に座ることが許されぬこと、浸入しようものなら、いかなる場合とは比較にならぬほどに怒られる事によって、その認識を強めた。
……それが確信に変わった夜があった。
十五歳になり、高校受験の勉強にも励む時期に差し掛かった光利は、その日の夜も、二階にある自分の部屋でいつも通り眠りについていた。そんな時、何かの物音が聞こえて目を覚まし、ベッドの上に身体を起こした。
そんな時、何となく銃声の様なものが聞こえた気がした。以前から見ていた映画やドラマにおける銃撃戦において、似た音を聞いたことがあった。そして、物凄い勢いで階段を上がってくる音が聞こえたため、光利は開けた窓から部屋を出て、屋根を伝うと、そのまま玄関前に飛び降りた。
すると、玄関からもすぐに音が聞こえた彼は、咄嗟にすぐ近くにあった車に近付き、後部座席のドアを開けて中に入った。玄関口から見知らぬ男が出てくる音がした時、前の座席のシートポケットの膨らみが目に入った光利はそこに手を突っ込み、何かを取り出した。
少し前に使ったのか、元よりこの状態だったのかは分からぬが、ワルサーPPKであった。そう認識するが早いか、開いた車のドアに身を晒した見知らぬ男に銃口を向け、男が何かを言う前に引き金を引いた。
轟音と弾丸発射の勢いに飲まれて後ろに仰け反った光利であったが、弾は男に命中し、前に倒れてきた。光利はすぐに体勢を整えて、拳銃を構える。が、男は釣り上げられた魚のように口をパクパク開閉させ、その全身は痙攣している。
ワインでも溢したように、夜目でも分かりやすく血が溢れ、月の光に淀んで輝いていた。血は、首のあたりから流れているのが分かった。
これを見た瞬間、光利は一気に冷静になった。先程のシートポケットの膨らみがまだ残っていることのを見た光利は、そこか更にサイレンサーを取り出した。それら全て、彼が見た映画やドラマを見た後、インターネット等を利用して自ら調べあげ、その用途を学んだのである。
学ぶことと実際に使用することが違うことを、光利はこの時改めて認識した。ただ、それでも利用自体はスムーズにでき、サイレンサーの装着も難なくこなした。そして、そのまま男の頭に銃口を再度向け、引き金を引いた──
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この事件を機に親戚は、ある暴力団に属していることを知った。親戚の家に乗り込んだ男数人は、当事対立していた団体の組員だったようである。事がおおよそ片付いた後、光利の殺しの話は、親戚の所属する暴力団の代表の耳に入り、招かれることになった。
団員のほとんどが、チンピラ然としたやせ形の男か、綺麗なスキンヘッドをした、図体の大きな、威圧的な男ばかりだったが、代表は、なるほど暴力団関係者と言われればそう見えなくもない、しかしどちらかと言えばインテリ風の様子をしていた。髪を七三に、ポマードか何かで整え、スーツ姿にネクタイもきっちり閉めている、眼鏡をかけた優男である。
聞かされた内容として、光利の殺人については処理をしており、何かしら手が届くことはないこと、しかしその処理は決して安いものではないこと、恩を受けたのであればそれに見合った礼をするのが義理だというものがあることを伝えられた。
中学生ながらも察しの良かった光利は、代表からの説明の最中に、何を言いたいかを察した。つまり、自分達の協力をせよということである。事実、代表は長々とした話の後にそれを言った。
代表は、光利の学力が充分にあり、運動能力も低くなく、更に人を即断即決で殺し、その後も平然としているその度胸に目をつけ、自らの懐に収めようと画策したのである。親戚の叔父はそれを明らかに嫌がっていたが、代表の前では口をつぐんでいた。
事実、代表の口調は提案の体をなしてはいたが、明らかに断れるような状況では無かった。少なくとも断ろうものなら、明らかに報復が返ってくるという様子だった。
しかし、そのような雰囲気などに少しも飲まれた様子の見られない光利は、その提案を了承した。躊躇いらしい躊躇いはほとんど無かった。代表はともかく、他の団員、特に親戚の叔父は、この躊躇いの無さに驚かされた。
そもそも、周囲が暴力団員ばかりで、その代表となる男を前にしても、何ら変わった様子を見せなかったことが、多少なりとも他の者を驚かせていたのだ。
少年は更に、発砲する際にその反動で身体が倒れてしまったので、もし拳銃の使用を必要とする何かをさせるのであれば、せめて鍛えさせてほしいとも言った。そこには些かも媚びた様子のない、真面目な調子があった。周囲の者達が漂わせる、どことなく異様で威圧的は雰囲気とは対照的な、そのあまりの自然体は、その場の者らを噴き出させた。
光利の提案は受け入れられ、少年は拳銃を利用する上での知識な動作、体作りを始め、そして滞りなく才能を開花させていった。その仮定で、彼は叔父の属する暴力団の命を受けて、主に殺人行為を繰り返して行っていった。
それは当初から、既に数十人は処理してきたと言わんばかりのスムーズさで遂行していった。当初は未成年と共に仕事をすることに明らかな嫌悪感を見せていた団員らも、光利のそつの無い働きを次第に認めるようになっていった。当然代表も喜び、光利に金を送るようにもなっていった。
……しかし、やがて光利は、組織の中で生きることをやめ、独立したい旨を叔父に表明した。組を持つ、ということではなく、全てにおいて自らのやり方で働きたくなったのである。そこに至る経緯自体が呈示されることこそ無かったが、独立後の彼の働き方を見て、なんとなく、組織内の秘密主義的な所が彼の気に入らなかったのであろうと、叔父は予測を着けた。
叔父は光利の表明を聞いて微笑んだ。これは光利には少々意外だった。叔父の立ち位置は決して悪いものでは無いにせよ、容易く光利を応援の出来る立場ではなく、形はどうあれ反対されると思ったのだ。しかし叔父は微笑み、話をつけると言って代表に会いに行った。
一週間後の再会の折、光利は叔父から、独立が許されたことを聞かされた。大した喜びを見せなかった光利は目を転じ、包帯巻きになった叔父の右手を見た。それだけでなくとも、叔父はどこか疲れ気味だったので、恐らく何かしらの仕事も受け持ち、指も一、二本供儀に出したのだろう。食事時に箸を持つのが大変になるだろうなどと考えつつ、光利は叔父に感謝の意を表した。
作品の設定上、登場する人物の視点に合わせて、同じものでも表現の仕方を変えている場合があります。(例:コート→外套 ベッド→寝具)お付き合いいただければと思います。