ガルティック
ドルクルと光利が作業小屋にいる間、リュナウィッシュはガルティックを浴室へと入れていた。リュナウィッシュはともかく、ガルティックの方は湖に飛び込んで全身水浸しになっていたので、身体を綺麗にしようとなった。
「──リュナウィッシュ様、もし良ければ、ガルティックの後にか、あるいは一緒に、浴室をお使いください。少し濡れているようにも見受けられますので。もちろん、ご利用を自由に構いません」
浴室へ行く前、リュナウィッシュはドルクルからそう提案された。光利が彼の耳に口を近付け、何かを伝えた後の提案だったので、光利の発想であることは彼女にも察せられた。そう思って光利を見ると、彼は肩を竦めた。何となく、自分の発案であることを、気付いていないふりをしてほしいと表しているようにも見えたので、
「ありがとうございます、ドルクル」リュナウィッシュが微笑んで言った。「ではお言葉に甘えて……ガルティックの服の洗濯をしますので、その後に」
リュナウィッシュがそう伝えると、ドルクルは、あまりだらしなくならぬよう露骨にではなかったものの、かなり嬉しそうな様子を見せた。
昨日もそうだったが、女性が風呂に入るということで、男二人は作業小屋に引っ込んだ。もし何かあれば呼ぶことが出来るように、ドルクルは即興で造っておいた呼び出し機が彼女に手渡された。
そうしてリュナウィッシュはガルティックを浴室に入れ、少女の服を洗濯した。そして、風呂から出てきた彼女の身体を拭いて、服を着せて居間に戻らせると、自らも服を洗濯気に入れ、浴室に入って身体を水で流した。
身体を綺麗に拭き終え、服も綺麗に着替え終えて居間に戻ると、ガルティックがいなかった。いないことに気付いてすぐ、小屋の出入り口となる扉とその横に半分だけ開いている窓が目に入る。ふと、微かな不安を覚えて扉を開いて外を見回す。周囲には人はおろか、その気配もない。
一度このまま探しに出かけようとしたが、中にいる可能性もないわけでは無いと考え、一旦小屋の中に入って、まず階段から二階の方へとガルティックの名を呼ぶ。返事がないのを確認すると、とりあえず裏庭に出た。少し期待したがやはりおらず、そのまま作業小屋の方へ向かい、二人を呼んだ。
「──それで、皇王様が探しに行かれると?」
「はい。私が目を離したすきにいなくなってしまったので……」
事情を聞いたドルクルの聞き返しに対し、リュナウィッシュはそう答えた。心配と自責の念と不安に駆られた、弱々しい表情だった。
「う~ん、ガルティックなら心配いらんと思いますが」腕を組んで少し考えた後、ドルクルは言った。「ハムラムの子で、一人旅も許されてるのでしょう? 腕はかなりのものと思いますよ」
「しかし、昨日の事がありますので」リュナウィッシュは言った。「今この森の中で、子どもを一人にしておくのも、あまり……」
「だとすれば、ワシと光利が行く方が良いでしょうな」
ドルクルは光利の方を向いた。彼と視線が合った後、光利はリュナウィッシュの方を見る。
「いや、俺と皇王様で良いだろう」
「は?」
ドルクルの驚いたような、そしてどこか威圧するような声を上げると共に、リュナウィッシュも彼の方を向いた。
「この家の事は、主たるドルクルがいた方が良い。本来なら俺一人で行きたいところだが……まぁ正直、ここで待っててほしいと言っても、首を縦に振らんだろう」
光利は少し皮肉っぽい笑みを浮かべて、リュナウィッシュの方を向いた。何となく、その心内を覗かれた気がした彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「ん~」
ドルクルは更に腕を組んで俯き、更に考える。肯し難いという様子である。しかし、すぐに顔を上げた。その表情は険しかったが、
「分かりました。では怪我がないようにだけはしてくださいよ」
「約束します」
皇王の返事を聞くと、ドルクルは光利の方を向く。
「お前さんも。リュナウィッシュ様にお怪我だけは無いよう、お守りしろよ」
「分かってるよ」
そう言って光利は、壁にかかった外套と帽子を取って、その身に着けた。
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乾いた上に昼間近い日光を受けて、軽く白みがかったような土色の山道を、リュナウィッシュと光利は歩いていく。しっかり舗装され、靴の下に微かに砂利を踏む感覚があることを除けば、歩くことに何の問題もない。それさえ、意識しなければ気が付かない程である。
それに対し、周囲はやはりぎっしり木々に覆いつくされ、少し奥まったところになると、暗くて見えづらくなる。リュナウィッシュは辺りを見回し、ふと後ろに振り返る。ドルクルの小屋の合った場所も見えなくなっており、それなりに遠くまで歩いていることに気が付いた。焦燥が募り、上から下へ、背筋が凍るような気分を味わった。
「ガルティックー、ガルティックー」
リュナウィッシュは前を向き、声を上げながら、改めてあちこち視線を向けながら、少女の姿を探していた。光利はコートのポケットに手を入れ、彼女より頭一つ分大きな頭を少し上向けて、辺りの木々を見回していた。決して真剣に探している様子に見えるものではなかったが、リュナウィッシュとしてはそれどころではない程、気が気でない様子であった。
「ドルクルはあまり心配している様子ではなかったな」
光利に声を掛けられ、リュナウィッシュは彼の方を向いた。彼は視線を、彼女とは反対方向に向けていたが、すぐ彼女の方に向けた。
「ハムラムと言ったな。具体的に話を聞けなかったが、どういう村なんだ?」
「……簡単に言えば、力自慢の人々の多い村、といいましょうか」リュナウィッシュは言った。「もちろん国中で、力の強い人は多いのですが、ハムラムの生まれの者は、特にその傾向が強いのです」
「……力自慢というのは腕っぷしが強いということで良いか?」
「そうですね。大丈夫です」
答えを聞いて下を向いた光利を見て、リュナウィッシュは、彼がいまいち釈然としていないことが分かった。いかに力の強い者が多く生まれる村の出身だからと言って、それが少女への信頼に繋がる程の者なのか。異なる世界から来た彼には、違和感のある話なのかもしれない。
そう思って更なる説明を加えようとした時、唸り声が聞こえた。光利が一歩前に出て右手を皇王の前に突き出して進むのを止める。同時に、何かの殴られた鈍い音と共に、木々を薙ぎ倒しながら、一匹の巨大な何かがその前を勢いよく通り過ぎた。
「……」
リュナウィッシュも光利も呆然とした表情で前を向いていた。一瞬何が起きたのか分からず、更に何か起こったが、それが何かを処理しようとして、それでもとっちらかってしまっているような様子だった。その時、
「あーっ!!」
聞き覚えのある、溌剌たる陽気な声が聞こえたと思い、二人はそちらを見た。ガルティックが片手に、打撃部分の大きな鎚を持って、朗らかな笑顔で近付いてくる。
「光利に皇王様! 来たの!?」
「ガルティック、何をして……」
「あぁ待ってください、リュナウィッシュ様」ガルティックは遮る。「すぐ終わらせますから」
微笑みながらまっすぐ向けられた目は、しかしこれ以上無いというくらい真剣なものだった。少女の視線を追ってその向かい側に目を向けると、全長で四、五メートルはあるかと思われる猪のような怪物が、ふらつきながらも立ち上がっていた。光利が懐からワルサーを取り出す。
「大丈夫だよ」ガルティックは光利を止める。「あれくらいならどーってこと無いよ」
怪物は唾を吐き散らしながら大きく叫ぶ。一歩前に出した足は、倒れていた太い木をそのまま踏み潰した。
巨大猪が向かってくるのを、ガルティックは鎚を横に向けて待ち構える。そしてその突進を正面から受け止めた。少し後ろに押されたものの、 やがてすぐ、少女は後ろに押されることはなかった。
「……」
怪物が押してくるのを抗する両手こそ、小刻みに震えてはいるが、その笑みの顔は些かも変わってはいない。やがて、今度は逆に両手に力を込めて、鎚を前に勢いよく押し出す。そして、後ろに引いた怪物に一気に近付き、掲げた鎚でその頭を勢いよく殴り付けた。怪物は頭を上向けて、そのまま横に倒れた。
リュナウィッシュは圧倒されたように、口を小さく開き、呆然とその様子を見ていた。ハムラムの村からの旅を許可されただけあって、実力自体を疑っていたわけでは無い。しかし、それでもここまで驚異的な強さだとは思いもしなかったのだ。
巨大な鎚を軽々と振り回し、それをまるで嵐の如き勢いで叩き付け、巨大猪を先頭不能に追い込んで……しかも、その動作は軽快にして迅速、殴りつける瞬間から鎚を猪の頭から話すまでの流れは、瞬きする間も与えなかった。
先日、ラヌラーヴァが、警戒のために不意打ちでガルティックに攻撃を加えたが、確かに彼女の子の実力ならば、確かにあの場で三匹とも倒すことが出来たであろう。少女は今も軽々と大きな鎚を手に振り回し、やがて肩の上に乗せた。その顔は、満足したように微笑んでいた。
その時、後ろから、先程の怪物のと似た唸り声が聞こえた。後ろを振り返ると、先程のと比べると少し小さな、それでも充分大きなもう一匹──子どもだろうか──が、三人の方を見ていた。人間の様な表情の変化こそ無いが、進もうか引こうか、足を揺らめく旗の様に左右に踏み込ませ、明らかな戸惑いを現わしていた。
ガルティックがその巨大猪の方を向くと、鎚を前に向けて構え、戦闘態勢を見せた。怪物は一吠えすると一歩分後ろに引く。少女もそれに合わせて前に進む。
「ガルティック」
呼び止められたガルティックはゆっくりと振り返った。リュナウィッシュが真っ直ぐ彼女を見ている。
「もう大丈夫でしょう。そのまま逃がしてあげましょう」
「……良いんですか?」
「えぇ」
目をぱちくりとさせたガルティックは、鎚を下に向けて怪物の方へと目を向けた。そのやり取りに何かを察したかのように、怪物は後ろを振り返り、そのまま走り去っていく。すると、その後ろからも鈍い声が聞こえた。
三人は振り返ると、先ほどまで倒れていた巨大猪が、最初に吹き飛ばされてきた方に向かって、逃げていくように進んでいった。殴られた衝撃が未だ全身に残っている様に僅かにふらつきながら、その足は折れた枝や葉を踏み鳴らす音を立てていく。
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ドルグルの家までの道中、リュナウィッシュはガルティックに、なぜ一人で外に出たのか尋ねた。すると、一人居間にいた時、小屋に入ってきた蝶を見つけ、捕まえようとしたためだとした。
外に出た後もしばらく追いかけ、更に森の中に入ってしまったため、帰り道が分からなくなったとのことである。ふと光利は、小屋のドアと共に、窓が開いているのをちらっと見たのを思い出した。
それを聞いたリュナウィッシュは、少女の頭に手を乗せて、危険だから外に出ぬ様にと注意をした。その声音には、注意を促すというには少々穏やか過ぎた。実際、言われたガルティックの方は、頭に乗った皇王の手に両手を乗せて、笑顔で約束の返事をした。
そうしたやり取りを、少し可笑しそうに見ていた光利はふと、
「ガルティックのそれ、一体どういう仕組みなんだ?」
「ん? 何が」
「それ」光利が入れ物におさまった鎚を指さす。「大きくなったり小さくなったり。どういう仕組みなんだ?」
「あぁ」ガルティックは思い当たったという反応を見せた。「親指噛んで出てきた水っぽいのを着けると、大きくしたりちっちゃくしたり出来るんだよ」
「……」
光利が渋い顔をした。無論、今見た通りなのでそこは分かっている。そもそも、昨日の時点で聞いていた。リュナウィッシュは彼の問い掛けが、そもそも何故親指の膨らみを噛んで、そこから出てきた液体を付着させると、鎚の大小を操れるかということであることは分かっていた。
しかし光利の質問の意図を把握するには、ガルティックは幼く、同時に単純過ぎるであろうし、直接質問したとしても、上手く答えられるかは心許ないように思えた。光利はリュナウィッシュの方を見た。リュナウィッシュも苦笑して、
「ガルティックの親指の出来物や鎚は、彼女の村にある『フィウスィー』という木によってできる物なのです」リュナウィッシュが言った。「まず親指の出来物は、その木に生えた花の花弁をすり潰し、どこかの身体に付着させ、しばらく水に浸すと出来る物です。鎚は、まず持ち手はその木から、打撃部分は、その木から甲羅のように生えている物体から作るのです」
「……あの殴りつける部分、鉱物じゃないのか」
光利は少し驚いた様子で答えた。
「そうですね。ただ硬さ自体は、他の鉱物と大差はないです。岩でも砕けますよ」
「その村の人間なら、誰でも使えるのか?」
「鎚だけならば、無論誰でも使えます。ただ、出来物の方は、限られた人しか使えません。おそらくですが、ガルティックに出来物が出来たのも、旅を許された理由の一つでしょうね。限定的にしか出来物が出来ない事情は分かりませんが、出来物は、基本力の強い人にしかできないとされていますし、実際今のところ、例外は見られないそうです」
「力が強いね」光利は、大きくなった鎚の事を思い浮かべたようで、「大きくなった状態の鎚は重いのか?」
「そうです。一般男性でも、両手を使って、やっと持ち上げられるかどうかというところです。重すぎて、普通の鎚の様には使えないと言われています」
「ほぉ」
光利が感心したようにガルティックに目を向ける。彼女も、鼻高々という様子の笑みを浮かべ、子どもらしい可愛げのある虚栄心を見せた。リュナウィッシュは、光利のガルティックを見る表情を見ながら、彼がそのことを信じて受け止めていく様子を見るようだった。
作品の設定上、登場する人物の視点に合わせて、同じものでも表現の仕方を変えている場合があります。(例:コート→外套 ベッド→寝具)お付き合いいただければと思います。