静かな終わりを待ちながら
『聖光利』が、依頼主からの裏切りを確信したのは、依頼主から手配された車に乗ってしばらくしてのことだった。運転手と話をしながら、自らを新人だと称する彼には、新人ゆえの不慣れさとは別種の緊張がその話し方から窺えたし、ハンドルを握る手も、僅かながら震えていた。更に走行中の彼の車を、距離を置いて尾行してくる数台の車にも気付いた。
しかしその一方、彼は裏切りの可能性を、それ以前から感じ取っていた。依頼の仕事を終えたその日に、報酬を与えると共に、新たなる依頼をしたいというお達しが来たのだ。徹夜明けの仕事ゆえに少し休みたかったため、一日をずらしてほしいと伝えたが、海外での用事があるため、急いでいるということだった。
その要請、そして態度は、あまりに性急だった。依頼主とは懇意にしており、どういう人間かは知っていたため、こうしたことを、普段行う様な人間でない事は知っていた。
しかしまた、別の側面も知っていた。普段は豪放磊落、時には傲慢と言えるほどの性格でありながら、仕事柄か、交遊関係のためか、かなりの臆病な性質を持ち合わせ、人間不信のところがあった。実際、彼の不審を買い、始末された部下も少なくはなかった。
そうした彼の性急な要請、臆病な性質に加え、報酬の受け渡し場所が、山に近い田舎寄りの町であることも、この懸念に促した。元々いくつかの報酬の受け渡し場所の一つとして利用されており、光利も何度か利用したことはあった。
しかし、本来依頼主が拠点としている場所からかなりの距離がある上、始末されることが決定した部下が、この辺りの、特に近くの山の密林の中で処理されるという話も知っていた。こうした複数の要因を検討した上で彼は裏切りを受けたことを判断したのである。
「ここらで止めてほしい」
光利は運転手に言った。
「何か用事ですか」
運転手の妙に固い慇懃な態度に対し、光利は微笑みながら、懐から取り出したワルサーを、運転手の座席の中央辺りに押し付けた。運転手は背筋に固いものが当たるのを感じたのであろう、光利が何をしているのか、何を言わんとしているのか、その意図を検討つけたようだった。当然ながら運転手も、光利がどういう男なのかを知っていたのだ。
「……どこへ行かれるのですか」
銃口を突き付けられたゆえか、運転手は先ほど以上に緊張した様子で問い掛けた。
「この車の向かう先だよ」
「……危険かと思いますが」
「というのは?」
「山に向かわれる途中、襲われるのでは?」
運転手の妙に律儀な意見に、またも光利は小さく笑った。そして、ワルサーを横に置き、徐にコインを出すと、右手でコイントスをして手の甲でそれを受け止めると共に左手でそれを覆い隠し、運転手の方にそれを近付ける。
「表」
運転手もそれを見て、
「……裏」
運転手の答えを聞くと、光利は左手を離す。コインは表を向いていた。光利は左手でコインを手にして、右手でワルサーを持った。
「相手がどう出るかの判断材料が無いなら、賭けるしかない」
光利はコインを見せながら運転手に言った。運転手は、感心したような、呆れたような曖昧な笑みを浮かべて車を止める。光利は車から降りると、そのまま山の方へ向かった。
光利が車を降りたのは、こうすることで相手に自分の行動を読ませる──即ち、既に彼らの事に感づいているのだということを示すためであった。相手がどう出るかを徒に待つのではなく、あえてこちらから積極的に攻めて行く方が、教われる危機感に対しても機敏に反応することも出来たし。相手が相手に対する牽制にもなる。
また、運転手にはああ言ったが、正直光利としても、相手に関する判断材料が皆無ではなかった。彼の依頼主の組織の連中は、その末端に至るまで、まるで依頼主の性格の反映であるかのように、かなり警戒心の強かった。
何度か彼らの何人かと仕事をしたことがあったが、ある出来事に関して、光利にとっては問題は無いと判断した場合でも、彼らがそうした警戒心故に、そうでないとする場合も多く、少々面倒に感じさせられたことも一度や二度ではない。
そんな彼らが、如何に田舎で、辺りに車も人もいないといっても、こうした町の真ん中で、襲撃や銃撃戦を行うなど考えられなかった。そこまでの愚劣さ、あるいは無謀さを持ち合わせているような連中ではないはずであった。
そして実際、彼は背後で尾行してくる車を警戒していたにも拘わらず、結局襲われることはなかった。そして、深夜の真っ暗闇の山に入り、人気の無いことを確信して初めて、彼らは車を降りて、山の中へと入っていく。
──山腹の傾斜、木々が至るところに聳えている中を、三人の黒ずくめのスーツの男達数人が何組かに別れて、急いで駆け上がっていく。それぞれの手には拳銃が握られている。時刻は十二時近くの深夜。ろくな灯りが無い中、何かを探しているかのように、皆それぞれ周囲を見回していた。
その時、何かの弾ける音が聞こえたかと思うと、その内の一人が倒れた。
「!!」
二人が、倒れた男の方に目を向けた。すると、更に二発が放たれたかと思うと、その二人も倒れ、一人はその傾斜に転がっていく。
……聖光利は右手に持った、銃口にサイレンサーを装着させたワルサーPPKを下げる。黒色のソフト帽、ベージュ色のコートを着ており、ボタンは首元までしっかり止めているその姿は、この状況下にあっても冷静そのものであった。
コートから下から伸びる足には、黒色のスラックスが履かれている。男は目を右側に向ける。撃ち抜いた三人と似たような背格好の男達がこちらに向かってきてあるのを見て、一旦その場から離れた。
光利を追うスーツ姿の男達は、同僚の死骸を見て以降、先程よりも差し迫った様子で辺りを見回していた。逃げることは無論のこと、暗殺に失敗すれば、彼らの命もないのだろう。何組かに別れていた者達も、その辺りに集まって、光利を探すことに躍起になっていた。
あちこちに目をやっていた男達の中の一人に、光利は木陰から銃口を向けると、躊躇うこと無く引き金を引いた。サイレンサーにより抑えられた音と、仲間の一人がまたも倒れた音に反応した男が、銃口のした方に向けて発砲していく。彼らから音が近かった。
しかし、弾は木に当たるかあらぬ方へ飛んでいくばかりで、誰かを撃ち抜く事はなかった。男は両手で持って前に向けていた銃口を、前方を凝視しながら下ろしていく。すると、後ろからかなりの勢いで何かが過ぎるのを感じ、後ろを振り返って銃口を向ける。
……そこには誰もいない。そして、いつの間にかその後ろに回り込んでいた光利に、その頭を撃ち抜かれた。銃口を向けられたことすら、気付けなかっただろう。
まだ数としては少なくない男達が、光利の方を見た。標的はもはや隠れるどころか、その素振りさえ見せない。男達はそれぞれ銃口を彼に向けて発砲する。当たらぬ銃弾が通り過ぎる中、光利は平然と落ち着き払った様子で、彼らの集まっている方へ歩き出し、機敏な動作で銃口を相手の中の一人一人に向けて、引き金を引いた。光利の放つ銃弾は全て、敵方の男達の頭に命中した。
最初に仲間を三人殺されて以来、男達の焦りが昂じたのは事実であるが、元より彼らは、ある意味それまで受け持った仕事以上に、緊張していた。殺し屋稼業を営む聖光利の話しは、当然彼らにも伝わっており、特にその冷静さ、度胸、頭の切れのよさに加え、銃の腕前は有名だった。彼によって放たれた銃弾はほぼ確実に対象を撃ち抜いたし、しかもほとんど一発でその命も奪ってきた。
それは深夜の暗い山腹においても変わらなかった。
男達は暗闇の中で、辛うじて認知できた彼に向けて、銃弾を撃たねばならなかった。それは相手も同じはずであるのに、彼らがことごとく銃弾を外すのに反し、光利のそれは全て彼らを始末していく。
この非対称が、彼らをなお焦らせた。おおよその一塊を始末すると、光利はまだ数人いる方を向き、撃ちながら近付いて来る者達を、次々と撃ち抜いていく。そして、何らの苦もなく、光利は彼ら全員を始末した。最後の一人を始末した時、倒れた身体が、斜面を転げて行く際の、草の触れ合う音がした。
光利はワルサーを下ろす。辺りに人のいないことを確認すると、これからどうするかを考えた。裏切り者を始末するか? いや、今回の件を盾に脅迫するのも手である。もはや以前のような関係には戻れないし、彼としても一度このような行動に出られたのでは、彼を信用する気もなかった。もとい、それは相手も同じであろう。
とはいえ、今この場で即座に決めねばならぬことではなかった。山を下りながら、ゆっくり考えていけば良い。そう考えた光利は振り向き、山道の方へ斜面を歩き出した。
……その時、上の方で地面を踏みしだく音がした。光利は頭を上向けると共に、銃口を前に向ける。響いた二つの銃声が重なり、上にいた者が倒れた。光利も自らの脇腹の辺りに強い衝撃と激痛、何かが一瞬のうちに貫通するのを感じた。
銃口を前に向けたまま、脇腹に目を向けることこそ無かったが、何が起きたかは即座に察した。銃を下ろし、脇腹の方に左手をやる。触れた瞬間、継続的に響いていた痛みが一瞬強くなり、その手に滑り気もあった。
左手を見る。闇目にも鈍い赤色と分かる血が、少しばかり垂れていく。それを確認すると、光利はやはり落ち着いた様子でコートのポケットからハンカチを左手で、コートが汚れぬように取り出した。
そして血をおおよそ拭い取ると、ハンカチはそのままその場に投げ捨てた。そしてサイレンサーをワルサーから取り外し、それぞれ懐へと戻した。武器を知で汚すことなく収めた光利は、痛みが走るのもそのままに、左手で脇腹を抑えたまま、斜面を上がっていく。
山道に達して、倒れた男を見下ろす。うっすらと目の開いているその顔は血まみれだったが、運転手だとすぐに分かった。驚くほどの事もなく、考えてみれば当然のような気もしてきた。
しかし音がするまでの間、本当に何の気配も感じなかった。見た目に反し、車の中の彼の事を、その臆病そうな態度を思い出す。あれは演技だったのか、熟練した手練だったのか、それとも天性の才能の持ち主なのか、今となっては分からない。
コイントスをし、賭けに勝ち、つまらぬ言葉を残しておきながら、致命傷を負わされたことを思い、光利は自嘲するように笑った。表に向いた面を無理やり裏に反された様に感じなくもなかったが、ともあれその手腕は、実に見事なものの様に思えた。
光利はそのまま山道の真ん中まで歩き、下りと登りをそれぞれ見比べる。このまま生き伸びることは出来ないだろうという気がしたし、そうすると下山することが何となく、延命への希望のように思えてきて、その生への執着に妙な卑しさを覚え、そのまま登ることにした。
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しばらく山道を進むと、広い草原に出た。木々の囲まれた中、ある一点の所から更に道が上まで続いているが、足元も覚束なくなっていたので、その真ん中まで来て足を止めた。振り返ると、山の近くの暗い町並みを隔てた遠い先に立ち並ぶ都会の煌めきが、妙に美しく見えた。
マンションやビルに不規則に点いている灯り、繁華街の猥雑な、赤や緑や黄色の煌めき、高速道路を走り去っていくヘッドライト、住宅街の少ないながら、だからこそ目立つ明かり……それらは全て、これまでも見慣れたはずのものであった。
身体中が冷えきっている。額から汗が垂れ流れるのが感じられた。正直、立っていられないほどであった。そんな身体の要請に答え、光利はそのまま腰を落とした。しかし、本当は座り込むだけにするはずだったのが、そのまま仰向けに倒れてしまった。余程身体が弱っているのだと、光利はその時初めて気付いた。
周囲に目立つ明かりが無いため、街中ではなかなか見られない星々が、散りばめられていた。染み入るようなそんな光景を目にしながら、光利はそっと、それらを吹き飛ばそうとするように、弱々しく息を吹いた。
死が近付いている。それは確実だった。先程よりもかなり眠いし、まぶたも重い。血の気が感じられず、視界はぼやけていた。そうした状態にあって彼は……不思議と、何の恐怖も感じなかった。
基本、当人の思惑や理性に先立ち、感情が身体に何かしらの影響を及ぼすこと自体稀ではあったが、それでもこれ程恐怖がないのもおかしなことだった。汗はかいても涙は流れなかったし、うち震えるということもなかった。むしろ、冷静に思考を働かすこともできた。
生を受けて今日に至るまで二十年を生きてきた。初めて銃口を人に向けて引き金を引いた時から、全うな死に方はできないだろうとは思っていた。今この状態も、なるべくしてなったとしか思えなかったので、ただただ平静に受け止めることは出来た。
とはいえ、まだ死は到着しない。渋滞でもしているのだろうか。夭折願望があるわけではないが、何もなく、何も出来ない状態でいるのには、何となくうんざりさせられるものがあった。しかもそうした状態は、確実なる死のためのものである。
そう考えると、光利の中に、妙に子供っぽい発想が生まれた。何となく、明日のことを考えようと思ったのだ。未だ来ぬ死に向けて、舌でも出していようと思ったのだ。先程、死が怖くない、感情が思惑や理性に先立つことはないとしながら、都会の明かりを綺麗だと感じたのは、死に対する意識の、感情的な働きではないかとも思われた。そう考えると、なんだか先程感じた感慨も嘘のような気がしてきたし、今までも自分にはない反応を引き起こした死が、なんとなく憎たらしく感じられたのである。
明日、もし目を覚ましたらどうしようか。そもそも、覚ますのだろうか、起こされるのだろうか。起こされるとしたら誰に? 警察か、組織のものか。ある意味警察の方が楽ではある。上層部の連中の中に何人か見知ったものがいたので、脅しさえすれば、良い守り役として機能してくれそうである。
裏切った組織の者だったら? そもそも起こすだろうか。生きていると判明した時点で殺してきそうである。いや、逆に恐れをなして謝る可能性がある。本来はあり得ないが、前述の様に、恐ろしく気の小さい人間である。
脇腹を撃たれてなお生きているとなると、逆に恐れをなしそうであった。これについては様々な可能性があるが、面白いものは無かったのでやめるとする。通りすがりの一般人に起こされるか? 身体を起こした時点で逃げ出しそうな気がした。
埒なくそんなことを考えていると、ふと以前、オタク趣味を持つ知り合いから、死んだ人間が異世界に、転生するか転位するかみたいなアニメを観せられたのを思い出した。内容は特に覚えていないが、確かトラックか車に轢かれてそうなったはずである。しかし自分は轢かれたわけではない。撃たれてからの衰弱死でも行けるのだろうか。いくら強い力を得ようと、あまり使い慣れないものは欲しく無い気もした。
そんなことを考えていると、こんな下らない想像を働かせる自分はなんなのかと可笑しくなった。確実にありえない、少なくとも、ここまでで一番ありえない可能性である。こうしたことを考えるのは、余裕からか、あるいはこうした形で命を惜しんでいるからなのか、彼にはよく分からない。ただ、余裕であってほしいという希望はあった。
次第に、考える気力さえ無くなってきた。一つため息をつくと、後頭部を地面に着けた。砂や小石のざらつきや、雑草の軽く刺すようなくすぐったさが仄かに感じられた。しかし、先程は比較的していた草木の淀んだ匂いは、既に遠のいていた。
光利は目を閉じた。死を恐れない。それはこの瞬間まで変わらない。少なくとも死によって生じる何の感情もないのである。そんな冷静な面持ちのまま、死がすぐ側まで来ているのは分かった。後はその手に任せるだけである。そんなことを、考えるともなく考えるうち、自分が暗い淵に沈み出したのを感じた。
そして……ふと、自らのいる場所が、突如として歪んでいくのが感じられた。もはやそれが何かを確認するまでもなく、彼の意識は途切れた。
作品の設定上、登場する人物の視点に合わせて、同じものでも表現の仕方を変えている場合があります。お付き合いいただければと思います。
(例:コート→外套 ベッド→寝具 等々)